3. 霧の都とタウンハウス 6
エルがタウンハウスに滞在して二日目の朝。
小さな主を起こしに来たアルマは、フェリクスがエルと一緒になってシーツに包まっているのを見て目を瞠った。だが、普段と変わらない穏やかな表情で、エルとフェリクスを起こす。もちろん、フェリクス用の朝食も準備するよう侍女に言いつけるのも忘れない。
使用人たちは元々、フェリクスが朝食を摂ると想定していなかったため、慌てて一人分を追加することになった。とはいえ、元々多めに用意しているから大した手間でもない。
そんな周囲の慌てっぷりには当然気付くこともなく、エルはご機嫌で寝間着を部屋着に替えると、カートン卿を片手に、もう一方の手はフェリクスと繋いで食堂に向かう。
食堂の前に到着すると、次女のセラフィーナが、エルとフェリクスの反対側を歩いて来たところだった。セラフィーナはフェリクスを見ると、わずかに肩をびくりと緊張させる。だが、エルはそんなセラフィーナの反応には気が付かないまま、元気な声を出した。
「せふぃねえさま、おはよございましゅ!」
「あ……ええ、エルくん。おはようございます」
フェリクスには苦手意識が抜けないセラフィーナも、エルと言葉を交わす時は穏やかな表情になる。フェリクスは無言だったが、エルはきょとんとそんな兄を見上げた。
「ふぃるにいさま、ごあいさつは?」
朝に限らず、挨拶は大事だとアルマやグレンから教えられているエルである。純粋に、フェリクスとセラフィーナが朝の挨拶を交わさないことが不思議だった。
思春期真っ只中のフェリクスだが、まだ幼いエルの前で褒められた態度でないことは重々承知している。軽く舌打ちをしたが、セラフィーナが再度びくっとしたのを視界に入れると、眉間に皺を寄せながらも小さく告げた。
「──おはよ」
「あ、お、おはよう、ございます……」
セラフィーナも戸惑ってはいたが、微かな声で返事をする。
満足したエルは、お腹が減ったこともあり、早く食堂に入ろうとフェリクスを急かした。
食堂に到着したのは、エルとフェリクス、そしてセラフィーナが最初だった。そして、数分遅れてロレッタもやって来る。ロレッタはセラフィーナとエルを見て嬉しそうに頬を綻ばせたが、フェリクスを見て思い切り顔を顰めた。そして、すぐに嘲笑するように口角を上げる。
「珍しい人が居ると思った。エルくんの部屋で寝てたって聞いたわよ。今日は青空から稲妻でも落ちて来るわけ?」
「なんだ、俺が居たらお前にとっては都合が悪いか?」
当然、フェリクスも条件反射のように言い返した。ロレッタとフェリクスは水と油である。顔を合わせれば衝突して来た二人をずっと見て来たこともあって、セラフィーナはそっと遠い目をした。穏やかなセラフィーナにとって、どれだけ間近にして来ても二人の丁々発止なやり取りは落ち着かない。
だが、そんな空気の悪さを全く気にしない人物がいた。
「える、ふぃるにいさまとおねんねしたの!」
途端に、ロレッタはフェリクスから視線を外して満面の笑みを浮かべる。エルは得意げだが、ロレッタは敢えてフェリクスの話題に触れない。
「エルくん、おはよう。早起きさんなのね」
「うん!」
元気よく頷いて、エルは思い出したように慌てて付け加えた。
「ろーりーねえさま、おはよごじゃいましゅ。える、ごはん、たのしみにしてたの!」
「良かったわ。今日のデザートは、レオお兄様の手作りですって」
ロレッタの変わりように、フェリクスはげんなりしとして、そっぽを向いた。
一方のエルは、きょとんと小首を傾げる。レオお兄様とは、公爵家の長兄のはずだ。それまで無言だったカートン卿も、『ほう』と面白がるような声を上げている。
「れおにいさま、おかし、つくるの?」
「そうよ、普段は滅多に作られないんだけど、お上手なのよ」
セラフィーナも好物なのよね、とロレッタは妹にも話題を振った。ロレッタとフェリクスが言い合っている時は我関せずと極力気配を消している次女も、少しはにかんで頷く。
「ええ、レオお兄様がお作りになられるお菓子は絶品なのよぉ」
「たのしみ!」
エルは一層、元気になった。ただでさえ空いていたお腹が、更にぐぅと鳴く。今回も昨夜と同じく、エルの隣に置かれた椅子へちょこなんと座っているカートン卿が、相変わらずエルにしか聞こえない声でぼそりと呟いた。
『どうなってるんだ、この家は。「武」の公爵家嫡男が、菓子作りをするのか?』
(おかしいの?)
朝食は家族全員が揃ってから始まる。ソワソワしながらも、エルはおりこうさんと言われるようにきちんと椅子に腰掛けていた。そして、ちらりとカートン卿を見る。
カートン卿はくまのぬいぐるみだから、当然、身動きは取れない。視線は白いテーブルクロスの垂れている部分に向けられたまま、淡々と答えた。
『料理もだがな、お菓子も当然、料理人が作るものなんだよ、エル坊。貴族は料理場には立ち入らない。料理人になりたいと思う貴族の娘が、居ないわけでもないがな。それも下位貴族に限られる。大半は、雇われる家近くに住んでいる娘やら男の仕事だよ』
(ふうん)
カートン卿は説明しながら、エルにしか見えない景色をたまに見せてくれる。お陰で、エルも理解が捗った。
そうこうしているうちに、両親もやってくる。どうやら、長兄ライオネルは既に出かけているらしい。
父ヒューバートと母ソフィアは見事なもので、フェリクスを見てほんのわずかに目を瞠っただけだった。他の子どもたちと同じように朝の挨拶をするた。ヒューバートが腰掛けて食卓の祈りを捧げ、朝食が始まった。ヒューバートの傍らには朝刊が置いてある。エルはトマトソースで煮た豆をもぐもぐと食べながら、じっと大きな目で朝刊を見つめた。
「エルちゃん、朝刊が気になるの?」
母ソフィアが目敏く気が付く。エルはこくりと頷いた。ソフィアの代わりに、父ヒューバートが笑みを浮かべた顔をエルに向ける。
「これは、毎朝新聞売りの少年が持って来てくれるんだよ。それを、デニスが買って来るんだ。私たち貴族が愛読している社交界用の新聞もあるが、庶民向けのこういった新聞は、我々が知る由もない情報を載せていることがあるからね」
茶目っけたっぷりに、ヒューバートは固めを瞑る。すると、それまでフェリクスを視界に入れないようにしていたロレッタが、興味津々に身を乗り出した。
「お父様、なにか面白いことは書いてありまして?」
「大したことはないよ。警察が、反政府組織を捕まえたことくらいかな」
ヒューバートはロレッタやエル、セラフィーナ、そしてフェリクスに興味を持たせたくないのか、あくまでもさらっと答える。ロレッタはそんな父親の心境を察したのか、事件の内容に深く触れることはせず、代わりに長兄のことを尋ねた。
「レオお兄様が今日いらっしゃらないのも、その関係?」
「ああ、そうだろうね。今朝早くに帰って来て菓子を作ったかと思えば、早々に出て行ったらしい。随分とストレスが溜まっていたんだろう」
菓子作りは、どうやら嫡子ライオネルのストレス発散らしい。
興味津々に思いながらも、エルの関心はどうしても目の前にある美味しそうな朝食に向く。黙々と朝食に集中し始めたエルは、朝刊の一面に載った絵を見たフェリクスの顔色が悪くなっていたことに、気付いていなかった。
☆☆☆☆☆
フェリクスは、愕然としていた。
父親が話をしていた、反政府組織の制圧──その現場が、朝刊の一面に載っていた。写実性よりも即時性を求めたのか、その絵は簡略化されていたが、それでもフェリクスにとっては一目瞭然だった。
(嘘だろ──)
それ以外に言葉が見つからない。
そこは、場末にある酒場だった。フェリクスはまだ未成年だったが、実家も居心地が悪く。事あるごとにその酒場に入り浸っていた。フェリクスと同じ高位貴族の子息は居なかったが、中流階級や比較的裕福な労働者階級の人間がたむろしていた。
フェリクスが成年であれば、紳士倶楽部に出入りしていただろう。だが、まだフェリクスの年齢では紳士俱楽部に足を踏み入れるどころか、招待してもらうことすらできない。その矢先に偶然知ったのが、その酒場だった。
客層の割には大人しい者が多く、身の危険を感じなかったことも、フェリクスが入り浸る理由となっていた。
(あの酒場に居たおっさんたちが、反政府組織で──国家転覆の計画を練っていたって?)
フェリクスはあまり勉強が得意ではない。それでも、常識的に考えて、警察が踏み込んだ時に自分が居合わせた場合の暗澹たる可能性はすぐに想像できる。特に、新聞記者というものが時に信じられないほど冷血になれることも知っていた。
彼らにとって──もちろんそれは新聞記者だけでなく世間も含めてだが──殿上人だと思っていた貴族が失墜することこそ、楽しくて仕方のないものはない。由緒正しいハートフォード公爵家の次男が反政府組織の集会所に居たことほど、美味い肴はないだろう。そして、それはハートフォード公爵家にとっても寝耳に水の出来事なのだ。
(もし、俺がオスニエルに引き留められることもなく──部屋で寝落ちもしてなかったら、俺はこの現場に居合わせたかもしれない)
そう考えると、フェリクスの背筋を冷たいものが走る。
どれだけ反抗してみせても、フェリクスは決して両親や兄弟姉妹が嫌いなわけではない。自分のせいで家族が窮地に陥ったかもしれないと考えると、ぞっとした。
(俺は、エルに救われたのか)
もちろん、エルが全てを見通してフェリクスを引き留めたとは思わない。そんな発想自体が荒唐無稽だ。
理性では分かっていても、不思議なことに、フェリクスはエルに対して不思議な感情を覚えていた。
エルにお礼を言っても、エルはきょとんとするだけだろう。フェリクスが普段、どこに居たのかすら、エルは知らないのだから。もちろん、家族も知らない。
(今度は俺がこいつを)
穏やかな朝食の席で、フェリクスは誰に知られることもなく、心に誓った。
(エルを、守ってやらないと)
それはフェリクスの中に芽生えた、初めての誓いだった。




