2. 修道士と不可思議な夢 2
教会の中を通り過ぎて、一行は中庭に差し掛かった。中庭は石造りの建物に囲まれ、中央に緑の芝生が広がっている。芝生の中央には大きな木が生えていて、立派な枝が新緑の葉をつけていた。
『リスがいるな』
(りすさん? みえない……)
カートン卿に言われたエルは目を凝らすが、葉は隙間なくふさふさとしていて、リスがどこに居るのかも分からなかった。
エルの歩調は緩むが、グレンやアルマは止まろうとしない。
「エルお坊ちゃま、お部屋に行かないと、晩ご飯を食べられませんよ」
アルマの言葉に、エルは慌てた。晩ご飯を食べられないのは困る。エルは、美味しいご飯が大好きだ。リスが気になったことなど一瞬で頭から消し飛び、エルは慌てて少し先を歩くアルマに走り寄った。そして、カートン卿を抱えた手とは反対側で、アルマの手をしっかりと握る。
アルマは頬を緩め、優しく言った。
「今日は、きっと修道士の皆さまがエルお坊ちゃまのために美味しいご飯を用意してくださってますよ」
「うん! たのしみ!」
答えるエルは元気だ。溌剌とした声に、グレンやアルマだけでなく案内役の修道士も表情を綻ばせた。わくわくと、エルはふっくらとした頬をバラ色に染めている。
実際に、エルが立ち寄った修道院は質素ながらも美味しい料理だと評判だった。修道院の中で育てている野菜やブドウはもちろんのことながら、近隣のウィルキンソン伯爵からも定期的に食材が届けられる。どれも新鮮だ。
そして、料理が美味しい理由は食材だけではなかった。
アルマとエルを案内する修道院長が、優しく穏やかに告げる。
「食材はもちろんなのですが、実は、この修道院にはウィルキンソン伯爵閣下の末のご子息もいらっしゃいまして、彼が食事にかけては一過言あるのですよ」
「まあ。ウィルキンソン伯爵閣下が懇意にされているのですか?」
説明を聞いたアルマが、少し驚いた様子で目を瞬かせた。エルはキョトンとしている。
公爵家の息子としてそれなりに教育は始まっているが、礼儀作法が中心で、貴族名鑑には触れたことがない。もちろん普通に考えると、教えるにはエルは幼すぎる。
アルマは、にっこりとエルに笑みを向けた。
「ウィルキンソンという伯爵様の、お子様がいらっしゃるそうですよ」
「うん……?」
大きくなったらお勉強しましょうね、と、アルマは優しくエルの頭を撫でる。エルの反応から、よく分からなかったのだろうと判断したようだ。
だが、エルが曖昧な返事をしたのは、アルマの言葉が分からないからではなかった。むしろ、アルマと修道院長の会話ですでに把握している。
エルは、ぎゅっと抱きしめたカートン卿にこっそりと尋ねた。
(うぃるきんそん、はくしゃくって、だあれ?)
『この修道院の隣にある領地の主人だ。由緒正しい血筋──この修道院よりも古くからある家系でな、「知」の伯爵家と呼ばれている。社交界では、ハートフォード公爵家と並んで有名だ』
エルは目を瞬かせる。何となくだが、カートン卿の言わんとすることを察した。
そして、もう一つ気になる言葉に意識を惹かれる。
(はーとふぉーど? ぼくのおうち?)
『そうだ。ハートフォード公爵家は「武」の公爵家だ』
ふむ、とエルは頷いた。「知」と「武」がどのような意味なのかは分からないが、格好良い気がした。自分の家族が格好良い名前で呼ばれていることに、エルは満足する。ふふんとご機嫌になっていると、一行は宿泊する部屋に到着する。
修道院の本棟から少し離れた場所にあり、周囲は一層落ち着いた、静観な雰囲気だった。これならば夜、エルが目を覚ますこともないだろうと、アルマは安心する。
エルは、部屋で一等目につく掃き出し窓に走り寄った。ガラス扉は二枚が両開きになっていて、広いベランダに通じている。ベランダからは石造りの階段が数段、広い庭に向かって降りていた。庭は綺麗に整えられ、綺麗な生垣に沿って小道がある。その先は見えないが、こぢんまりとした小さな尖塔の先が覗いていた。
「あるま! おやねがある!」
興奮して、エルはぴょこぴょこと飛び跳ねた。後ろに来たアルマが、そんなエルを落ち着かせるように頭を撫でる。そしてエルが指差す先を確認すると、後ろで荷ほどきを手伝っている修道士に尋ねた。
「修道士様、あの屋根は教会でしょうか?」
「ああ、はい。以前は主祭壇としておりましたが、今は週末に修道士が個人で祈るため利用しております」
年若い修道士は如才なく答える。まあ、とアルマは微笑み、優しくエルに声を掛けた。
「エルお坊ちゃま、あすこは教会だそうですよ。神様をお祀りしているのです。修道士様のための場所ですから、エルお坊ちゃまはご遠慮しましょうね」
「……える、いけないの?」
しょんぼりと、エルは肩を落とす。せっかく大冒険ができると思ったのに、残念だ。
エルは特にここ最近、「ハリネズミのだいぼうけん」という絵本がお気に入りだった。
主人公のハリネズミはエルとそっくりの青い目で、勇敢に世界を大冒険するのだ。最後は飼い主である女の子、ケイシーの元に戻って来るのだが、エルはいつも目を輝かせて、イラストだけでは想像できない世界を思い描いていた。
物語の中で、ハリネズミは教会に行く。そこで牧師さまと出会い、木の実で書かれた秘密の地図を貰うのだ。
アルマは、見るからにがっかりしたエルを見て目を細めた。
「我慢しましょうね。その代わり、明日の朝起きたら、お庭をお散歩させてもらいましょう」
「うん」
わかった、とエルは健気に頷く。だが、どうしてもその心は垣間見えた教会に向かっていた。
☆☆☆☆☆
エルは美味しい晩ご飯を食べてご満悦だった。
シャワーを浴びて体を綺麗にし、寝間着に着替える。もちろん、大きくなったエルは自分でやる──のだが、エルの自尊心を傷つけないように、ところどころで上手くアルマが手伝っていることには気が付いていない。
「エルお坊ちゃま、お休みなさいませ。よい夢を」
ハリネズミの絵本をアルマに読んでもらったエルは、カートン卿と一緒にシーツに潜り込み目を閉じた。
その柔らかな前髪を、アルマが優しく梳いて頭を撫でる。うっとりと目を閉じたエルは、睡魔に抗うこともなく、すっと眠りについた。
そして、修道院は寝静まる。
俗世から離れ神に身を捧げる修道士たちの夜も早い。どこまでも広がる静けさに、風の囁きが響く。
そんな夜半過ぎ──エルは、ぱちりと目を覚ました。
ぐっすり眠りこんだら多少のことでは目覚めないエルには、ひどく珍しい。
「──むぅ」
目をこしこしとこすって、エルは寝返りを打つ。だが、眠れない。不思議と、はっきりと目覚めてしまった。
しばらくシーツの中でもぞもぞとしていたが、堪え切れずにエルは起き上がってベッドにちょこんと座った。
『眠れないのか?』
「うん」
カートン卿が、静かに光る瞳をエルに向けて尋ねる。他に誰も居ない部屋では、心の中で答える必要もない。エルは、素直にカートン卿に返事をした。
少しぼんやりとしていたが、風の叩く音でエルは視線をバルコニーのガラス扉に向けた。
真ん丸な月が木々の上から顔を覗かせている。
「あ!」
エルは小さく声を上げた。
せっかく、目が覚めたのだ。これは冒険の、絶好の機会だ!
普段はおりこうなエルだが、元々は冒険の大好きな男の子である。
零れ落ちそうな目をキラキラと輝かせて、エルは枕もとに置いていたカーディガンを手繰り寄せた。
『おい、どこに行くつもりだ?』
カートン卿が、少し呆れた声で尋ねる。エルはカーディガンを着ると──ボタンを掛け違えて段違いになっていたが──ベッドの足元に置いていた靴を履き、カートン卿の腕を引っ張った。
「きょうかい! もりのむこうにあるの」
『エル坊は行けないって、アルマに言われていただろう』
「だいじょうぶ! あるまがおきるまえに、かえるから」
『そういう問題じゃないだろうが』
カートン卿は今度こそ呆れた口調を隠さなかったが、興奮したエルはそれどころではない。
しっかりとカートン卿を抱えると、忍び足で部屋の中を移動する。少し背伸びして、バルコニーに通じる掃き出し窓の鍵を開けた。鍵は少し錆びていたが、エルの力でも開けることができた。
音がしないように扉から出て、元通りに閉じる。
バルコニーと庭は月光に照らされて、思ったよりも明るかった。足元も、目を凝らせばきちんと見える。
『こけるなよ』
「だいじょうぶだよ」
少し心配そうにカートン卿が言えば、エルは自信満々に答えた。
それを証明するように、エルはゆっくりと、一段一段バルコニーから庭に通じる階段を下りる。綺麗に整えられた庭の小道を小走りで駆け、エルは雑木林に辿り着いた。
「きょうかい、このむこうがわだよ」
軽く息を切らしながらも、エルは頬を上気させてカートン卿をぎゅっと抱きしめる。
雑木林は暗くて、月光も遮る。不気味さに泣くかと思われたエルは、しかし全く動じることもなく、雑木林に向けて足を踏み出した。
『止めておいたらどうだ、エル坊。今からなら、すぐ暖かい部屋に戻れるぞ』
「かーとんきょう、こわいの?」
うそだー、と言いたげにエルは目を瞬かせ、腕の中に居るカートン卿を見下ろす。すると、カートン卿は憮然とした声で反論した。
『そんなわけがあるか。怖いのはエル坊だろう』
「ぼく、こわくないよ」
平気だもん、とエルはもう一歩足を踏み出す。事実、エルは全く怖いと思わなかった。
真っ暗な雑木林より、怒ったアルマの方が怖い。でも、アルマが起きる前にエルはベッドへ戻るのだから、全く平気なのだ。
雑木林は雑然としていたが、最小限は手が入れられているらしく、足元に不安はない。多少は人の出入りがあるのだろう。
危なげなく、エルは無心に足を運んだ。
小さな体に短い脚でも、教会はそれほど遠くなかった。しばらく歩けば、木の柵が現れ、その向こう側にこぢんまりと整えられた庭と古色蒼然とした教会が見える。
「あ! あった!」
エルは興奮しながらも、しっかりとカートン卿を抱きしめたまま柵を潜り抜けた。そして、小走りで教会に近付く。
『──妙だな?』
カートン卿は胡乱に呟くが、エルは気が付かない。少年は好奇心が赴くままに、背伸びして扉の取っ手に手をかけ、ゆっくりと引っ張った。




