7. ゆめの冒険とトランク 3
ハートフォード公爵家のタウンハウスに帰ったエルは、ぐっすりと眠っていた。寝ている間に、アルマの手で体を拭かれ、綺麗な洋服に着替えさせられる。
そして、カートン卿はというと、これまたアルマの手でごしごしと洗われ、洗濯物と一緒に竿にぶら下げられ、風にそよいでいた。その背中には哀愁が漂っている。
一方、エルを無断で連れ出したフェリクスは、母ソフィアにこってりと絞られた。普段は穏やかで優しい人ほど、怒った時は恐ろしい。
フェリクスは身に染みて実感した。自室に戻ったフェリクスは、もう母は怒らせないようにしようと、心に誓う。
「あーあ、最悪だ。服も捨てられちまったし……また、アトキンズ大尉に頼むしかないか。ほとぼりが冷めてから、だけど」
頭を抱えて、フェリクスは唸る。
宝物でもある「外出用の庶民服」はソフィアの命令でゴミに出された。しばらくは、フェリクスの外出はままならなくなるだろう。心底落ち込むかと思っていたフェリクスだったが、不思議と平気だった。以前感じていた、公爵家にいることでの閉塞感もあまりない。
「元々、俺が好き勝手に家を出てたのも、普通はあり得ないことだったもんなあ。分かってはいたけどさ、仕方ねえじゃん?」
これからも、タウンハウスで兄姉──特にロレッタと顔を合わせることを考えると、気が重い。ただ、エルが一緒に居ると、ロレッタの当たりも柔らかくなる。
やっぱりエルと一緒に居た方が良いかと、フェリクスは苦笑した。それならば、エルが起きた頃を見計らって──夕飯の少し前くらいだろうが──エルに会いに行こう。
そんなことを考えているフェリクスの表情は、優しく和らいでいる。ただ、本人には自覚がなかった。
☆☆☆☆☆
都を闇が包み始めた頃。
ライオネルは、父ヒューバートが貸してくれたハートフォード公爵家の騎士と警察の部下を連れ、ヴィリディス・ホルトス駅に向かっていた。警察であることが分からないように、全員普段着だ。もっとも、ライオネルが普段着を纏えば明らかな高位貴族だ。明らかに浮く。
そこで、フェリクスやエルが着ていたよりは多少、仕立ての良い、中流階級に見える服を選んだ。
辻馬車に揺られ、ヴィリディス・ホルトス駅から少し離れた場所で降りる。ここから先は、別行動だ。
「エルマー、悪いな。お前にも着いて来てもらって」
それほど申し訳なさそうではないが、ライオネルはエルマーに謝罪する。同じく中流階級に見える服を着たエルマーは、楽しげに笑って首を振った。
「ヴィリディス・ホルトス駅は結構、広いからね。それに、手荷物預かり場で荷物を引き取る役は、僕が適任だろう? 顔がそれほど広まっていないし」
警察長官であるライオネルは、良くも悪くも顔が割れている。ハートフォード公爵家の嫡男であるから新聞の社交界欄にはよく名前が出るし、ときおり肖像画も載る。その上、悪党にとっては最も警戒すべき相手だ。
ライオネルは帽子を深くかぶり直し、少し居心地が悪そうにした。
「好きで顔を広めたわけじゃないんだが」
「まあ、貴族の宿命だから、それは諦めるしかないね」
「ウィルキンソン伯爵家長男なのに、なぜお前は顔が割れてないんだ」
じっとりと恨めしそうにライオネルが言う。思わずエルマーは笑った。
「そりゃあ、いくら貴族でも公爵と伯爵じゃあ話が違うよ。それに、僕は公職に就いていないからね──幸いなことに」
「本当に、幸いなことだ」
心の底から羨ましいと、ライオネルは溜息を吐く。そして、懐中時計を取り出した。街灯の下で時刻を確認する。
「準備は良いか?」
「ああ。もうそろそろ、ヴィリディス・ホルトス駅でも夜勤の駅員に交代する時間だね」
エルマーは薄っすらと笑みを浮かべた。ライオネルは頷く。
「そうだ。何かあった時のために、これを持っておけ」
ライオネルが、エルマーに警察関係者用の徽章を手渡した。
二人は、無言で歩き出す。
エルマーの後ろを、距離を保ってハートフォード公爵家の騎士が二人、追跡する。ライオネルと警官は、裏道からヴィリディス・ホルトス駅の手荷物預かり場を目指した。
街灯の光が届かない場所は、漆黒の闇に包まれる。烏さえ飛ばない月夜に、緊張が走る。
ヴィリディス・ホルトス駅は広大だ。駅の出入り口近くには著名なホテルやレストラン、銀行が軒を連ねる。手荷物預かり場は駅構内にもあるが、提携したいくつかの店も請け負っていた。
エルが乗合馬車で拾った手荷物預かり証は、振られた番号から、少し離れた場所にある小さな店のものだと分かっていた。
北へ向かう細い路地が特徴の、マイファリア街、そしてマイファリア街に接するポストル通り。
ライオネルの指示に従い、残りの警察と騎士たちは国宝ファリーズのガーネットを盗んだ悪党を逃さぬよう、周囲に散らばり暗がりに身を潜める。
エルマーは恐れる様子もなく、カフェの隣に立つ小さな店の扉を叩いた。不機嫌な顔の店主が出て来る。
昼間は、若い店員も働いている店だ。だが、夜になると客も減る。荷物を受け取りに来る──それこそ、今のエルマーのような者に対応するため、一人で店番をしているのだろう。
初老の店主に、エルマーは手荷物預かり証を差し出した。
「荷物を受け取りに来たんだが」
店主は、紐が付いた片眼鏡を着けて、まじまじと預かり証を眺める。そして、不審な顔をエルマーに向けた。
「この、預かり証だがね」
店主は預かり証をカウンターに置き、疑わしげな視線をエルマーに向けて告げる。
「つい先ほど、ケイシー・アダムズの兄だと言う男が、預かり証を失くしたと言って引き取りに来たよ。確かに荷物にはケイシー・アダムズと書いてあったが──」
エルマーの表情が強張った。店主の厳しい声が、追及する。
「お前さんは、一体どこで、この預かり証を手に入れたんだね?」
じろりと睨む店主に、エルマーは溜息を堪えた。
もし預けられていた荷物に人の名前が書いてあり、その名前を口にしたのなら、荷物を渡すのかもしれない。悪党は、まさに上手くやってのけたのだ。だが、今は敵に喝采を送る時間はない。
エルマーは端的に答えた。
「店主。私は警察関係者だ。この荷物は犯罪に使われた可能性が非常に高い。引き取りに来た者は、犯罪者だ」
そして、ライオネルから受け取った徽章を見せる。効果は覿面だった。
店主の顔色が悪くなる。
エルマーは、畳みかけた。
「いつ、どんな男が、引き取りに来た?」
予想外の出来事だったに違いない。店主は、どもりながらも、素直に答えた。
暗い色の外套を着た、陰気な男。細面で鷲鼻、体つきは細く背は高い。
荷物は、地方から出稼ぎに来る少女が持っていそうな、トランク。『ケイシー・アダムズ』という、刻印が施されている。
取りに来たのは、ほんの十五分前か二十分前か、それくらい。
エルマーの視線が険しくなる。
「他に、何か気が付いたことは?」
「な、ない、本当だ!」
誓って嘘じゃないと、店主は重ねて主張する。エルマーは目を眇めて店主を睨み付けた。
店主は、不安げに目をうろつかせる。そして、思い出したようすで「そう、そうだ!」と声を上げた。
「このまま、ヴィリディス・ホルトス駅に行って汽車に乗るつもりだろう。汽車の時刻表と、新聞を持っていたから。時間がないと急かされた」
エルマーは喉の奥で唸る。店の壁に掛けられた時計を見る。
ヴィリディス・ホルトス駅からは、複数の路線が出ているが、盗賊が使うとしたらどの路線か。
国宝ファリーズのガーネットを持っているのであれば、スペロ王国内で宝石を売ることは考えにくい。警察の目が厳しくなっていることも、織り込み済みだろう。預かり証を紛失したと自覚しているのだから、なおさらだ。国外に持ち出す可能性が、一番高い。
そうと考えれば。
エルマーは、踵を返した。急ぎ足で、店を出る。
そして、近場に隠れていた騎士と警官に向けて声を張る。
「ライオネルを呼べ!」
何事かと、騎士と警官は顔を見合わせた。だが、厳しい訓練を受けただけある。緊急事態と察し、警官が呼子笛を鳴らした。
すぐに、ライオネルたちが駆けつけて来る。
「どうした!?」
険しい表情のライオネルに、エルマーは苦々しく答えた。
「先を越された」
「なんだと?」
「ケイシー・アダムズの兄と名乗って、荷物を引き取りに来た男だ。そいつが、一味に違いない。足取りは定かでないが、ドヴェレンシスに向かったんじゃないか」
「ドヴェレンシス──船でアーテム王国に逃げるつもりか!」
ライオネルは、すぐに悟る。街灯を頼りに、懐中時計を確認した。
港町のドヴェレンシスからは、アーテム王国に向かう船がある。ヴィリディス・ホルトス駅から、ドヴェレンシスに向かう最終列車が、ちょうど発車した時刻だった。
普通列車で、片道およそ三時間の距離だ。
「どうする?」
エルマーが尋ねる。ライオネルの決断は早かった。
「車で追う」
警官たちの表情がひきつる。彼らは、長距離を移動してまで仕事をしたことがない。基本的には、自身の管轄からは離れない。その上、車は高級品だ。触れたこともほとんどない。未知への本能的な恐怖があった。
それを知るライオネルは、部下を安堵させるように続けた。
「警察は俺が居れば十分だ。騎士を連れていく。少人数の方が、車も速いからな。人手が足りなければ、ドヴェレンシスの警察に応援を頼むことになるだろう」
「ドヴェレンシスなら、ウィルキンソン伯爵家の知り合いがいる。少し待て」
エルマーは懐から出した携帯用の筆記具で、一筆記す。それを、ライオネルに託した。
「幸運を祈る」
「ああ」
ライオネルは、騎士と共に歩き出した。肩越しに片手を上げて、謝意を示す。
一分一秒も惜しい。だが、不思議と不安はなかった。
彼にとっては、エルこそが幸運の神だ。エルが荷物預かり証を偶然見つけてから、順調に物事が動き出した。
もう一つの幸運は、ドヴェレンシス行の最終列車が普通列車ということだった。昼間にときおり走っている特急列車であれば、車を飛ばしても到底追いつかない。
「必ず、捕まえてやる」
そうして、タウンハウスに帰ったら、エルに美味しいお菓子を食べさせてやるのだ。
そんな決意を胸に、ライオネルは騎士と共に、ハートフォード公爵家が所有する車に乗り込んだ。




