おまけ
太陽神ファルカシュは、天を駆ける白馬が引く馬車に乗り、空を渡って地上を見回っていた。
「何度も言っているけどもねイリエス、ここではなく隣にちゃんと座る場所があるのだが」
「それは知っているけど、小さい時からここが私の定位置でしょ、何で今更変えないといけないの?」
イリエスはファルカシュの膝の上で、馬車の手綱を握る彼の腕の中にいた。振り返って触れるほどに近くにある彼の顔を不機嫌に見上げてきた。
「君はもう幼子ではないし、体が大きくなったから膝にいると前が見えにくいし、それにだね……年頃の娘が男の腕の中にいてもいいの?」
「私が年頃の娘に見えるの? わあびっくり」
笑ってイリエスは頭をファルカシュの顎の下にスリスリとさせる。銀の髪のサラサラした感触をもっと味わうように彼は頬を彼女の頭に擦り付けた。
「年頃の娘にはなったが、君が暴れん坊であることは変わらないな」
「暴れん坊って呼ばないで、せめてお転婆とか活発とかにして」
「いいや、君は暴れん坊で、さらに考え無しの向こう見ず。1人で草原をよちよち歩く幼い君を見つけた時の私の気持ちが分かるかい?」
「ふふふ、でもこの天を駆ける馬車にすぐ乗せてくれたでしょう?」
「そうだ、放っておいたら君はどこへ行ってしまうかわからない」
「だからいつも、あなたの膝の上で良い子にしている」
「何だって!? 君が良い子にしていることなんてないだろう? 初めて君がこの天を駆けている馬車から飛び降りた時、どれだけ驚いたか。私の絶叫が世界の隅々まで響き渡ってしまったんだぞ。あの瞬間に生まれた子が雷の神になってしまった。あいつが生まれたお陰で、時々空は光るし鳴るし轟くし、天が騒々しくなった」
「ハオーとは仲良しよ、時々海で遊ぶの」
ファルカシュは片腕でイリエスを胸に引き寄せた。
「あの雷の少年もずいぶん大きくなっただろう? まさか君の地上の家に呼んだりしていないだろうな、君は1人暮らしなんだから、男は絶対に入れてはいけない」
イリエスは顔を真上にあげて、子供っぽい顔で答えた。
「父様が寄越したケルがいるから、私の家には誰も入れない。それに昼はあなたが天上から見ているし、夜は父様の所へ行くし、自分の家で寝る時はケルが一緒だし、誰も私に近づけない。ちょっと不満だわ」
「ケル……ああ、あの頭が3つある凶暴な犬のことか。あれは良い番犬だ。それにしても聞き捨てならないことを言ったね、何が不満なのイリエス?」
「私は年頃の娘だとあなたが言ったのよファルカシュ。私は娘らしくしてみたいことが色々あるの」
ファルカシュは真面目な顔になると天上で馬車を止め、イリエスを横抱きにして顔を向き合わせた。
「何をしたいのかな? 言ってごらん」
イリエスは返事をする替わりに、小さな可愛らしい唇を、彼の唇にチョンっと当てた。
「キスとか」
ファルカシュは触れるだけの小さなキスをイリエスにそっと返した。
「幼子の時から毎日のように君は私にしていると思うけれど」
「こういう父様にもするようなキスじゃなくて」
一気にファルカシュの顔色が変わって、不機嫌をあらわにした。
「ああ気分が悪いな。君はあいつにもキスしているのか?」
「するよ、ほっぺたにチュッてしてあげる」
ファルカシュは嫌そうな顔のまま「唇には?」と聞き、彼女が「しないよ」と答えると、少しだけ気分を直した。
「それで、どんなキスをしてみたいの? してごらん」
蜂蜜色の長い睫毛を下ろして、ファルカシュは瞼をとじると、顔を彼女に寄せた。
唇に柔らかな感触が押し付けれらる。彼女は口をとがらせて、小鳥がついばむようにチュッと可愛く触れるキスをくり返す。そのうち、小さな口がたどたどしくも一生懸命動いて、彼の唇を食んでは中に入ろうと健気にがんばる。ファルカシュは意地悪くそれを中に入れてやらずに口を結んでいたが、耐えきれずに笑いだした。
目をあけると真っ赤になって怒った顔の彼女がいた。
「大嫌い、ファルカシュともうキスしない!」
大嫌いともう一度言おうと彼女が口を開けた時、彼は己の唇でそれを塞いだ。すぐに舌を絡ませて好きなだけ味わう。彼女が逃げようとしても、髪に手を深く差し込んで頭を抱え、何もかも逃がしはしなかった。
ぼんやりとしたまま胸にしがみつく彼女を片腕で胸に抱いたまま。馬車をまた動かして地上の見回りを再開した。
幼子のように長い事体にくっついて離れないイリエスがようやく口をきいた。
「こんなキスを母様にもしたの?」
落胆のため息をついた。
「あのねイリエス。君の望み通りに初めてのキスをしたというのに……こんなに素敵な心地でいる時にどうしてそんな嫌な気持ちにさせるのかな?」
「したの、しないの?」
「そりゃしたさ、ネリは私の許嫁で、妻にもなった……」
「それで初夜をするまえに、父様に母様を盗まれた」
顎で彼女のつむじをグリグリと押すと「痛いよう」と悲鳴をあげた。
「気分が悪いな。世界中に知られたことをわざわざ言うな」
「どうして大事な花嫁を盗られたりするの? ものすごい馬鹿者だよね」
「しょうがないだろ、君の父親はこの世の中で1番強い戦士なんだ。本気で来られたら誰も勝てない。でも……奴は私がいない隙をみて忍び込んだからな。私がその場にいればけして盗られたりしなかった」
「父様は最低な男であなたは馬鹿者で……母様はどちらを選んでも残念ね」
「ああどんどん気分が悪くなる。でもさ、考えてごらん。その最低男がネリを盗まなければ、君は存在しなかったんだよ」
「それなら今は父様に感謝してるの?」
ファルカシュは「するわけないだろ!」と大きな声を出した。
「私は愛する妻を奪われたんだぞ。体だけではなく心までも……永遠に許す訳がないだろう」
「ファルカシュは母様のことが今でも好きなの?」
「ああ好きだ」
しばしの間を空けて「私は?」と母親と同じオレンジ色の瞳を丸くして聞いてきた。
「大好きだ」
即答すると小さなピンクの唇がキスしてくる。抱きしめながらその口を割り思う存分貪った。
馬車をまた止めて、銀の髪を指に絡ませながら額に、頬にとキスを落す。それなのに、彼女はまた嫌なことを聞いた。
「私が母様と似ているから好きなの?」
「君がネリに似ているなんて1度も思ったことは無い。彼女は慎ましやかで私の膝にのったことは無いし、知的で冷静で……睡蓮の花のように気高い人だ」
「それなら私は何の花?」
「君は花じゃなくて、暴れん坊」
いやだいやだと彼女は膝の上でじたばたと暴れた。
「娘になったと言ったのは撤回だ、まだまだじゃじゃ馬の暴れん坊のお子様だった」
「ちがうもん!」
「いいや違わない。海の水をひっぱり上げて持ち上げて遊ぶなんて、いったいどうやってやっているんだ。君が海を持ち上げるから、海は満ち潮ができて波を立てるようになった。そればかりか海流が生まれてぐるぐる回り出したぞ。そのせいで海がかき混ぜられて、新しい生物が引っ切り無しに生まれてくるようになった。おかげで海にも陸にも新しい生命が溢れかえって、地上の秩序を保つ私の仕事が増えただろう」
彼女がふふんと得意気に笑った。
「それは私のせいだけではないでしょう? ファルカシュが母様を恋しがって時々落ち込んで、太陽の光を弱めて鬱々としたり、そのあと後悔していきなり張り切ってガンガン陽を照らしたり、情緒不安定になるからいけないの! そのせいで春夏秋冬ができてしまったでしょう? 四季の神も生まれたから、彼らの営みで新しい動物が次々に誕生しているの! 自分の責任なの、私のせいにしないでね」
「そうか……それなら君と私のせいで、海と陸に新しい生物が生まれているのか。困ったね、地上が騒がしくなって私はどんどん忙しくなるよ」
「ファルカシュは大人だからしょうがないでしょ、お仕事がんばって。それじゃあ私はまだ子供みたいだから遊びに行く」
膝の上でイリエスが立ち上がってこちらに顔を向けると、べっと舌をだした。
天を駆ける馬車でそんなことをするなんて、本当に幼子みたいなじゃじゃ馬だ。腰まである長い銀の髪が風に舞い、怖れを知らぬオレンジの瞳は太陽の光でキラキラ煌く。蕾がほころび始め、まさに花を開かせる刹那の美しい曲線。もう大人の体になっていることに気付いていない初心な少女が腕の中にいる。
この暴れん坊は、私の膝を蹴って飛び上がり、この馬車から降りるつもりだ。
安々と彼女の腕を捕まえて、向かい合わせに膝に座らせ強く抱きしめた。「離して」と彼女はしばらく身をよじったが、すぐに観念して静かになると「この格好は恥ずかしいの……」とささやいた。
「特別なキスがしたいとねだったのは君だよ、恋人になってしまったのだから私はもう逃がさないよ。今夜は君の家に泊まる。一晩中一緒にいて絶対に君をこの腕から出さない」
彼女の頭が勢いよく動いて、まじまじと瞳を覗き込んでくる。オレンジの瞳が燃えるように興奮して瞳孔が大きくなり、魅惑的な神気を無自覚に振りまいてくる。甘さに頭がくらくらした。
「私達は恋人になったの? それなら結婚するのかな」
「結婚はしない、恋人のままでいる」
「どうして?」
「だって結婚することになれば、君の父親に気付かれるだろう? また奪われて隠されるのは御免だ。あいつに許しなどもらわずに、私は好きな時に、好きなだけイリエスに会う。誰にも邪魔させない」
「母様のことから学んで、こんどは結婚する前に初夜をする軽薄男になることにしたんだ」
「軽薄男じゃない、一途に君だけを愛する恋人になるんだ」
「でも母様が好きなのでしょう?」
「好きだ」
「私は?」
「大好きだ……ああもう、どうして君は私の気分を悪くさせることばかり言うんだ。この口がいけない」
彼女がしばらく口がきけなくなる程に、長くて深いキスを繰り返した。
太陽が沈んでいき、今日の仕事の終わりを告げた。彼女の地上の家に向かいながら、溶けた顔でこのうなく可愛い顔をした恋人に、ロマンティックな空を演出した。
「見てごらん、空を全て夕焼け色に染めた、君への贈り物だよ」
うっとりとした顔で、桃色に染まった美しい空を見上げながらイリエスは幸せそうに微笑んだ。
「こんなすごいことをしたら、今日は特別なことがあると父様と母様にばれてしまうわ。やっぱりあなたは馬鹿者なのね……」
「そうかもしれない、こんな夕焼け空は初めて作った。あいつに勘付かれる」
ファルカシュは彼女の言葉にびっくりして、慌てて天上を空色に戻した。夜のとばりが、いつもより早く広がって、すぐに空は濃い青色になりそして暗くなっていった。
「今夜は満月だから、父様は来ない」
不安を隠せずにいるとイリエスが頭を撫でてくれた、微笑んで「大丈夫よ」と言う。
「どうして満月だと来ないんだ」
「だって満月の夜は、父様と母様は一晩中忙しいの」
「あー気分が悪い。どうして君はそういうことをあけすけに言うのかな。私の傷ついた心を全然おもんばかってくれない」
「ふふふ、あなたはなんだか子供みたい」
「私は君より何百年も年上だ、子供なのは君の方。でも……イリエス……」
耳元に口を寄せて低くささやいた。
「今夜私が君を大人にする」
一瞬でイリエスの顔が真っ赤になり、両手で頬を覆うとフルフルと震えた。もじもじと恥ずかしがる可愛い初心な様子を見てとても満足した。
陽の最後の光も消え、暮れた薄暗い青い空気の中、天上には星が瞬き始めた。彼女の地上の家の空に到着し、馬車を地面に降ろそうとすると彼女が止めた。
「ケルがいるからファルカシュは中に入れないよ」
「あの番犬は面倒だな。殺すなら1秒で出来るが……殺したら駄目だよな」
「ダメダメ絶対に殺さないで、私の大切な兄弟なの」
「それだと、あの犬を無傷で大人しくさせるとなると時間がかかるな……ああ嫌だな、君を腕から出したくない。そんなことをしたらあの時の二の舞になりそうだ。シルベリオスが来て君を連れ去ったら、今度こそ私は立ち直れない……そうだ!」
「どうしたのファルカシュ、そんなに強く抱きしめたら苦しいよ」
「決めた。ここで抱く」
「ええ! この天上の馬車の中でするの?」
「そうだ、私は嫌と言うほど学んだからな。抱くと決めた瞬間から絶対に好きな女を腕から離さない。しかし、もう一つ大切なことも学んだ。相手の意思を尊重すること。イリエスはどうしたい? 君の望みの通りにするよ」
可愛い幼さを残した恋人は、長い時間をかけて考えた。そして大人の顔をしてはっきりと気持ちを伝えてくれた。
「ここでするのは嫌。でも家で一晩中あなたの腕の中にいて大人の恋人になるのはいいの。そちらの方が素敵だから。それからね、もう一つ大切なことを伝えるわ。父様も学んだの……だからけして私の意思を無視して閉じ込めることはしないのよ、心配しなくて大丈夫」
「そうか……それならケルの頭を撫でるところから始めなければならないな。夜のうちにできるといいのだが……やってみよう」
ファルカシュはイリエスを抱きしめると額にキスをして幸せそうに微笑んだ。
こちらは本編のおまけです。
自分で書いたお話なのに、寝取られファルカシュがあまりに可哀想で、つい勢いで書いてしまいました。
シリーズものにして、ファルカシュの話を続きを書いています。
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タイトルは~太陽神は夜の神に2度恋人を奪われる~
ファルカシュとシルベリオスが今度は娘をめぐってこじれてますので、よかったらのぞいてみてください。