2. 修道士と不可思議な夢 3
エルがゆっくりと引っ張った扉は、重たいはずなのに、軽々と開いた。だが、エルは違和感を覚えない。
絵本のハリネズミも、自分の体より何倍も大きい扉を開いていたのだ。それに、アルマやじいやのグレンが開けられる扉を、自分が開けられないはずがないと信じている。
だが、エルにしっかりと抱えられたカートン卿は、つぶらな黒い瞳に少しの警戒を浮かべていた。
今はまだ週末ではない。週末に修道士が祈るためだけに使われる教会が、平日のこんな夜半に鍵を開けているはずもないのだ。
一体なぜか──とカートン卿が疑問を抱いているのを後目に、エルはわくわくと周囲を見渡していた。
扉から入っても、もう一枚重厚な扉がある。樫の木でしっかりと造られた古い扉には、細々とした美しく繊細な草花の文様が彫られていた。天井を見上げれば、聖書の一節が色彩豊かに描かれている。どこに立って見上げても、天使はエルに視線を注いでいるかのようだった。
エルは、もう一つの扉にも手を掛けた。
『おい、エル坊。俺を勝手に置くな』
「おいしょ」
片手では難しかったので、苦情を言うカートン卿を一度地面に座らせる。そして、両手でうんと力を入れて引っ張った。すると、重たい扉がゆっくりと開いた。
再び閉じてしまわないようにしっかりと開いて、エルはカートン卿を抱えあげる。いつもアルマがそうしてくれるように、エルはカートン卿の少し埃で汚れたお尻を軽く払った。満足そうに、エルは得意げな笑みを浮かべる。
「これで、だいじょうぶ」
『なにも大丈夫じゃないんだが』
カートン卿は今にも頭を抱えそうだ。
だが、エルはやはりここでも気にしなかった。きょろきょろとあたりを見回しながら、教会の中に入る。
中は、玄関ホールよりも随分と広かった。綺麗に整列した長椅子は簡素で、背もたれの裏側には刺繡があしらわれた袋が掛けられている。中央から少し横にずれた場所には螺旋階段があり、地上から天国に誘うような意匠が施されていた。二階席の回廊へ続いているが、今は扉に鍵が掛けられ道が閉ざされている。
天井には一層壮大な絵画が描かれて、どれほど長く見ても飽きないほどだった。
正面の祭壇に対峙するように、入り口頭上の二階席には大きなパイプオルガンがある。
「……きれいねえ」
ほうっと感嘆の溜息を零して、エルはうっとりと呟いた。
エルが暮らしていた公爵領の屋敷にも、もちろん教会があった。荘厳な雰囲気だったが、お祈りの時間は退屈で、エルはつまらないと思っていたものだ。
だが、この教会は違った。
静謐な空間は似ているが、エルが良く知る教会よりも眺め甲斐がある。
もちろん、普段はできない冒険をできているという楽しさも相まっているのだが──純粋に、エルはわくわくした喜びの上に、目を輝かせていた。
「にかい、いきたいなあ」
『──鍵を壊すのは、だめだぞ』
差し迫った危険はないと思ったのか、カートン卿は溜息を堪えて、エルを諫める。
幼子の手で頑丈な錠前を壊すことはできないはずだが、それならばそもそも、教会の扉を開けられたこと自体が妙なのだ。
「しってるよ。カギがかかってるところは、はいっちゃだめなんだよ」
『ちゃんと分かってるじゃないか。──いや、なんで俺がエル坊に怒られているような感じになってるんだ?』
「ぼく、おこってないよ?」
きょとんとしながらも、エルの関心は初めて来た教会にある。きょろきょろと廊下を歩くと、ふと、エルは礼拝台のすぐ脇に地下へと繋がる石造りの階段を見つけた。
その瞬間、幼い双眸がきらんと輝く。
カートン卿は慌てた。教会の地下は、たいてい地下墓所だ。ほとんどの地下墓所は棺が納められているだけだが、時折、聖人を祀るために特別な処理をされた遺体がむき出しで置かれていることもある。いかな冒険心に満ちたエルといえども、目撃したら最後、心に傷を負いかねなかった。
『おい、エル坊、地下は──』
止めろとカートン卿が言ったところで、目先のことしか見えなくなったエルの耳には入らない。
わっくわっくと言う気持ちそのままに、しかしカートン卿のことはしっかりと抱きしめて、エルは一歩ずつ階段を下りて行った。
階段はそれほど長くない。一段一段が少し高くて、エルにはまだ降りるのも一苦労だった。
だから、一番下に降り立った時の達成感は格別だ。
そのエルの視線が、壁近くの棚に引き寄せられる。そこにあったのは、カートン卿が気にしたような棺でも、儚くなった聖人の姿でもなかった。
「これ、なに?」
『聖杯、だな』
「せーはい」
エルは初めて聞いた、というように、苦手なにんじんを食べた時と同じ顔で繰り返した。
『聖遺物──、あー、つまりなんだ、神様が昔使ったとみんなが言っている、コップだな』
「こっぷ。かみさま、これで、みるくのんだ?」
『もしかしたら、飲んだかもしれないな』
飲んだのはミルクじゃなくて葡萄酒だろうけど、とカートン卿は付け加えるが、エルは魅入られたように聖杯を凝視していた。
色とりどりの宝石と金で飾られた聖杯は、暗い地下の中にあっても、自ら光り輝いているかのようだった。
そっと、エルは聖杯に手を伸ばす。
触れたら冷たいのだろうか、それとも暖かいのだろうか──。
そんな疑問と共に伸ばされたエルの指先が聖杯に触れた瞬間、それは唐突に起こった。
☆☆☆☆☆
セピア色の世界。
吹きすさぶ風。土埃が舞う。
周辺は荒涼としていた。家屋は倒れ、草が生えている。
飼い主を失った犬がやせ細り、あばらを動かして必死に呼吸していた。くうんと悲痛な鳴き声を上げて、犬は不自然に膨らんだ土を掘り起こそうとしている。
それを見て、ひとりの男が笑った。
『こいつも殺してやった方が、優しさってもんかねえ?』
『放っとけ。人間は殺れと言われたが、犬は言われてねえ』
犬を殺そうかと告げた男も本気ではなかったようで、視線を仲間に戻す。
そこには軍服を着た数人の男が集っていた。だが、騎士というよりはならず者の集まりだ。そこら辺に居た破落戸に声を掛け、軍服と武器を与えたといっても違和感がないほどだった。
リーダー格の男が、少し離れた場所に居る若者に声を掛ける。若者もまた軍服を着ていたが、まだ体つきは華奢で、立派な生地の服に着られているような有様だった。
『埒が明かねぇ。穴は掘れたか?』
『一応、順調に進んではいますよ。人足も、殺されちゃ敵わないって思ってるのか、真面目に働いてます。まあ、あいつらも後で放り込まれるわけですが』
犬を殺そうかと呟いた男が、どかりと丸太に腰掛けた。その丸太は、元々小さな子供たちが遊ぶために造られたシーソーだった。だが、今は跡形もない。木材は全て、兵糧を調理する燃料に使われた。
『女子供でも残しといてくれりゃあなあ。男だけじゃあ、こっちも楽しみがなくていけねえや』
下卑た笑い声が響く。
男たちの足元にはライフル銃が転がっている。それが、この周辺に住む罪なき人々を制圧した武器だった。都の北部にある造兵廠で開発されたばかりの新型で、旧式銃と比べて射程が四倍以上長くなった恐怖の銃だ。正式に軍隊に導入され、この国の軍事力を他国に誇示する役目も担っていた。
『ウィルキンソンもハートフォードも落とせと命令されたからな。血筋一つでも残したと知られちゃあ、俺たちの首が危ういってもんよ』
『あーあ、おっかねえなあ。お偉方が考えることってのは、俺たちみてぇな下っ端には分からねえや』
そう言いながら、男の一人は近くの大木の根元に座り込んだ。そして、ポケットから取り出したパイプに火をつける。目を細めてうまそうに煙をくゆらせ、男は目を細めた。
『「知」の伯爵家だか『武』の公爵家だか知らねえが、死んじまったら単なる死体よ。国王に盾突いたことを、あの世で後悔すりゃあ良いさ』
──その大木に、エルは見覚えがあった。
探せば他にも似た景色はあるのだろうが、なぜかエルには、自分が通ったことのある道だという確信があった。
その大木は、エルが暮らしていた屋敷から修道院に来る途中、旅人や周辺の村人たちが目印にしている古い木だと、アルマが教えてくれた。リスが枝の上を走り去って行くのを、エルは見上げていた。
だが、周辺の景色は、昼間にエルが見たものとは全く違った。エルが見た大木の近くにはシーソーはなかったし、村人の家やエルが滞在した領主館も、大木のあたりから屋根が見えていたはずだ。そして、大木を迂回するように道があり、エルは馬車の中からその様子を面白がって眺めていた。
あまりにも現実感のない景色に、エルはことりと小首を傾げる。
(これ、なあに?)
恐怖はなかった。怖い夢を見たら泣いて飛び起きてアルマを呼ぶのに、目の前の光景は全く怖くなかった。
現実ではないと、分かっているからかもしれない。男たちの会話も、大半が全く理解できないものだ。それ以上に、見えた景色があまりにも現実味のない、セピア色の光景だったからかもしれなかった。
やがて、視界が虹色に染まる。
次の瞬間、エルの瞳は聖杯と、その聖杯をエルの手から取り上げた若い修道士の姿を映し出していた。
きょとんとしたエルに向かって、優しく繊細な要望の青年は穏やかな笑みを浮かべる。
「お初お目にかかります。オスニエル・ハートフォード小公子。お会いできて光栄です」
低く柔らかな声は、耳馴染みが良い。
エルがまだ幼いことを考慮してか、年若い彼は堅苦しい言葉は使わなかった。だが、十分に敬意を示している。
「えっと……えるです」
未だに状況は分かっていないが、挨拶をされたら名乗らなければならない。
アルマとグレンに教わったことを、エルは愚直に守った。エルにぎゅっと抱き締められたカートン卿が頭を抱えている気配がするが、エルは年若い修道士に興味津々だった。
若い修道士は聖杯を元あった場所に戻し、綺麗な礼をする。エルは知らないが、それはまさに、貴族子息が幼いころに教育される作法に則ったものだった。
「私はジェイ。未来を識る者。どうぞ、お見知りおきを」
優しい面差しに、浮かび上がる紫色の双眸。その双眸には、どこまでも深い影が潜んでいた。




