3. 霧の都とタウンハウス 1
エルの暮らす国は、特に中央より北に行けば晴れている日の方が少ないという。それを示すように、国王や貴族が集う中央の都は、霧の都と呼ばれている。
だが、エルが到着したその日は珍しいほどの青空が広がっていた。
「エルお坊ちゃま、到着いたしましたよ」
道中はわくわくと、馬車の外を流れる景色を眺めていたエルも、途中で疲れ果てた。アルマに抱っこされお昼寝をしていたところで、優しく起こされる。
エルは目を瞬かせて、小さく伸びをした。
「ついた?」
「ええ。着きましたよ」
アルマが優しく答える。彼女の言う通り、いつの間にか馬車は停まっていた。外では使用人たちが慌ただしくしている気配だ。恐らく、運んできたエルの荷物を屋敷に運び込んでいるのだろう。
「抱っこしていきますか? ご自分で歩きますか?」
「あるけるよ」
エルはもう大人なのだ。家族とはいえ、初めて会う両親と兄姉の前では、しっかりと立派なところを見せたい。
自信満々にエルは請け負った。とは言っても、馬車の段差は高い。アルマの手を借りて馬車から降りる。
よっこいせと地面に降り立ち、アルマからカートン卿を受け取ると、エルはいつものようにカートン卿を抱きしめてきょろりと周囲を見渡した。
「ふわぁ……」
『さすがだな。立派だ』
カートン卿の囁きに、エルは夢見心地で頷く。
エルの家族が住んでいるというハートフォード公爵邸は、三階建てで屋根裏部屋も付いているようだった。エルの住んでいるマナー・ハウスは一部が二階建てになっているものの基本は平屋で、広大な敷地にどこまでも続いている。だが、ここでは公爵邸といってもマナー・ハウスに比べて敷地は狭く、その分を高さで稼いでいるのだった。とはいっても、十分すぎる広さだ。母屋はコの字型で、その奥には使用人用の棟もあるらしい。なにより、一つ一つの窓が大きく、見るだけでも美しかった。
ぽかんとエルが口を開けていると、隣のアルマが微笑ましそうにしながらも、そっと促した。
「閣下とご家族がお待ちですから、そろそろ中に入りましょうか」
「……うん」
心ここに在らずといった様子で、エルは頷く。カートン卿を抱えている手とは逆側でアルマと手を繋ぎ、エルはゆっくりと歩き始めた。
綺麗に整えられた門扉前の庭は芝生が広がっている。馬車が通って来た砂道は円を描くように芝生を取り巻き、道の外側に広がる芝生の端には木々が植えられていた。
アルマに促され、エルは正面玄関の階段を上る。若く見目の良い青年二人が恭しく扉を開けた。すると、中ではグレンより年嵩の男性が待ち受けている。きょとんと彼を見上げるエルの横で、アルマはエルと繋いでいた手を離し、綺麗な礼を取った。
「オスニエル様のご帰還にございます」
「お待ち申し上げておりました、オスニエル様。デニスと申します。ご家族がお待ちですので、どうぞこちらへ」
初老の男はアルマに一つ目礼すると、自分の膝にも足りないエルに礼を尽くした挨拶を述べる。エルは少し戸惑ってアルマを見上げるが、アルマが横目で微笑み一つ頷くと、ほっと安心したように表情を緩めて一歩、前に出た。そして、デニスと名乗った執事の後を追う。
デニスとエルは、長い廊下のような、長方形の小部屋を渡り歩く。エルの馴染んだマナー・ハウスの内装と比べて、全体的にきらきらとしていた。床に敷かれた絨毯は毛が長く、美術品も飾られている。
『東方絨毯だな』
(とーほー?)
エルに抱きかかえられたカートン卿の独り言に、エルはぴくりと反応する。絨毯という単語は知っているが、東方という言葉は初めて聞いた。
『ああ。遠い国から持って来た絨毯だ』
改めて、エルは長い廊下の床に敷かれた絨毯を見る。絨毯は色とりどりの柄が施されていた。中央には丸い天窓のような柄があり、左右と上下が対象になっている。隅には房が付けられていて、絵本に出て来る『空飛ぶ絨毯』のようだった。
幾何学模様に見える柄は、エルの目にも面白く映る。なんとなく、エルは柄の中でも赤色の部分を選んで踏みながら歩き始めた。ぴょこぴょことした動きを、デニスが肩越しに眺めていることには気が付かない。
隅まで来たところで、エルは自慢げに後ろを振り返った。当然、そこにはアルマが居るものだと思っていたのだ。
だが、誰も居ない。思わず足を止めて立ち尽くしたエルに、デニスは声を掛けた。
「オスニエル様。どうかなさいましたか?」
その声音は、デニスにしては優しいものだった。だが、初対面のエルには分からない。少し言い淀んで、エルはぎゅっとカートン卿を抱きしめる。そして、恐る恐るデニスを見上げた。
「──あるまは?」
デニスはわずかに片眉を上げる。だが、エルには分からない程度の変化だった。
「アルマは、オスニエル様のお部屋を整えに行っております。後ほど、お会いになれますよ」
「わかった」
アルマが傍にいないことで少しの不安が頭をもたげたが、デニスに言われた途端、不安はあっという間に消えてなくなる。
再びエルはカートン卿と一緒に、元気に歩き始めた。といっても、目の前には立派な扉がある。重厚な黒い扉で、見るからに重たそうだった。
「こちらにご家族がいらっしゃいます」
それだけ連れて、デニスは白い手袋を付けた左手で扉を開ける。ゆっくりと開いた先は、これまでの小部屋とは比べ物にならないほど広い部屋だった。壁はエルの背丈までは白で塗られ、頭より上は緋色に彩られている。壁には驚くほど大きな絵画が飾られていた。
長い壁の中央付近には白い暖炉が設えられていて、それを囲むように、天鵞絨の赤い布が打たれたソファーと一人掛けの椅子が数脚、置かれている。
暖炉の反対側は大きな窓ガラスが天井まで嵌められていて、窓と窓の間の壁は濃緑だった。濃緑の壁の前には白いテーブルが、そしてそこに雰囲気のあるランプが置かれている。
天井も綺麗な装飾が施され、中央には壮大なシャンデリアが飾られていた。
だが、エルの目は、芸術的な室内をほとんど映していなかった。室内のソファーや椅子に腰掛けている、なんとなく見覚えのあるような──けれど、間違いなくエルが知る彼らよりも年月を重ねた人々を、凝視する。
「エル──っ!」
感に堪えぬ様子で、女性がエルの名前を呼んだ。エルがそちらへ顔を向けると、エルと同じ金髪碧眼の女性が、目を潤ませながら立ち上がる。そして、彼女は仕立ての良いドレスの裾を翻して、小走りでエルに駆け寄った。
びっくりして目を丸くするエルの前にしゃがみ込み、女性は優しくエルの頭と頬を撫でる。ふんわりと、良い香りがエルの鼻腔を擽った。
「ああ、こんなに大きくなって──顔色も良くて、元気そうで本当に良かった。オスニエル、可愛いエルちゃん、わたくしが分かりますか? あなたのお母さまですよ」
「おかあさま?」
そういえば、アルマに教えて貰った肖像画の母もこんな顔立ちだったかもしれない。
そんな感想を抱きながら、エルは言われた通りに母を呼ぶ。すると、完全に感極まった彼女はエルの小さな体を、カートン卿と一緒に抱きしめた。
「そうですよ、あなたのお母さまです!」
『熱烈だな……』
カートン卿がぽつりと呟くが、エルは(ねつれつって、なあに?)と尋ねながらも、大人しく母の抱擁を受け入れる。
少ししても、母がエルから離れる気配はない。エルの視界は母とカートン卿の体で占められていたが、そこでようやく、少し呆れを滲ませた、しかし優しい声が響いた。
「ソフィア。気持ちは分かるが、落ち着きなさい。これから幾らでもエルとは一緒に居られるんだ」
「え──ええ、そうですわね、あなた。ごめんなさい、気持ちが昂ってしまって」
言いながら、母ソフィアはゆっくりとエルを離す。名残惜しそうにしながらも、彼女は立ち上がってエルの手を引いた。
「こちらへいらっしゃい、エルちゃん。家族を紹介するわ」
「あい」
一瞬エルは言葉に詰まったが、すぐに答える。その代わり舌足らずになったが、少し緊張しているせいか気が付かなかった。同時に、室内にほっこりとした空気が流れる。
エルはソフィアに導かれて、暖炉に一番近いソファーに座らされた。もちろん、カートン卿も一緒である。カートン卿とほとんど同じ大きさで、ちんまりと自分たちを見上げるエルを前に、母ソフィアは相好を崩していた。
「お母様、この子、可愛いわ」
紹介すると言われながらも、最初に口を開いたのは年上の女の子だった。少し勝気そうな顔立ちで、きびきびとした口調だ。栗毛色の髪は、母ではなく父の遺伝らしい。エルを見る緑の目は爛々と輝いていた。
ソフィアは、微笑みながら少女をエルに紹介した。
「ロレッタよ。あなたのお姉さま。今年、十六になるの。大人の仲間入りね」
「そうよ。あなたのお姉さまなのよ。色々なことをして遊びましょうね、エルくん。呼びにくかったら、ローリーお姉さまって呼んでちょうだい」
「ろーりーねえさま?」
「──それで良いわ」
少し舌足らずなエルの呼び方に、ロレッタは堪らないと言った様子で顔を抑える。震えるロレッタの横では、垂れ目の小柄な少女が、少し呆れた様子でロレッタを眺めていた。エルを除けば最年少だが、それでもエルよりは随分と年上だ。
彼女はのんびりと顔をエルに向け、おっとりと口を開いた。
「セフィよ。本当はセラフィーナっていうんだけど、みんな、セフィって呼ぶわぁ」
「せふぃねえさま」
「ふふ、なあにぃ? エルくん」
セラフィーナは穏やかに笑いながら、小首を傾げる。セラフィーナはエルと同じで、母ソフィアに似ていた。
エルは、セラフィーナに「エルくん」と呼ばれたことが何となく嬉しくて、セラフィーナと顔を見合わせたまま、へへへと笑う。ほんわかとした雰囲気が流れた。
そこに、厳格な声が挟まった。まだ若々しい青年の声だが、既に威厳に満ちている。
「次は私だな」
顔立ちは父にそっくりだった。ロレッタより三つだけ年上だが、その風格は圧倒的だ。既に社交界にも顔を出し、次期公爵家当主として広く名を知られ始めた嫡男だ。
ロレッタが目を瞬かせて、「お兄様」と呟いた。
ペルシャ絨毯…!!




