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ちっちゃな公子エルくんの大冒険  作者: 由畝 啓


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3. 霧の都とタウンハウス 5


廊下を歩きながら、エルは周囲に興味津々だった。屋敷の中を案内されたわけではないから、どこになにがあるのかさっぱり分からない。それでも、エルの足取りに迷いはない。

エルは、とりあえず、家族と初めて対面した居間に行くつもりだった。

るんるんと鼻歌でも歌い出しそうな様子で、エルは廊下を進む。幸いにも、エルに開けられない扉はなかった。軽い扉が閉まっているか、もしくは開けっ放されているかのどちらかだ。

いくつかの廊下と部屋を抜けて、エルはとうとう居間に辿り着いた。


(──あれ?)


居間の出入り口で、エルは足を止める。扉は半開きで、中からは人の声がした。

その声に、エルは聞き覚えがある。一人は母ソフィアだ。だが、もう一人の声は良く聞こえない。

なんとなく、エルは自分が入ってはいけない気がした。漂って来る気配が、どことなく緊迫している。それでも、どうしてもエルは気になった。

カートン卿のもふもふの頭に口元をうずめて、じりじりと扉ににじり寄る。真剣に耳を澄ませてようやく、エルはソフィアの話し相手が父ヒューバートだと気が付いた。


「フェリクスは、アトキンズ大尉がこちらにいらっしゃると聞いて戻って来たのですって。でも、それまでどこに居たのかは分からないわ。使用人に注意しておくように言いつけても、あの子ったら、目を掻い潜って屋敷を抜け出すんですもの」

「まだ社交界には顔を出せない年齢だからな。紳士倶楽部にも所属できないし、どこで寝泊まりしているのやら」


ヒューバートの口調も少し苦々しい。二人の会話は使っている言葉が難しくて、エルには理解できない個所も多々あった。だが、なんとなく、エルは両親がフェリクスを扱いかねているらしいと察する。


「アトキンズ大尉はなんと仰っていたの、あなた?」


ソフィアは気がかりな様子だ。フェリクスが反発している両親(自分たち)よりも、懐いているアトキンズ大尉の方が、フェリクスの様子について詳しいと一縷の望みをかけているに違いなかった。

だが、ヒューバートの返事は芳しくない。彼は苦々しく答えた。


「若気の至りだろう、と笑っていたよ。確かにそういうのも時代によっては許容されるべきなんだろうな。だが、今のこの時代は駄目だ。フェリクス(あの子)自身の安全のこともあるが、ハートフォード公爵家自体も危険に陥る可能性がある」

「大尉は長らく海外にいらっしゃいましたものね。それに、元々爵位とは無縁の方ですもの。政治的なことはご存じでないのかもしれませんわ」

「ああ、本当に。フェリクスに話すにしても、どこまで打ち明けたものか──困ったものだ」


ヒューバートの言葉と共に、部屋には沈黙が落ちる。

こっそりと扉の影に身を潜めていたエルは、ぱちりと目を瞬かせた。自分の顔をカートン卿の頭にうずめたまま、こっそりと頭の中で囁きかける。


(かーとんきょう、ふぃるにいさまのせいで、おとうさまもおかあさまも、こまってるの?)

『まあ、そうとも言えるし、違うとも言えるが』

(ふぃるにいさまが、おうちにいたら、ふたりとも、こまらなくなるの?)

『──平たく言えば、そうなる、か?』


ヒューバートもソフィアも、フェリクスが留守がちであることそのものに困っているのではない。「政治的に」だとか「今の時代」と言っていたことを踏まえると、フェリクスが家族に反発して放蕩していることで、政敵に付け入る隙を与えることになると憂慮しているのだ。そして、その政治的な状況は一般に知られたものではないのだろう。ハートフォード公爵家という、政治の中枢に近いからこそ感じ取れる、微細な情勢だ。

つまり、フェリクスが心を入れ替えて放蕩を止めれば、政敵に狙われる弱点もなくなる。間接的には、エルの思考回路も誤りではなかった。


そんな微妙なニュアンスの違いは、エルには分からない。

カートン卿の返事を聞いてにっこりと笑うと、エルはこっそりと、後ろ向きに歩き始めた。十分に居間の扉から離れたところで、ようやくエルは前を向く。そして、エルはようやくジェイとの約束を果たせるのだとわくわくして、カートン卿に尋ねた。


(ふぃるにいさま、どこ?)

『エル坊、本気か?』


エルとは対照的に、カートン卿は嫌そうな声だ。だが、エルはどこまでも本気だった。


(うん!)


元気良い返事を聞いて、カートン卿は今度こそ深い溜息を吐く。そして、カートン卿は渋々と口を開いた。その黒いつぶらな瞳が、不可思議な深みを増す。


『タイミングが良いな、エル坊。お前のフィル兄さまは、ちょうど中庭に出たところだ』

(きょう、ぼくがふぃるにいさまと、あったところ?)

『そうだ』


カートン卿の教えを受けて、エルは意気揚々と中庭に向かった。

掃き出し窓の取っ手に手を伸ばす。鍵は掛かっていない。ゆっくりと開けて、転がり落ちないように、しかし昼間よりは慣れた足取りで、エルは中庭に降りた。

きょろりと周囲を見回せば、フェリクスが少し離れたところに見える。フェリクスは、中庭に植えられた生垣を乗り越えて、屋敷の裏手へ回ろうとしているところだった。


「ふぃるにいさまっ!」


自分の足ではフェリクスに追いつけないと察し、咄嗟にエルは叫ぶ。途端に、生垣を乗り越えようとしていたフェリクスは大きくのけぞった。驚いたらしく、そのまま中庭側に倒れて尻もちをつく。そして、フェリクスは勢いよくエルを振り返った。その間にも、エルは一生懸命足を動かして、フェリクスに近付く。

フェリクスはエルを見止めてぎょっとした様子だったが、すぐに気を取り直して立ち上がった。


「お前、こんなところで何してるんだよ? もう寝たんじゃなかったのか?」

「える、おきてたの」


ようやくフェリクスの足元に近付いたエルは、にこにことフェリクスを見上げて答える。フェリクスは心底困ったと言いたげに頭を掻いて、エルの前にしゃがみこむ。エルと同じ視線になると、言い聞かせるように口を開いた。


「寝ないとダメだろ? 明日、起きれなくなるぞ」

「ふぃるにいさまは?」

「俺?」


なぜ自分のことなのかと、フェリクスは目を瞬かせる。首を捻るフェリクスに、エルはカートン卿を抱きしめたまま、無邪気に言った。


「ふぃるにいさまも、いっしょにおねんねするの」

「いや、俺はこれから行くところがあるから──」

「どこにいくの?」


フェリクスは首を振るが、エルは譲らない。反対側にきょとんと首を傾げる。

エルがここまで興味津々になると思っていなかったからか、フェリクスは顔を顰めた。まだ幼いエルに言えば、両親に伝わる恐れがある。両親に反発しているフェリクスにとっては避けたい事態だ。


「それは内緒だ」

「ないしょなの? なんで?」


エルは更に首を傾げる。ここでエルを無視することもできるが、なぜかフェリクスは立ち去り難かった。

セラフィーナと違って、エルはフェリクスを恐れないからかもしれない。それどころか、エルは疑うこともなく、喜び勇んでフェリクスの後を追って来そうだった。

それでも、フェリクスはエルを説得しようとする。


「お前が行ったらいけない場所なんだよ」

「える、いっちゃだめなの? でも、ふぃるにいさまは、いっていいの?」

「そうだ」

「えるもいきたい」


いや、だから──とフェリクスは言いかけて、言葉に詰まった。

普段は聞き分けの良いエルだ。だが、フェリクスを家に留めるという内なる使命がある。エルは必死に考えた結果、フェリクスがどこかへ出かけたのなら、ちゃんとお家に帰って来られるように自分が連れて帰れば良いのだ、という結論に落ち着いていた。

もちろん、フェリクスはそんなことをエルが考えているとは知らない。どうしたらこの幼く無垢な弟が大人しく部屋に帰ってくれるのかと、内心で頭を抱えた。


エルは、フェリクスの返事を待っている。時間が経つにつれて、エルの期待は少しずつ膨らんでいった。

フェリクスはエルの表情の変化を見て、がっくりと膝をつく。

どう話をすればエルが納得してくれるのか、フェリクスの頭では思いつかなかった。元々、勉強をしたり考えたりすることは苦手だ。

エルを納得させられる気もしないし、仮にエルを連れて行ったらさすがの両親も激怒するだろう。今はまだ、フェリクスが大きな問題を起こしていないから、次男で爵位を継がないことも相まって目こぼしされているだけだ。さすがのフェリクスも、それくらいは分かっていた。


「分かった。分かったから、お前は自分の部屋に帰れ」

「ふぃるにいさまも、いっしょ」

「──分かったよ」


フェリクスは両手を上げて降参する。エルを部屋まで届けて寝かしつけた後、改めて屋敷を抜け出せば良いのだと自分に言い聞かせた。立ち上がると、エルは当たり前のように片手を差し出し、フェリクスと手を繋ぐ。ふくふくと温かく柔らかな幼子の手の感触に、知らずフェリクスの頬は緩んでいた。


そしてその後──。

フェリクスは、エルを寝かせた後に屋敷をこっそり抜け出すつもりだった。だが、子供特有の体温に眠気を誘われ、そのまま寝入ることになるとは、この時は全く想像していなかった。



☆☆☆☆☆



都から離れた場所にある、修道院。

そこで、銀髪の修道士ジェイことジョエル・ウィルキンソンは、教会でいつものように祈りを捧げていた。物憂げな表情で、彼は祭壇に置いた聖杯を見上げる。その聖杯は、エルに不思議な光景を見せた()()聖杯だった。


「ああ、神よ──私は再び過ちを犯してしまいました」


まさかあのお方があれほど幼いとは、と嘆く。

ジョエルにとって、オスニエル・ハートフォードは国の破滅を防ぐ救世主だった。否、そう信じていた。

だが、邂逅したエルはあまりにも幼く、ジョエルの話を半分ほども理解していないようだった。

もしかしたら、エルは救世主ではなかったのかもしれない。

エルと出会った日から、ジョエルはずっと悔いていた。もし本当にエルが救世主だったとしても、修道士として神に身を捧げるジョエルが、()()()()()()()()()()()()()()()()


「今生も、あの地獄を再び見ることになろうとは──」


後悔と悲哀を滲ませ、ジョエルは嘆く。

その時、扉を閉じたにも拘わらず、教会の中を一陣の風が舞った。ジョエルの顔を覆い隠すようにしたフードが外れ、綺麗に束ねた銀髪が露わになる。

驚いたジョエルは、視界の端に映った聖杯を見て再度、驚愕に目を瞠った。


「まさか──」


聖杯には、セピア色の景色が映っていた。

幾度となく絶望を見つめて来たジョエルは、もうその光景を覚えていた。だが、今聖杯に映し出された世界は、ジョエルが一度も見たことのないものだった。


場末の酒場で、喧嘩が始まる。最初は他愛のない言い合いから始まった喧嘩だったが、酒に酔った男は手近にあったナイフを掴んだ。そのナイフは喧嘩相手の喉を切り裂き、辺りは血で染まる。止めようとした客も、数人が怪我を負い、一人が死んだ。

本来なら、単なる酔っ払い同士の喧嘩による事件として片づけられる話だ。だが、その酒場には反政府組織(レジスタンス)のメンバーが集っていた。密告があり、警察が目を付けていた。そして、喧嘩をしていた男の一人が反政府組織(レジスタンス)の重鎮であったこともあり、大逆罪として多くの客が逮捕されたのだ。

そこまでは、同じだ。


だが、その先が違った。


その場に居たはずの人物が、()()()


フェリクス・ハートフォード。

ハートフォード公爵家の次男。


ジョエルの知る世界では、フェリクスがその酒場に居合わせた。

そして、武の公爵家として知られた名家ハートフォード公爵家に、没落の気配が歩み寄る。積み重ねた歴史と信頼ですぐに失墜することはなかったが、フェリクスに反政府活動の疑惑が掛かり新聞で取り沙汰されたことが、間違いなく破滅の第一歩だった。

ハートフォード公爵家が権力を失ったことで、スペロ王国の勢力図は激変する。そして、ハートフォード公爵家とウィルキンソン伯爵家は爵位を剥奪され、その領地は反感を持った政敵たちの手によって破壊された。


ジョエルは諦めていた。エルに上手く自分の懸念を伝えられなかったため、もはや歴史は変えられないのだと絶望していた。

それなのに、聖杯が映し出した光景の中に、フェリクスは居ない。見覚えのある反政府組織(レジスタンス)の面子はいるし、喧嘩をして一人が血の海に倒れたことも変わりはない。

だが、フェリクスが居ない。

その場に居合わせていないフェリクスに、反政府活動の疑惑は向けられない。もし向けられたとしても、ハートフォード公爵が徹底的に抗議するに違いない。


「歴史が、変わった──?」


全く予想だにしない事態を前に、ジョエルは呆然と呟いた。



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