5. エルくん、宮殿へ行く 6
エルは、とてもご機嫌だった。るんるんと鼻歌でも歌い出しそうな勢いで、しかし慎重に乗合馬車の階段を下りる。フェリクスは少しハラハラとして、カートン卿を小脇に抱えたまま、エルが下りて来るのを待っていた。
「おりた!」
「ああ、上手だ」
やり切ったと輝かんばかりの顔でエルは宣言する。フェリクスはエルの頭を撫でて褒めた。
エルはにこにこと嬉しそうにして、手を伸ばすとフェリクスからカートン卿を受け取る。ちなみに、先ほど馬車で見つけた手荷物札は、エルが大事にポケットへしまい込んだ。
「きゅーでん、どこ?」
「もう少し歩いたところだな」
「とおいね」
「まあな」
フェリクスはそう言って歩き出す。もちろん、二人は傍から見ると中流階級の子供が着るような服を着ているのだから、宮殿の中に入れるはずはない。せめて、観光客に混じって外側から宮殿を眺めるだけだ。
『思ったよりも時間が掛かったな』
カートン卿が、エルに抱えられたままポツリと呟く。秋が迫っているからか、エルが都に到着した時よりも、日が落ちる時間が早くなっていた。
だが、エルは気にしない。念願の宮殿が、もう間近にあるのだ。フェリクスと共に、歩道を歩いて宮殿に向かう。
「きがあるよ?」
宮殿が見えて来たところで、エルはきょとんと小首を傾げた。
「ああ、ヴィリディス公園があるんだ。宮殿を囲んでる。正面以外だけど」
ヴィリディス公園は広大だ。木々も生えていて、ぱっと見ただけでは森のようである。だが、もちろん木陰で休めるよう椅子も用意されているし、小道も湖もあるのだという。
フェリクスが今思いついたというように、呟いた。
「もう少し早く来れたら、宮殿見た後に公園へ行っても良かったかもしれないなあ」
「こうえん! いきたい!」
公園。とても素敵な響きだ。エルはぴょこんと手を挙げる。
だが、フェリクスは笑いながら首を振る。
「また今度な。今日はさすがに、遅くなりすぎるだろ」
帰宅が遅くなれば、フェリクスとエルが家を抜け出したとバレてしまう。そうなると、怒られるのはフェリクスだ。さすがにそれは避けたい。
そして、エルは聞き分けが良かった。
「じゃあ、こんどいく」
「そうしようぜ」
話をしながら歩いて、フェリクスとエルは宮殿に到着した。
どこまでも続いていそうな柵に囲われ、門の前には赤色の制服を着た衛兵がいる。衛兵は銃剣を持っていて、不愛想に集まった観光客を睥睨していた。
エルとフェリクスは、集っている者たちの合間を抜けて柵に近付く。
柵の向こう側には綺麗に整えられた庭が広がっていた。緑の芝生に、美しく植えられた色とりどりの花が映えている。そして、庭よりも更に奥に、白亜の壁がある。古い石造りの外壁で、巨大な円柱と円柱の間に縦長の窓が嵌っていた。
エルはその壮大さに、目を奪われる。
「きれいねえ……」
「そうだなあ」
エルの隣に立っていたフェリクスが、腕を組んだまま同意するように頷いた。
フェリクスは既に何度か宮殿を見たことがある。だが、改めて眺めると、確かにエルの言う通り見事な眺めだ。あと四年ほどすればフェリクスも成人になる。そうなれば、一度は宮殿に足を運ぶ機会もあるだろう。
その時人々が騒めく。
「──?」
エルとフェリクスは顔を見合わせた。一体何事かと、人々の視線の先を探す。
すると、ちょうど各所に立っている近衛兵が交代する時間だったようだ。近衛兵楽隊が華々しい音楽を奏で初める。閉じられていた門が開き、近衛の団体が行進を始める。
『衛兵交代式だな。晴れの日には大々的にやるんだ。雨の日は、楽隊は出て来ない』
(ふうん)
真ん丸な目をぱちくりとさせて、エルはカートン卿の説明に納得した。
一日に一度しか見られないというのならば、やはりエルとフェリクスは運が良かったのだ。その上、衛兵交代にはそれほど長く時間が掛かるわけでもない。
あっという間に楽隊は引っ込み、宮殿の周囲は元の静けさを取り戻す。だが、人々は興奮冷めやらぬ様子で騒めいていた。フェリクスも衛兵交代式を見たのは初めてで、落ち着かない素振りだ。
そんな中で、エルはふと、視界の端を横切る黒い影に気が付いた。
ほんの偶然──普通なら見逃してしまいそうな、小さな影。それに気が付いたのも、神の仕業だったのかもしれない。
エルの丸い目が輝く。興奮で頬が紅潮する。
『エル坊? どうした──』
不審に思ったカートン卿が尋ね終えるよりも早く、エルは今しがた目にしたばかりの影に向かって、一目散に駆け出していた。
☆☆☆☆☆
ミス・クランベリーは、すぐに七月二十四日の朝刊を持って来た。ライオネルは新聞を受け取ると、気が急いたように新聞を広げて個人広告の欄を見る。
驚いたようにライオネルの行動を眺めていたエルマーは、興味が湧いた様子で、身を乗り出し傍から新聞を覗き込んだ。
「朝刊の個人広告欄に、なにかあるのかい?」
「その可能性があるというだけだ」
ライオネルの答えは冷たく響く。だが、それが緊張故のものだと、エルマーは知っていた。
「さっきの手紙は誰から?」
「お前の弟だよ」
「弟? 二人いるけど──お前宛てに手紙を出して来たってことは、ジョエルの方かな?」
エルマーは意外なことを聞いたというように目を瞬かせる。ライオネルは答えない。だが、それが答えだった。
個人広告欄を眺めながら、エルマーは呟く。
「あいつ、元気でやってるのかねえ。急に修道士になるって言いだした時は、とうとうか、と思ったものだけれど」
ウィルキンソン伯爵家で育ったジョエルは、周囲から少し浮いていた。浮世離れしていた、と言っても良いかもしれない。時折口にする言葉は意味が分からず、エルマーも何度も戸惑ったものだ。
だが、ジョエルはウィルキンソン伯爵家の面々にとっては大事な家族だった。エルマーにとっても、初めてできた可愛い弟だったのだ。
それでも、可愛がっているからこそ分かることもある。恐らくこの弟は、自分たちが当たり前と感じている未来を──伯爵家の次男が普通に選ぶだろう、軍人や聖職者、弁護士や裁判官、医師といった職業には進まないだろうと、そう思っていた。そうしたら案の定、ジョエルは聖職者どころか、修道士の道を選んだ。高位聖職者とは違う、茨の道だ。同時に、ジョエルらしいと心のどこかで納得したものだった。
「便りがないのは良い知らせというだろう。気にすることはない」
淡々としているライオネルに、エルマーは少し不服そうに、だが冗談交じりに言い返す。
「兄の僕じゃなくて、お前に手紙を送って来たのが少し、気に入らない」
そうして、エルマーは改めて新聞広告に目を落とした。
「それで、探し物は見つかった?」
「ああ。恐らく、これだ」
ライオネルは新聞に書かれたいくつかの個人広告のうち、一つを指差す。
そこには、奇妙な文言が書かれていた。
『個人広告──白いトゲを持つ、掌に収まる真ん丸な貴婦人、ミセス・ベンジャミンをご存じの方は、アーモンド社気付、C.A.までお知らせください』
エルマーは目を瞬かせる。どう見ても、謎かけのようだった。
「悪戯のようにも見えるけれど?」
「普通に見れば、そうだろうな。だが、ミセス・ベンジャミン──この単語に聞き覚えはないか? お前も、夜会には出ていただろう」
意味深に、ライオネルは目を眇めて幼馴染を見やる。エルマーは目を瞬かせたが、すぐに悟った。
ミセス・ベンジャミン──それは、スペロ王国での発音だ。だが、読み方を変えれば、アーテム王国の発音になる。
「マダム・バンジャマンか!」
「その通り」
ライオネルは、口角を上げた。エルマーは髪をくしゃりと掴む。そして、眉間に皺を寄せた。
「つまり、これは個人広告に見せかけて──エベリーヌ王女殿下のペットを探していたということか?」
「探していたかどうかは分からないが、今回の盗難事件と関係がある可能性はあるだろう。相変わらず、お前の弟は未来を予知しているかのようだ」
エルマーは低く唸る。確かにその通りだが、今はジョエルのことよりも、消えたハリネズミと国宝ファリーズのガーネットの行方が大事だ。
二人は息を吐いて、ソファーに並んで腰かける。個人広告を前にして、エルマーとライオネルは頭を抱える。
手掛かりになり得そうな個人広告は見つけたが、ここから犯人を突き止めるのは至難の業だ。ヒントは、ひどく限られている。
難しい表情を浮かべ、エルマーが口を開いた。
「この中で犯人特定の手掛かりになりそうな情報は二つ。『アーモンド社』と『C.A.』というイニシャルだ。アーモンド社の方が、特定はしやすそうだな」
ライオネルも頷く。だが、難題であることに変わりはない。
「アーモンドと名の付く会社はたくさんあるぞ。だが、アーモンド社という単純な社名はないはずだ」
「電話帳から一つずつ当たって行くかい、ライオネル?」
「その間に、敵は宝石をもって遁走するさ。そして、めでたくハートフォード公爵家とウィルキンソン伯爵家は没落」
「全く、有難くない未来予想だ」
エルマーは鼻を鳴らした。だが、今できることは他にない。
ライオネルは立ち上がると執務室の扉を開けて、ミス・クランベリーにもう一度頼んだ。
「ミス・クランベリー。アーモンドと名前の付く会社の一覧をくれ」
「承知いたしました」
ミス・クランベリーは少しうんざりしたように片眉を上げて、しかしあっさりと承諾した。
リアクションありがとうございます嬉しいです。
そろそろ終焉に向かって物語が動き始めます…あとちょっと、お付き合いくださいませ。




