6. 広い庭で追いかけっこ 1
アーテム王国の王女エベリーヌは、退屈していた。
大事なハリネズミのマダム・バンジャマンが居なくなったことは悲しいし、国宝ファリーズのガーネットが盗まれたことは許し難かったが、それ以上に暇だった。
スペロ王国の大臣からは、犯人が捕まるまでは──そして帰国の目途が立つまでは、出歩かないで欲しいと言われている。だが、エベリーヌにしてみれば、それこそ言われた通りに大人しくしてやる義理はなかった。
「ねえ」
エベリーヌは、傍に侍っている、アーテム王国から連れて来た侍女に声を掛けた。
「お呼びでございましょうか」
侍女は静かに答える。恭しいその態度を視界の端に入れながら、エベリーヌは綺麗に手入れの行き届いた爪先を日に翳して眺めていた。
「マダム・バンジャマンの捜索は、どうなっていて?」
「ラシントン卿が調査に当たっていると伺っております」
「そう」
指先から視線を外して、エベリーヌは窓から外を見る。そして、小首を傾げて考えた。
「確か、ラシントン卿って、ハートフォード公爵家のご長男だったわね」
「そう伺っております」
「警察庁の長官だったかしら? それも務めているとか。若いのに優秀なのね」
侍女は静かに同意を示す。エベリーヌとライオネルはそれほど年齢も変わらないのだが、社会経験の差なのか、周囲から聞くライオネルは随分と大人びていた。
それに、なにより王女であるエベリーヌが関わる盗難事件の調査に当たっているのだ。優秀なわけがないと──スペロ王国の政情についてそれほど詳しくないエベリーヌは、素直に考えた。
「でもね、ラシントン卿は、私のところには何も聞きに来ないわ。普通、犯罪の調査と言えば、被害者の──この場合は私のことだけれど──話を聞きに来るものではなくて? 小説に、そんなことが書いてあったと思うの」
「それは、そうかもしれませんが。殿下は尊きお方ですので、ラシントン卿もご遠慮なされているのでしょう」
それはそうか、と、エベリーヌは納得する。
昔ほどではないにしろ、今でも王家と貴族諸侯はその立場が大きく異なる。王族が気に入らないと断じれば貴族は凋落する、そういうものであるはずだ。ならば、ラシントン卿が調査のため、エベリーヌに事情を訊けないのも当然だった。
「きっと、私から直接話を訊けなくて、困っているのではないかしら」
侍女は答えなかった。エベリーヌとは長い付き合いである。薄ら、王女が何を言い出すのか、侍女は予想していた。そして、引き留めたところで無駄であるということも承知している。
侍女にできる最善は、エベリーヌのしたいことを引き留めず、安全な環境を作ることだ。
そして、エベリーヌは王女らしい無邪気さと傲慢さで、にっこりと笑った。
「ねえ、お前。ラシントン卿のところに行くから、準備なさい」
「承知いたしました」
案の定だ。予期していた侍女は動じない。
ラシントン卿ライオネルは、警察の庁舎にいるはずだ。そこで、アーテム王国の国宝ファリーズのガーネットと、ペットのハリネズミの行方を捜すため陣頭指揮を取っているに違いない──もっとも、秘密裏にということなので、大々的に警察組織は動いていないだろうが。
侍女は、エベリーヌの外出準備のために立ち上がった。
☆☆☆☆☆
ハートフォード公爵夫妻は、できる限り急いで宮殿を歩いていた。
国会の会期が始まれば、妻ソフィアはタウンハウスを拠点にして社交に精を出すのだが、今回ばかりは想定外の出来事が多すぎる。夫ヒューバートを助けるつもりで、度々宮殿に出ていた。ソフィアと王女は昔馴染みだ。王女と面会すると言えば、邪魔はされない。
「ヒュー、あの子が心配だわ」
ソフィアは小声でヒューバートに囁く。何歳になっても変わらないと言われる、瑞々しい容貌には、不安が現れていた。ヒューバートの表情も硬い。
「ああ。ライオネルのことだから、上手くやると思うが──今回は事が事だけに、一つの失敗も許されん」
一歩間違えれば、ハートフォード公爵家とウィルキンソン伯爵家は没落する。
エベリーヌ王女の元に、国宝ファリーズのガーネットは返さなければならない。ハリネズミは自分で逃げたとして新たな一匹を贈れば良いが、国家一年分の予算が掛かる宝飾品に代替物などあるわけがなかった。その上で、犯人の手口を解明し、真犯人を捕えなければならなかった。
そうすることで、ようやくハートフォード公爵家とウィルキンソン伯爵家の無実が白日の下に晒される。
「せめて、使用人たちへの聴取は許可してくださったら宜しいのに」
口惜しそうにソフィアが呟いた。ヒューバートも全くの同感だった。
国王は、何を吹き込まれたのか、エベリーヌ王女と彼女に仕える使用人に事情聴取をすることも禁じたのだ。明言してこそされていないが、王女と周囲の者たちが客室に押し込められている今、ライオネルどころかハートフォード公爵やウィルキンソン伯爵が面会を願うこともできない。
「陛下も、ここ数年でだいぶ変わられてしまったな。お年を召したせいかと思っていたが、それだけでもないようだ」
「王女殿下も、ご心配なされていたわ」
控えめに、しかりはっきりとソフィアは口にする。
ヒューバートは、なるほどと頷いた。
「少しずつ、王女殿下や王子殿下にも状況が知られ始めているということか」
「ええ、恐らくね。陛下が一部の貴族とだけ懇意にしていて、そちらに考えを誘導されているのではないか、って」
ヒューバートとソフィアは歩調を緩めない。難しい表情になるのは避けられなかった。
王家が誰と懇意にしていようと、一介の貴族が口を出す問題ではない。ハートフォード公爵家は他の貴族と比べても王家と距離が近いが、王族の一人が個人的に親しくしている相手を制限することはできない。
ただ、もう一つの問題は、一体だれが国王に近付き、ハートフォード公爵家やウィルキンソン伯爵家に否定的な言説を吹き込んでいるのか、まるで掴めないことにあった。
「まるで呪術のようだな」
思わずヒューバートは苦々しくぼやく。ソフィアが目を丸くしてヒューバートを見上げた。
「あなた、本気で仰っているの?」
「もちろん、馬鹿げたことだとは思うよ。魔術なんて、それこそ過去の遺産だ。僕らの曽祖父母くらいの時代ならともかく──今は自然科学の時代だ。そうだろう?」
「その通りよ」
スペロ王国も科学が発展し、工業化も進んでいる。お陰で、移動のために馬や馬車だけに頼る必要もなくなった。金さえあれば、鉄道を使って国土の端から端まで移動できる。
「でも、東方の国は分からないだろう? 彼らは呪術や妙な毒を使うという話もある。どこまで本当か、分かったものじゃないけれどね」
「陛下のご様子に、東方の呪術が絡んでいると言うの?」
信じられないとソフィアは首を振った。
呪術や不可思議な力に魅了される女性も多いが、ソフィアは全くそうではない。ヒューバートから見れば、ソフィアほど現実的な考え方の持ち主は居なかった。同時に、他者に対する慈しみや愛情は誰よりも引けを取らない。
やはり素晴らしい女性だと心中で絶賛し、ヒューバートは自分の肘に触れているソフィアの手を温かく片手で包み込んだ。
「色々と調べても、陛下と特別に懇意にしている貴族の名前が出て来ないんだ。何かあるんだろうと思ってね。引き続き、調査は進めているよ。だから東方の話も、あくまでも可能性の一つというだけだ。もっとも、今最優先にすべきはそこじゃない」
「ええ、それもそうね」
ソフィアは頷く。
真に迫った危機は、エベリーヌ王女にまつわる盗難事件だ。早急に解決し犯人を捕えなければ、自分たちだけでなく、家族も路頭に迷うことになる。
「レオもだけれど、ローリーにセフィ、レックス──それに、エルちゃんも。あの子たちを守るためにも、私たちは全力を尽くしましょう」
「ああ、ソフィー。誰だか知らないが、決して犯人たちの思い通りにはさせないよ」
公爵夫妻は、囁き声で誓い合う。
彼らが向かう先は警察庁舎──ライオネルの仕事場だった。
☆☆☆☆☆
衛兵の交代式を見て満足した人々が、そろそろ帰るかと言いながら、一人二人と柵から離れて行く。
見事な衛兵交代式に目を奪われ茫然としていたフェリクスは、ようやくそこで違和感を覚えた。
「んあ? あれ?」
きょろきょろと周囲を見回す。
「あいつ、どこに行ったんだ?」
そう呟いて探すのは、フェリクスの弟オスニエルだ。だが、すぐ傍にいたはずの弟は姿かたちさえ見えない。
「やっべえ」
フェリクスは顔を青ざめさせた。
無断で屋敷を抜け出て来たことも怒られるだろうが、エルが行方不明になったとあっては、怒られるどころの話ではない。そして何より、フェリクス自身が嫌だった──自分はエルが居たから助かったのに、自分のせいでエルが永遠に失われることになるなど、耐えられない。
蒼白な顔のまま、フェリクスは足を踏み出す。心臓が嫌な音を立てていた。
ふと、フェリクスは視界のどこかで妙な動きを捉えた。反射的に、そちらへ顔を向ける。それは、完全にフェリクスの野生の勘とでも言うべき直感だった。
「あ────────っ!!」
腹の底から、フェリクスの声が響く。まだ宮殿を囲う柵の近くにいた人々はぎょっとフェリクスを振り返り、交代したばかりの衛兵たちも警戒するようにフェリクスに視線を投げかける。
その場に居るほぼ全員の視線を受けたフェリクスは、誤魔化すように、へへっと笑ってみせた。そして、怪しいものではないことを示すように、あえてゆっくりと柵から離れていく。だが、その視線はとある場所に釘付けだった。
多少足早になったのは、致し方ないだろう。
フェリクスは人々の視線が自分から外れたと思ったところで、勢いをつけて走り出した。向かう先は、宮殿に隣接しているヴィリディス公園である。
つい先ほど、フェリクスは、その公園に向かって、よちよち角を曲がっていくエルの後ろ姿を見かけたのだ。
曲がり角に辿り着いてもエルの姿は見えない。つまり、エルは公園に入って行ったに違いない。
「どこだっ!?」
公園には、高い柵がある。だが、その一部は壊れていて、幼児であれば潜り抜けられそうな隙間が空いていた。とはいえ、同年代の子供と比べると体格の良いフェリクスは通れない。
「くそっ」
小さく毒づいて、フェリクスは持ち前の運動神経を生かし、柵に齧りつく。勢いをつけて柵を乗り越え、公園の中に飛び降りた。
着地した場所は草木が生い茂っているところで、視界は悪い。フェリクスは必死だった。
もう少し違う場所なら、柵もなければ草木も少なく、芝生が広がっていたというのに──そういう場所ならば、フェリクスもエルを追いかけやすかっただろう。
周囲を見渡し、一体なにがエルの興味を搔き立てたのかと考える。フェリクスとエルが居た場所から、公園の中は見えないはずだ。つまり、何かが道を歩いているのを発見したエルが、それに惹かれて歩き出した結果、その何かと一緒に公園に入っていたのではないか──というのが、フェリクスの見立てだった。
そして、フェリクスの直感は正しかった。
決して勉強は得意ではないし、頭を使うことよりも体を使うことの方が得意なフェリクスだが、こういう時の野生的な勘は外すことがない。
「居た────────っ!!」
フェリクスは叫ぶ。
木立の隙間に見える、幼児に独特な、エルのよちよち歩きである。
年不相応にこまっしゃくれた発言をする、しかしやはり年相応に自由奔放な──ロレッタにはフェリクスも同じだろうと言われるだろうが──そんな弟をいざ捕まえようと、フェリクスは木の枝に邪魔されながら、公園内を走った。




