2. 修道士と不可思議な夢 4
エルは、その印象的な目を瞬かせた。
「じぇい?」
それは呼び名だろうか、と、エルはカートン卿の頭にもっふりと顔をうずめて考え込んだ。
人の名前は長い。
皆からエルと呼ばれているが、エルの名前は「オスニエル」だ。アルマやグレンは名前が短いが、それは「使用人」だからだと、教えて貰った。使用人は爵位がない人がなるものであって、貴族は使用人にはならない。だから、立派な名前があるのだと、どこかで聞き齧った覚えがある。
しかし、今エルが居るのは教会だ。それも、単なる教会ではない。修道院の敷地にあり、週末には修道士が祈りを捧げるのだと、昼間に聞いた。
うーん、としばらく考え込むエルを、ジェイと名乗った青年は気長に待っている。優しい微笑を──それはむしろ内心を悟らせないためのアルカイックスマイルだったが──微動だにさせず、彼は自分の膝丈くらいしかない幼子を見守っている。
やがて、エルはもっふりとしたカートン卿の頭から顔を上げて、青年を見上げた。
「じぇいは、しゅーどーしなの?」
「それは、内緒です」
青年は人差し指を唇に押し当てて、にっこりと笑みを深める。
「ないしょなの」
エルは、あまり内緒にされることに慣れていない。これまで、どんなことであっても、アルマやグレンは何かしらの回答をエルにくれていた。全て正直に答えていたわけではないが、アルマやグレンが教えてくれた話はエルにとって満足できるものだったので、問題はない。
そんな無邪気さを発揮して、エルは思うがまま尋ねる。
「なんでないしょなの?」
その質問を、ジェイと名乗った青年は想定していなかったらしい。笑みが固まる。だが、エルはその変化に気が付かなかった。そもそも自分の疑問でいっぱいいっぱいだし、なにより地下は暗くて、身長差のある青年の表情は良く読み取れない。
焦ったのはカートン卿だった。何となく空気を読み取って、少し慌てた様子でエルを制止しようとする。
『お、おい、エル坊』
だが、興味津々になったエルは止まらない。きらきらの瞳で、期待に満ちた視線をジェイに向ける。
ジェイは困り切った様子だったが、やがて小さく笑みを零して「実は」と声を潜めた。
「私は、これから先、この世界がどうなるのか知っています。敵に狙われるのかもしれないので、今ここにこっそりと来ているのです。私の身分を明かせば敵に勘付かれてしまうかもしれないので、内緒なのです」
「そうなんだ。わるものがいるの?」
ジェイと名乗る青年の言葉を全て理解できたわけではない。ただ、相手が真剣だということは良く分かった。精一杯真面目な顔で、エルは考え考え言った。
少し驚いたように軽く目を瞠ったジェイだが、すぐににっこりと笑みを深める。
「その通りです」
『エル坊、こいつが悪い奴かもしれないぞ。気を付けろ』
少し厳しい声で、カートン卿がエルに囁く。エルはちらりとカートン卿を見下ろしたが、すぐに視線をジェイに向けた。
カートン卿は警戒しろと言うが、エルの目から見たジェイは悪人に見えなかった。むしろ、少し前に屋敷に迷い込んで来た小さな野良猫に似ている。アルマやグレンといった大人には早々懐かなかったのに、エルにはすぐに甘えるようになった。
新しい人たちに囲まれて不安なのですよ、とアルマに教えてもらい、そういうものなのかと思った。
今、ジェイと名乗った青年は、その子猫と同じような雰囲気だな、とエルは漠然と思う。ただ、それをどう言葉にできるのかは分からない。だから、エルはカートン卿に返事をせずジェイに尋ねた。
「わるものって、だあれ?」
ジェイがほんのわずかに笑みを深める。そして、彼は厳かに告げた。
「それは、この国を統べる者」
カートン卿が息を飲む。
この国を統べる者──それが示す者は、ただ一人だ。ジェイと名乗る青年は国を揺るがす気に違いないと、カートン卿は緊張を体中に漲らせる──とはいえ、くまのぬいぐるみなのでフワフワのままなのだが。
「──?」
そして、肝心のエルはきょとんとしていた。まだ幼いエルには、ジェイの言葉は難しすぎた。
しばらくエルの反応を待っていたジェイは、ようやく自分の発言がエルに通じていないことを悟った。「あ」と小さく声を漏らすと、一つ二つと空咳をする。そして、改めてエルに告げた。
「国王──王様のことです」
「おーさま?」
「そうです。その王様が、小公子──ハートフォード公爵家一門やウィルキンソン伯爵家一門、そしてこの地域一帯に住む人々を殲滅するのです」
沈鬱な表情で、ジェイは説明する。カートン卿の空気が堅いが、エルはそれどころではなかった。
これまでエルに色々なことを教えてくれたアルマやグレン、そしてカートン卿の話には出て来なかった言葉が盛りだくさんだ。当然、難しすぎる言葉もいっぱいある。それでも、ジェイが心底真剣であることは分かった。
相手が自分を大人として──同等の存在として扱ってくれている。子ども扱いをされていない。それならば、エルは立派なお兄さんとして、きちんとジェイの会話の相手を務めなければならない。
アルマやグレンはエルを尊重しているらしいが、時々、子供扱いをすることがあった。
昼間だってそうだ。ウィルキンソン伯爵のことを聞いたのに、アルマは「大きくなったらお勉強しましょうね」と言っていた。エルはもう十分大きくなって、病気もすることがなくなったというのに、まだ赤ちゃんのように扱われることがある──それは、エルにとってはちょっぴり──いや、大いに自尊心を傷つけられることだった。
エルの小さな形の良い頭は目まぐるしく働く。そして、エルは一つの答えを導き出した。
「おーさまが、わるものなの?」
「ええ──そうですね」
ジェイが微妙な表情になった。エルの年頃で納得できる言葉を選んだと理解はしつつも、自分が極悪人だと伝えたかった国王が、単なる悪者になり下がった気がしたのだろう。
薄らとそんなジェイの心境を察したカートン卿は、未だ警戒しながらも、ほんの少しばかりジェイに同情した。
「わるいことをした子は、おこらないといけないんだよ」
ふんす、とエルはカートン卿を抱えたまま胸を張る。
お兄さんだから、エルは赤ちゃんが悪いことをしたら教えてあげるものだと知っているのだ。
「え? ええ──そうですね?」
「うん、そうなんだよ。だから、おーさまに、それはわるいことだよって、おにいさんが、おしえてあげたらいいよ。できる?」
エルは、今度は眉を八の字にして心配そうな表情になった。上目遣いに、ジェイを窺う。
ジェイは一瞬言葉を失ったが、すぐに「それが」と溜息を吐いた。
「王様は、悪いことを企んでいるのは確かなのです。ですが、それを阻止できる人はいません。えっと──王様は、この国で一番偉い人ですから。ね?」
普段使っている言葉ではエルは分からないと話している最中に思い出すのか、ジェイは説明をし直す。
エルはここでもやはり至極真面目な表情で、こっくりと頷いてみせた。
やはり良く分からない言葉がたくさんあったが、おうさまが悪いことをしようとしているのに、誰も止める人がいないのだということは理解した。そして、それはつまり困る人がたくさんいるということだ。
「うん。わるいことをしたら、こまるひとがいるんだよね。える、しってるよ」
アルマは、エルに色々なことを教えてくれる。そして、悪いことをしたら困る人がいるということも教えてくれた。
たとえば、エルが晩ご飯がきらいだと言って、一口も食べなかったとする。すると、頑張ってご飯を作ってくれた料理長は悲しい。エルが楽しいからといって庭に植えられた花を勝手に抜くと、せっかく花を育て上げた庭師が困ってしまうし、悲しい。
もちろんエルはおりこうさんなので、本当に他の人を困らせたり悲しませたりするようなことはしていない──という自負がある。
エルは、真面目な顔で頷くと、めい一杯きりっとした顔でジェイと名乗る青年を見上げた。
「じゃあ、える、こまってるひとがいたら、たすけてあげる!」
時にはどうしようもないこともある。今回もそういう話だと、エルは理解した。
王様は悪いことをするのに、誰もそれを止められない。だから、困ったり悲しんだりする人が生まれてしまう。そういう時は、困ったり悲しんだりしている人を慰めてあげれば良いのだ。
アルマやグレンも、指先を紙で切ったとか、アイロンで火傷をしたとか、そういう時にエルが「痛いの痛いのとんでいけ」とおまじないを唱えてあげると、すぐに治ったと笑ってくれる。
だが、ジェイにとっては全く予想だにしない回答だった。
「──へ?」
端正な顔立ちの薄い唇から、素っ頓狂な声が漏れる。
呆然とするジェイの前で、エルは新たな使命に燃えていた。
王様は、この国で一番偉い人だ。だから、そのせいで困っている人も──エルが想像する以上に、居るに違いない。
「じゃあ、ぼく、いくね。あしたから、こまってるひとを、みつけてあげなきゃいけないから」
たくさん寝ないと、頭がちゃんとお仕事をしませんよ──それもまた、アルマが繰り返し言い聞かせて来たことだ。
今日は眠られずにカートン卿と夜半過ぎの冒険に出かけたエルだったが、新たな使命を得た時点で冒険としては及第点以上だ。すでに、エルは十分すぎるほど満足していた。
「いえ、そうではなく、あなたが国王になれば──」
慌ててジェイが言い募るが、エルは自分の思い付きに満足していた。
そして、その隙を逃すカートン卿ではない。
『エル坊、そろそろアルマが起きる頃じゃないか?』
「あ、そうだ! あるま! あるまがおきちゃう!」
夜にベッドを抜け出すなど、アルマに気付かれたら一大事だ。雷が落とされることは、エルにも分かる。
これから、わるもののせいで困っている人を助けなければならないエルにとって、アルマの監視が強くなることは避けるべき事態だ。
「いえ、あなたの乳母は明日の朝までぐっすりと眠っていますから心配は──」
「じゃあね、おにいさん! おやすみなさい」
アルマに見つかっては大変だ、と焦ったエルの耳に、ジェイの言葉は届かない。
それでもきっちりとお辞儀をしたエルは、たどたどしい足取りで地上に繋がる階段を上がり、一目散に自分が寝泊まりしている部屋へと向かう。
無理にそんなエルを引き留めることもできたジェイは、しかししばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。
これまで秩序だった生活をしてきた彼にとって、エルの反応は徹頭徹尾、予想を覆すものだった。
「──幼児は、あのようなものでしたでしょうか……」
思わず、ジェイの口から本音が漏れる。考えていた以上に、自分が普段使っていた言葉は通じないし、理屈もジェイの常識とは違うところにある。
「王家と血筋の近いハートフォード公爵家であれば、玉座を得ることもたやすい。ハートフォード公爵家とウィルキンソン伯爵家が取り潰される時期を鑑みれば、オスニエル小公子にその役割を担って貰うことこそが──破滅の運命を避けるために必要不可欠だというのに」
苦々しい溜息が、ジェイの口から洩れる。
「今生でも、私は道を誤ってしまったようです」
破滅の運命は避けられぬことなのかと、ジェイは両手に顔をうずめた。
ローブに隠されていた銀色の髪が、さらりと零れる。
それは、「知」の伯爵家ウィルキンソンの出自を示す印に他ならなかった。




