5. エルくん、宮殿へ行く 4
フェリクスは首を傾げた。
見下ろした小さな弟は、ふくふくとした頬をピンク色に染め、真剣な表情でフェリクスを見上げている。
しっかりと抱っこしたお気に入りのクマのぬいぐるみ、カートン卿とほとんど同じ大きさだ。無意識にエルの頭を撫でる。
「行きたいところ?」
「あい」
しっかりとエルは頷く。そして、エルは期待に満ちた目でフェリクスを見つめた。
「きゅーでん、いきたいの」
つまり、一緒に行こうよお兄ちゃん、ということである。
フェリクスは考えた。宮殿への行き方は知っている。何なら、フェリクスは一人で行ったこともある。辻馬車を使えば一発だし、乗合馬車でも少し時間は掛かるが辿り着く。
そういえばエルは乗合馬車にも興味を示していたな、とフェリクスは思い出した。基本的に勉強は嫌いだし、深く考えることもしない性質だが、弟が話していたことは半分くらい覚えている。
なにより、フェリクスは何となく、家に居たくなかった。ロレッタと久々に喧嘩をした──言い合いは頻繁だが、今回のようにフェリクスの大事なところに踏み込まれるような喧嘩は、とても久々だった。
ロレッタが嫌いなわけではないが、彼女の真っ直ぐで正義感が強い性格は少し、苦手だ。それも、幼いころはロレッタの方が口が達者で、フェリクスはいつも言い負かされていた。それのせいで余計に、苦手意識が強くなっている。
だが、逃げたくとも、いつもフェリクスが行っていた酒場にはもう行けない。仲良くしていた相手もいるが、反政府組織が捕まった場所に行ける立場ではなかった。
「そうだなあ。うん、それも良いかもな」
フェリクスは何気なく答えた。エルはぱっと顔を輝かせる。
エルはわくわくと、フェリクスに向かって身を乗り出した。
「いく! いまから?」
期待に満ちた弟の質問を受けて、フェリクスは時計を見た。
昼ご飯が終わって、晩ご飯まではまだ時間がある。多少、宮殿まで距離はあるが、居ないことが気付かれる前に、戻って来られるだろう。
フェリクスは、とても気楽にそう考えた。楽観的とも言える。
「ああ、今から行こう。どうする、辻馬車か、乗合馬車に乗るか?」
「のるー!」
エルのテンションは最大である。フェリクスの胡坐をかいた足に両手を置き、ぴょんぴょんと跳ねる。
落ち着け、と宥めながらも、ずっと不機嫌そうだったフェリクスの頬が笑みに綻んだ。
「それなら、洋服をどうにかしないとな。俺の服でいいか?」
聞きながらも、フェリクスは立ち上がって衣装棚から以前、エルが見つけた袋を取り出した。中から古ぼけた洋服を引っ張り出し、エルに着せてやる。余った袖と足の裾をまくってやり、自分も手慣れた様子で服を着替えた。
『……いやいやいや、エル坊』
待ってくれ、と言いたげなカートン卿の声を、エルは無視した。なんとなく言いたいことは分かるが、これはエルにとって大事なお仕事なのだ。エルは、困っている人を助けに行くのだから!
もちろん、宮殿に辿り着いたとしても、簡単に中には入れないのだが、これまで門前払いをされたことのないエルの頭にその懸念はない。
フェリクスの手で外出の準備を整えて貰ったエルは、意気揚々とカートン卿を抱き上げた。フェリクスは思わず、そんなエルをまじまじと見つめる。
「そいつも、連れて行くのか?」
「あい! かーとんきょーも、いっしょなの!」
エルにとって、カートン卿は苦楽を共にした仲間だ。なんなら、大冒険をする時の相棒と言っても良い。真夜中の教会にだって、二人で行ったのだから。
そして、カートン卿も置いて行かれるつもりは全くなかった。
『エル坊、フェリクスが何を言っても、俺は一緒に行くからな』
(うん)
当然のようにエルはカートン卿に同意する。
フェリクスは少し困った様子で頭を掻いたが、まあ良いか、と開き直った。
「落としても泣くなよ」
「? おとさないよ?」
これまでどんなことがあっても、エル坊はカートン卿と離れたことがない。落とす、という言葉はエルも当然知っていたが、それとカートン卿が結びつかず、エルはきょとんと首を傾げた。
フェリクスは「それなら良いけどな」と口の中で呟いた。まあ、自分が気を付けていれば、カートン卿が居なくなったとエルが悲しみ泣くようなことにもならないだろう、と考えて。
「じゃあ、行こうか」
フェリクスと共に、エルはるんるんで部屋を出た。
昔から何度も無断で家を抜け出しているフェリクスは、使用人の目が薄い通路を知っている。これまでも館を探検するときに、フェリクスのそういう知識が役立ってはいたのだが、今回ほど存分に発揮されたことはなかった。
なんなくタウンハウスを出た二人と一匹──ならぬクマのぬいぐるみは、意気揚々と道を歩く。
フェリクスは辻馬車を探していたが、タイミングが悪かったのか、全く見当たらない。歩くにしても距離がありすぎると考えたフェリクスは、方針転換することにした。
「エル、お前、もうちょっと歩けるか?」
「あるけうよ」
エルは少し言葉を噛んでしまうが、フェリクスは難なく理解する。
「それなら、南に行こう。そこに、乗合馬車の停留所がある」
「あい!」
乗合馬車に乗れることに、エルは喜ぶ。話に聞いていただけで、すごく気になっていたのだ。
だが、しばらく歩いたところで、エルは重大な問題に気が付いた。
「ふぃるにいさま」
「どうした?」
「おかね、ないです」
アルマから、乗合馬車に乗るためにはお金がいると聞いた。それも、結構な額だったはずだ。
だが、フェリクスは声を立てて笑う。エルの深刻な表情を面白がりながら、彼は弟の頭をくしゃりと撫でた。
「最初からお前が持ってるとは思わねえよ。お前の分も俺が持ってるから大丈夫だ」
「ぼくのも?」
「ああ」
そう言っただろ、とフェリクスは頷く。だが、エルはまだ真剣だった。
「かーとんきょーのは?」
「は? いや、そのクマは金を払わなくても乗れるよ」
エルは目を真ん丸に見開く。
「かーとんきょー、おかね、いらないの?」
「いらねえよ。払うのは人間だけだ」
ぬいぐるみや人形を、人間と同じように扱うのは小さな子供にありがちだ。セラフィーナも、もっと小さい時はそうだったと、フェリクスは思い出す。
確か、セラフィーナが怒ったり笑ったりするのが嬉しくて、セラフィーナの大事な人形に落書きをしたことがあった。その頃からだ。ロレッタから、フェリクスへの当たりが強くなりだしたのは。もしかしたら、ロレッタはセラフィーナを守りたかったのかもしれないと、フェリクスはぼんやり思った。
だが、元々あまり考えることは得意ではない。頭からあっさりと追憶は消え去り、フェリクスは「お」と呟いた。
どうやら、ちょうど時間が良かったらしい。
「エル、あれが乗合馬車だ」
フェリクスが指差す先には、箱型の馬車があった。箱の側面には「アーモンド・カカオ」と書かれている。乗合馬車に出資している店の広告だ。二頭立てで、箱の上にも座席がある。御者は箱の前方に座っていて、そこから客を呼び込んでいた。
「もう少しで発車するよ! 銅貨十二枚、銅貨十二枚だ! お乗りの方はいないかね!?」
大きな銅鑼声である。あまり他人の怒鳴り声を聞いたことのないエルは、目を白黒させた。一方のフェリクスは、全く怯んだようすなく、むしろエルを急かす。
「エル、行くぞ。乗り遅れたら待たされる」
「うん」
分かったと、エルはフェリクスと手を繋いで必死に走った。だが、途中でフェリクスが「めんどくせ」と呟く。そして、エルはなんの前触れもなく、フェリクスに抱っこされた。
「ふぃるにいさま?」
「しっかり掴まってろ」
それだけを告げて、フェリクスは乗合馬車の所まで走る。そして、御者に二人分の運賃を支払うと、溜息を吐いてエルを地面に下した。
「で、エル。乗合馬車には一階と二階があるけど、どっちに乗りたい?」
「にかい!」
もちろん、選ぶのは二階だ。二階は箱の上部に造られていて、屋根がない。箱の後ろにある螺旋階段を昇って行かなければならないが、それでさえわくわくする。
迷いなく答えたエルに笑みを零すと、フェリクスはエルが螺旋階段を上るのを手伝ってくれた。さすがに、エルもカートン卿を抱えては階段を登れないから、カートン卿はフェリクスが小脇に抱えている。
上まで登り切ったエルは、見事な眺望に歓声を上げた。
「きれいねえ」
「そうだな。エル、とりあえず椅子に座れ。動き出したら危ないぞ」
「あい」
素直に頷いて、エルは椅子に腰掛ける。フェリクスからカートン卿を受け取ると、カートン卿は自分の隣に座らせた。そして、手すりをしっかりと握る。フェリクスはカートン卿を挟んで、エルの隣だ。
時間のせいか、乗合馬車の乗客はそれほど多くなかった。それに、乗客は皆一階に座っている。特に女性は、二階に上る時、階段の下からスカートの中が見えるのを嫌って一階を好むものだ。
少しして、もうこれ以上客は来ないと踏んだ御者が手綱と鞭を持つ。掛け声と鞭打つ音と共に、馬車は動き出した。
エルは興味津々で流れる景色を眺める。途中で何度か停留所に停まったが、乗客の出入りは一階だけで、二階はずっとエルとフェリクス、そしてカートン卿だけである。
しばらくしてから、ずっと景色を眺めていたエルがフェリクスを振り返った。
「ふぃるにいさま、あと、どれくらい?」
「宮殿までか? そうだな、五分か十分くらい、ってところじゃないか」
フェリクスが周囲の景色を見回して答える。エルがふうん、と頷いたその時、馬車が大きなカーブに差し掛かる。ぐらりとエルの体が揺れて、咄嗟にエルは、壁際の座面に手をつく。
「おおっと、危ねえ。エル、大丈夫か?」
慌ててエルの体を支えようと手を伸ばしたフェリクスは、エルの首根っこを引っ掴んでいた。まだ小さく体重も軽いエルが、車外に飛び出なかったことにほっと安堵する。だが、エルからの返事がない。フェリクスは不思議そうに首を傾げて、「エル?」と名を呼ぶ。
一方、エルは印象的な青く大きな目を、ぱちくりとさせていた。
エルのふっくらとした、しかし小さな手は、座席と壁の隙間に挟まっている。体を支えようとした瞬間に、指先が隙間に入ったのだが、指先に妙な感触を覚えたのだ。なんだろうと思って、エルは手をその隙間に突っ込んだ。




