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7. ゆめの冒険とトランク 1


エルはソフィアの膝に抱えられて、ハンカチーフで顔の汚れを拭かれていた。しっかりと抱っこしたカートン卿も、なんとなく薄汚れている。


「エルちゃんのカートン卿も、帰ったらお洗濯して貰わなくちゃねえ」

「かーとんきょ、おふろ、はいる?」

「その方が良いわ。一緒に寝台(ベッド)に入ったら、汚れてしまうでしょう?」


なるほど、と納得するエルの膝の上で、カートン卿はうんざりしたようにぼやいた。


『……だから、やめとけっていったのに……』

(かーとんきょー、おふろ、きらい?)

『体が重たくなるからな……』


嫌いというか憂鬱というか、と、カートン卿はエルの知らない単語を呟いている。

そんなエルを他所に、ライオネルはフェリクスをまず問い詰めていた。双眸は敵を追い詰める猟犬のように鋭く光っている。


「フェリクス。隠し立てはするなよ。なぜ、オスニエルと一緒に排水管から出て来たんだ?」

「いやあ……エルが、宮殿に行きたいっていうから、まあ観光くらいなら良いかって思ってさあ」


最初は気まずそうな表情をしていたフェリクスだが、最後は自棄になったのか開き直った。曖昧に逸らされる視線は、やはり多少、自分が悪いと思っているからこその態度だろう。


「観光で、なぜ排水管に入る羽目になる」

「エルが走って行っちまったんだよ。むしろ、ちゃんと追いかけてた俺を誉めて欲しいくらいだぜ」

「それよりもまず、勝手に二人だけで家から出るな」

「ええー」


ライオネルの苦言にフェリクスは唇を尖らせる。黙って二人の様子を眺めていたヒューバートが、静かに口を挟んだ。エルの相手をしていたソフィアも、気遣わしげにフェリクスに視線を注いでいる。


「フェリクス。お前ひとりでも心配だが、お前はまだ、エルを守りながらは戦えないだろう。心配が二倍だ。だから、ちゃんと聞きなさい」


さすがにフェリクスは、ばつが悪そうに俯いた。

これまで、一人で屋敷を抜け出しても、誰一人として本気でフェリクスを心配した様子を見せた者はなかった。だが、それはフェリクスの勘違いだった。ヒューバートもソフィアも、その実は真剣にフェリクスを心配していたのだ。さすがのフェリクスも、気付かざるを得なかった。


ライオネルは、そっと息を吐く。フェリクスへの叱責は、この場ではこれ以上不要だ。あとは両親に任せるべきである。

ここまで来ると、警察長官として優先させるべきことがあった。エベリーヌと侍女に、ライオネルは顔を向ける。


「それで、殿下。そのハリネズミがマダム・バンジャマンで間違いありませんか」

「ええ、そうよ。私の可愛い、マダム・バンジャマンだわ」


無事でよかったと、エベリーヌは機嫌が良い。

まだ国宝ファリーズのガーネットは見つかっていないが、王女にとっては国宝より重要なペットが見つかったようだ。まず一難は逃れたと、ライオネルは内心で安堵する。

その時、エルが「あ!」と声を上げた。


「まあ、エルちゃん、どうしたの?」


ソフィアが優しく尋ねる。エルはくるんとした目を瞬かせて、ソフィアの腕の中から母を見上げた。


「はりねじゅみさん、かゆい、ゆってた」


焦ったせいか、いつもはちゃんと言えている「はりねずみさん」を噛んでしまう。その言葉遣いが可愛いと思うよりも前に、全員の頭にはてなマークが浮かび上がった。


「かゆい、って? はりねずみさんが?」


ソフィアが尋ねる。エベリーヌは不思議そうに、大切に抱えたハリネズミの体を確認した。


「うん。せなか、かゆい、って」

「サファイアかリボンが重たいのかしら」


エルは重ねて告げ、エベリーヌも応えるように呟く。

王女がゆっくりとリボンをほどく。すると、リボンに隠れていたハリネズミの背中には、ぺっしゃりと透明な液体が張り付いていた。リボンをきつく巻いていたわけではなく、当然、リボンの痕でもない。

エルマーが身を乗り出した。


「それは?」

「なにかしら」


首を傾げて、エベリーヌが液体に指先で触れる。途端に、エベリーヌは驚いて目を丸くした。


「まあ。糊だわ」

「糊?」

「もうだいぶ乾いているけれど、間違いなく糊よ。誰かしら、私のマダム・バンジャマンにこんなひどいことを」


可愛がっているペットを虐待されたと、エベリーヌは憤る。だが、エベリーヌの返事を聞いたエルマーは険しい表情で「それかもしれない」と呟いた。


「エルマー? どういうことだ」


幼馴染の気安さで、ライオネルが尋ねる。ライオネルも決して愚かではないが、「知」の伯爵家に生まれ付いたエルマーの方が、こういう時の直感は冴えわたっていた。


「ファリーズのガーネットですよ。どうやって持ち去ったのか、マダム・バンジャマンが説明できるかもしれないと思ったのです」

「マダム・バンジャマンが?」


一番驚いたのはエベリーヌだ。マダム・バンジャマンと国宝ファリーズのガーネットの盗難は、そうそう簡単に結びつくものではない。


「マダム・バンジャマンの檻には鍵が付いているとのことですが、南京錠の穴に小さな──それこそ、クルミの破片でも入れておけば、鍵は掛かりません。その上で、金庫の合い鍵をどこかのタイミングで作っておき、国宝を取り出してマダム・バンジャマンの体に糊でくっつける。その上から、サファイアの付いたリボンを巻き付け、マダム・バンジャマンを部屋から誘き出せば、後は外でファリーズのガーネットをいつでも手に入れられます」


エルマーの解説は、とうてい信じられなかった。

だが、確かにマダム・バンジャマンの背中は糊に塗れている。王女は当惑したように声を上げた。


「でも、部屋は二階なのよ?」

「ハリネズミは、多少の手掛かりさえあれば壁も上手く上り下りできると聞きます。窓を開けていらっしゃったとのことですから、そこから外に出るよう、通り道に果物でも置いて誘き出したのかもしれません」


ライオネルは低く唸る。にわかには信じられないが、確かに、理に適っているように思えた。

母ソフィアの膝できょとんとみんなの会話を聞いていたエルは、大きな目をマダム・バンジャマンに向けた。王女の腕に居るマダム・バンジャマンが、何事かを語りかけている。他の誰も分からないだろうが、エルにはなんとなく、マダム・バンジャマンが訴えていることが分かった気がした。


「はりねずみさん、にかいからおりれるの」

「エルちゃん?」


驚いたようにソフィアがエルの顔を覗き込む。エルは、マダム・バンジャマンがそうしているように、小さな胸をむんっと張った。


「えほんも、かいてたよ」

「ああ、エルちゃんの大好きな絵本ね」


なるほどとソフィアは納得する。もちろん、絵本の知識だけではない。エルは実際にマダム・バンジャマンの言葉を伝えたのだが、周囲は違和感を覚えなかったようだ。


『ハリネズミは走るのも速いし、水の中も泳ぐし、簡単に岩も登るし、可愛いだけの奴じゃあないな』

(うん。でも、まだむ、つかれたって)

『そりゃあ、あんな(ごみ)が付いてたらそうだろうさ』


むむ、と、エルの唇が尖る。

土管の中でエルと追いかけっこをしていたマダム・バンジャマンは、少し動きづらそうにしていた。どうしたのかと思ったら、「体がかゆい」とか「つかれた」だとか、そんなことをエルに訴えかけて来たのだ。その、つぶらな瞳で。


『だから、エル坊に捕まったんだろうな。じゃないと、エル坊の足じゃあ、追いつけなかったぞ』

(おいついたよ?)

『うん。マダム・バンジャマンがそうしたいと思ったからだな』


どことなくカートン卿も疲れているようである。そして、エルも少し、うとうととしていた。いつもお昼寝している時間も起きていて、これまでもしたことのない大冒険をしたのだから、当然だ。

エルの様子にいち早く気が付いたのは、母ソフィアだった。ほかほかに温かくなったエルの体を抱えて、ちっちゃな手を握り、エルのピンク色の頬っぺたを覗き込んだ。


「エルちゃん、おねむかしら?」

「……むぅ」


せっかくマダム・バンジャマンと会ったのに、せっかく宮殿に来たのに──と、エルは不満そうだ。実際に今、エルたちが居るのは警察庁舎であって宮殿ではないのだが、エルには区別がついていない。

宮殿に居て、その近くにある土管を通って来たのだから、今自分は宮殿にいるのだ。エルは素直に、そう信じ込んでいた。


父ヒューバートがエルを振り返って、優しく諭す。


「帰って寝た方が良いんじゃないか」


だが、エルはいやいやをするように首を振った。おねむなのか、と聞かれた瞬間に、目がしぱしぱとして来る。こしこしと手で目をこすろうとして、ソフィアに留められた。土管の中を通って、マダム・バンジャマンを捕まえたエルの手は少し汚れている。ソフィアにハンカチーフで拭いてもらったが、小さな爪の隙間に入り込んだ土は取れなかった。


「だめなの。おーじょさま、こまってるの」


思わぬ言葉に、誰もが目を丸くする。エベリーヌが「まあ」と呟いて、マダム・バンジャマンを抱えていない手で口元を抑えた。


「私? おーじょさまって、私のことかしら?」


半分になった目を瞬かせて、エルは顔を上げる。そして、エベリーヌを見て首を傾げた。

エルの知っている王女さまは、ドレスを着ている。もちろん、その王女さまは絵本に出て来ていたのだが──目の前の女の人は、地味なワンピース姿だ。


「おーじょさま?」

「そうよ。私、王女さまなのよ」


アーテム王国からの客人は、にこにこと答える。エルは素直だった。


「どれす、きてない」


失礼だと怒る貴族もいるだろうが、エベリーヌは腹を立てることはない。彼女自身、小さいころは、王女は毎日ドレスを着るものだと思っていた。


「そうよ、今は内緒でここに来てるから、ドレスは着ないのよ」

「ないしょなの?」

「そう、内緒なの」


悪戯っぽく笑って、エベリーヌは人差し指を唇に当てた。

やはり、エベリーヌは王女らしい。そうとなれば、エルが尋ねることはただ一つだ。

エルは、修道院で男の人と約束したのだ。困っている人が居たら、助けてあげるのだと──そのために、エルはフェリクスと一緒に、宮殿まで来たのである。


「おーじょさま、こまってりゅ?」


ちっちゃな公子エルくんの無邪気な質問は、厳格な雰囲気の執務室に、明るく響いた。



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一気に読んじゃいました! 展開がどきどきで今後も楽しみにしています!
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