2. 修道士と不可思議な夢 1
エルの旅は、順調に進んだ。こぢんまりとした村や少し大きな町、色々な場所に立ち寄り、領主館や爵位のある者の邸宅に泊まる。
大人だけならば一週間もせずに到着する距離だが、エルが居るため、馬車はとてもゆっくりと進んだ。そして、立ち寄ったどの場所でも、エルは歓待された。
「あるま、また、おとまりするの?」
「左様ですよ、エルお坊ちゃま。次は修道院がありますから、そこにご厄介になります」
「しゅーどいん?」
なんだか聞いたことがあるな、と、エルは小首を傾げた。確か、お気に入りの絵本に、修道院なるものが出て来た気がする。
そんなエルに、少し疲れた様子で馬車の椅子に腰掛けたカートン卿が囁いた。
『修道士が居る場所だ。ほら、お前の好きな、ウサギの絵本に出て来ただろう』
ぴこん、とエルの頭に一つのイラストが浮かび上がる。それは、ウサギの紳士が主人公の絵本だった。
彼は冒険好きのウサギで、鉄道を使って国中を旅する。ある日、道に迷った彼は、夜遅くなってひもじい思いをしているところで、修道院に行き着くのだ。
修道院は貧しくろくな食事もなかったが、野ネズミの修道士は心を込めてウサギの紳士をもてなす。絵に描かれていた塩と薬草のスープが美味しそうで、エルはアルマにねだって、薬草のスープを作って貰ったことがあった。
「てつど! あるま、ぽっぽは?」
「ぽっぽ? いえ、汽車はないですよ」
アルマはきょとんとしたが、すぐにエルがウサギの絵本のことを言っているのだと思い至る。
にこやかに笑って、彼女は優しく、ふわふわの頭を撫でた。
「ぽっぽ、ないの?」
「はい。汽車は、残念ながらまだ私たちの領地には通っていないのです」
エルは、精一杯の難しい顔で考え込んだ。
ウサギの絵本では、鉄道に乗ればどこまでも行けるようだった。だが、実際には、汽車はエルたちの生活圏にはない。まだ開発されたばかりで、首都と主要都市を結ぶ路線しかなかった。
あからさまに、エルはがっかりした。ふくふかのほっぺが、ぷくっと膨れる。
「ぽっぽ、のりたかった」
「いつか、乗れる日が来ると良いですね」
アルマはにこにことして、エルを励ますように小さな背中を撫でた。エルはぎゅうっと、アルマに抱き着く。
そんな二人を、グレンは苦笑と共に眺めていた。
「甥が手紙で知らせて来ましたが、汽車はかなり煙が凄いらしいですからなぁ。エルお坊ちゃまが乗られても良いかどうかは、一度お医者様に伺った方が宜しいでしょう」
「そんなに凄いのですか」
グレンの話を聞いたアルマが目を瞠る。グレンは重々しく頷いた。
「機関士は、頬も手も煤で真っ黒になるそうですよ。客室は窓を閉めれますから、そこまで酷くはないでしょうが」
「まあ、それは」
アルマは絶句した。
炭水車で石炭や木材などを燃料とする汽車は、排気も多い。機関士や機関助手が乗る運転席は炭水車のすぐ後ろだから、排煙を直接受けることになる。
「汽車は馬車よりもずいぶんと速いと聞きますけれど、煙が凄いのですね」
「新聞に載っている写真も、確かにずいぶんと煙が酷いように見えます」
グレンもアルマも、汽車なるものを目の当たりにしたことがない。
エルは、アルマとグレンの会話をきょとんとしながら聞いていた。だが、その目はカートン卿にくぎ付けだ。カートン卿の黒い宝石のような目が、普段より深みを増している。そして、エルの青く澄んだ瞳は、他の誰も見れない光景を眺めていた。
とてつもない速さで後ろへ流れていく景色。しかし、遠くに見える白い雲はほとんど動かない。疾風が髪を乱す。体は常に一種独特な振動を感じ、耳も騒音を覚えている。遠くに男の声が聞こえて、騒音がマシになり、疾風は止んだ。
視界が揺れる。次いで視界に移ったのは、車内の景色だった。
綺麗に整えられた二人掛けの椅子が向かい合っている。重厚なウォールナットの壁が車窓の反対側にあり、そこには扉が設えられていた。顔を上げれば、扉の上には『一等客車』という札が掛かっている。
ぱちん、と音がして、エルの意識が現実に戻った。カートン卿の目も、全く元通りになっている。
カートン卿は普段よりも少し悪戯っぽい声で、エルに囁いた。
『これが汽車だ』
(これが!? ぽっぽ!? すごいの!)
固くカートン卿と約束したから辛うじて声には出さないが、エルは大興奮だった。
声には出ないが、まだエルは幼い。自然と体が揺れてしまう。アルマの膝の上で座ったまま飛び跳ねたエルを、アルマが慌てて抱きしめた。
「エルお坊ちゃま、そうして暴れられると、落ちてしまいますわ」
グレンも一瞬驚いて目を瞠ったが、すぐに彼は頬を緩めた。
「なにか、楽しいことでもありましたかな?」
「うん、ぽっぽ、のるの!」
アルマとグレンは相好を崩す。エルが可愛くて仕方がないとでも言いたげに、二人ははっきりと頷いた。
「そうですね。ぜひ、汽車に乗せていただけるよう、旦那様と奥様にお願いいたしましょう」
「医師にも確認を取らねばなりませんが、何かしらの対策はできるでしょうからな。グレンめも準備をしておきますぞ、エルお坊ちゃま」
「やったあ!」
エルは嬉しくて、ぴょこぴょこと跳ねる。アルマに危ないと抱きしめられたことは、すっかり頭から消えていた。
「お坊ちゃま、お坊ちゃま、危ないから、ちゃんとお座りしましょう」
アルマに宥められて、エルはハッとする。そして、今度こそ大人しくアルマの膝に収まった。
☆☆☆☆☆
修道院のある町アルナスは、だいぶこぢんまりとしていた。教会と修道院の敷地を除けば、ごくわずかな土地しかない。
とはいえ、有名な巡礼地だからか、それなりに人気はあった。道を歩く人々も質素な身なりで大人しく、馬車の窓から顔を覗かせるエルを見ては皆、頬を緩める。
「エルお坊ちゃま、到着しましたよ」
アルマとグレンに連れられて、エルは馬車から降り立った。その腕には、しっかりとカートン卿を抱いている。
一行を出迎えたのは、揃いの修道服を着た修道士たちだった。男性用の修道院らしく、女性の姿はない。
「ようこそいらっしゃいました、ハートフォード公子オスニエル様」
代表して、一番年嵩の男が口を開く。彼は、うやうやしくエルに向けて首を垂れた。
これまで、エルはアルマやグレンといった使用人以外と会ったことがない。そのため、旅を始めたばかりの頃は、小難しい言葉を使って恭しく接して来る大人を相手に、どうすれば良いのか戸惑った。
だが、今ではもう慣れたものだ。
できるだけ堂々と見えるように胸を張って──といっても、カートン卿を抱きしめているので、気持ちだけなのだが──できるだけ丁寧に聞こえるように、挨拶をする。
「こんにちあ。えるです。おしぇわになりましゅ」
しっかり言えたと、エルは満足した。修道士たちの笑みが先ほどより深いものになっているが、エルは気付かなかった。
グレンとアルマも、優しい目でエルを見つめている。グレンに至っては、もはや祖父のような表情である。だが、誰も口を挟まない。
少しして、軽く咳払いをしたグレンは顔を修道士たちに向けた。
「エルお坊ちゃまは、長旅でお疲れでいらっしゃいます。すぐにでも部屋に伺いたいのだが──」
「もちろん、見晴らしの良い場所をご用意しております。こちらへ」
年嵩の男が、傍に立っていた若い修道士に目配せをする。すると、修道士は心得たもので、一歩前に出た。
「私めがご案内申し上げます。どうぞ」
グレンが堂々と頷き、エルを促す。エルは、とことこと修道士の後を追った。修道士は、普段の半分の速度で歩き始める。のんびりと進む一行は、修道院の正面入り口から中に入り、併設している教会の通路を通った。
エルは、ぽかんと教会の壁と天井を仰ぎ見る。いつの間にか、足が止まっていた。合わせて、修道士やグレン、アルマも立ち止まる。
「どうかなさいましたか、エルお坊ちゃま?」
アルマに尋ねられて、エルは「しゅごいの……」と呟いた。他に言葉を思いつかなかった。
教会は広く、質素でありながらも趣を凝らした造りになっている。
端にある通路の中央前方の柱は螺旋階段になっていて、壁際に造られた二階回廊へと繋がっていた。柱は石造りで、細かな文様や聖書の物語が彫刻として描かれている。天井画も彫刻と調和するように描かれていた。
正面奥の壁には窓が三つあり、その全てに色とりどりのステンドグラスが埋め込まれている。外から差し込む太陽光が虹色に変わり、きらきらと教会の祭壇を照らしていた。
「本当に、美しいですね」
アルマもエルにつられるようにして周囲を見渡し、感嘆の声を上げる。
若い修道士は、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「この修道院は、一三〇〇年前に建てられたものなのです。修繕はしておりますが、当時から何ら変わらない姿を保っているのですよ」
「まあ、そんな昔から」
アルマは感嘆の声を上げる。グレンは知っていたようで、「聖アルナスが造られたと聞き及んでいます」と答えていた。
エルは、抱きしめたカートン卿にこっそり尋ねる。
(ここができたとき、おとうさまとおかあさま、ちいさい?)
『いや、そもそも居ないな。お前の祖父さん祖母さんの、そのまた祖父さん祖母さんの──それよりももっともっと昔の話だ』
(すごく、むかし?)
『そうだ』
エルは良く分からなかった。だが、とてもこの修道院がおじいさんなのだということは理解した。
おじいさんとおばあさんは、大切にしなければならない。そう、エルは教えられた。だから、きっとこの修道院も、大事にしなければならないのだ。
きゅっと口を引き結んだエルに何を思ったのか、アルマとグレンは首を傾げる。一方のカートン卿は、そんなエルにそっと囁いた。
『──この建物はお前よりもずいぶんと頑丈だから、気にしなくても大丈夫だぞ』
(つよい? よかった)
多少走り回っても大丈夫らしいと、エルは安心する。カートン卿の声は少し面白がる雰囲気があったが、エルは気にしないことにした。
修道士は、グレンとアルマに告げる。
「お食事の後も、よろしければぜひ教会に足をお運びください。月光の差し込むステンドグラスも美しいですよ」
「それでしたら、ぜひ」
アルマとグレンは快諾する。
食事が終われば、エルは寝る時間だ。だが、グレンとアルマはまだ起きている。
その時に、教会をじっくり堪能するのも悪くないと思えた。




