混迷はっ!
「なに……これ……」
茫然と、私はそれを見上げた。
エレナ姉さんや、茉莉……それどころか、理性など失っているアイリス姉さんまでもが茫然としていた。
いいや、愕然、と言うべきだろう。
舞い降りたのは、紅蓮。
六枚の、紅蓮の巨大な翼だ。
それを羽ばたかせる彼女は、紅蓮の衣に身を包んでいた。
そう、彼女の名前のように。
――緋色。
六枚の翼を生やした緋色が、いた。
愕然としたのは、その身から放たれる気配。
神聖――あるいは、邪悪。
混沌だった。
絶対的ともいえる混沌の気配が、緋色から放たれている。
それは空間を血の色に染め上げていくようだった。
「緋色……?」
ようやく、名前を呼べた。
緋色の顔がこちらを向く。
無表情な緋色が、微かに笑んだ。
と思った次の瞬間、私の身体は半分吹き飛んでいた。
「え……?」
地面に墜落する。
なにが起きたのか、まるで分からなかった。
恐怖や、動揺もない。
それすら感じないのだ。
欠けた身体は、ひどくゆっくりと再生していく。
一つだけ、分かることがあった。
私は攻撃されたわけじゃない。
ただ、緋色という存在を前に、威圧されただけ。
その威圧が驚異的な威力を孕んでいたのだ。私の《顕現》を消し飛ばすくらいに。
もし攻撃という枠にある行動で害されていれば、私は今頃どこにも存在していないだろう。
「どう、して……緋色……」
傷つけられたことよりも、純粋に疑問を覚える。
緋色に、なにがあったの?
「緋色!」
視線の先でエレナ姉さんが緋色に弓を向ける。
「止まりなさい!」
「……」
緋色の翼が、ゆらりと揺れた。
それだけ。その、とるにたらない挙動の余波だけで、エレナ姉さんは地面に叩きつけらえた。
エレナ姉さんの《顕現》が解除される。
慌ててエレナ姉さんの気配を探った。
……死んでは、いないみたいね。
そのことに安堵する。
かと思ったら、そこに新たに茉莉が墜落してきた。
なにをされたのかももう分からない。
ただ茉莉がやられた。その事実だけが残る。
空を見上げると、緋色は悠然と黒い獣に変じたアイリス姉さんを見下ろしていた。
アイリス姉さんが雄叫びを上げる。
「駄目、姉さん……っ!」
私の制止の言葉は、アイリス姉さんには届かない。
漆黒の爪が緋色に振るわれる。
だが――。
自壊した。
アイリス姉さんは緋色に近付いた段階で、緋色の存在に押され、全身を砕かれたのだ。
砕けた黒い獣の中からアイリス姉さんの姿が現れる。
気絶しているようだった。
アイリス姉さんは、そのまま地面に落ちた。
「……なにが、起きてるの?」
私はただ、そんなことしか呟けなかった。
「意味が、分からないね」
いつの間にか、横にナユタが立っていた。
「緋色のあれって……」
「ナユタ……どう、すれば……」
「さあ。正直、分かんない」
ナユタが肩を竦める。
「ていうかあんなの、私達にどうこう出来るものじゃないと思うんだけど」
ナユタの頬に冷や汗が伝った。
「ソウ、よろしく」
「はい」
私の身体を、こちらもいつの間にか現れたソウが抱える。
見れば、緋色にやられた他の皆の姿もなくなっている。
どうやらナユタがソウに避難させたらしい。
「ちょっと、待って。ナユタはどうするの?」
「どうしよ」
ナユタが苦笑する。
「私はちょっと動けないかなあ。だって、ほら」
ナユタが視線をあげる。
その先にいる緋色は……ナユタを見て、笑っていた。
凄絶な笑みだ。
「どうやら緋色の目的、私らしいし」
「……ご無事で」
ソウが告げた直後、私はその場からいなくなっていた。
†
ソウとスイの姿が消える。
これでここに残っているのは、私と緋色だけになる。
「さて、緋色。聞かせてもらいたいな」
「……」
緋色の翼が大きく広げられる。
それだけで、信じられない圧力に襲われた。
「どうなってるのかな、今」
「……う」
「え?」
緋色の瞳が、赤く輝く。
「奪う……まも……な……ぁ、_-‐′‐,‐_’‐-/‐‐⁻――!」
言葉にはならない。
ただ、それは感情の波になって襲いかかってきた。
これは……憎悪?
それに、慈愛?
なに、これ。
意味が分からない。
「あなたは、どうしたいの? 私を傷つけたいの? それとも――」
「もちろん、傷つけたいに決まっている」
「――っ!」
新たな声。
でも、それはよく聞き覚えのある声だった。
当然だ。
それは――。
――私の声、だった。
視線をあげれば、空間を引きちぎるように人影が現れた。
よく見知った姿。
髪の色は、くすんだ銀色。
そうだ。
私は毎日、その姿を見ている。
いつだって……それは例えば、朝、起きて洗面所の鏡の前で。
その姿は私だった。
私と瓜二つの人物が、空に浮かんでいた。
「な……に?」
「はじめまして、姉さん、とでも言うべきかしら?」
私が微笑む。
なぜだか、ひどく気分が悪くなる。
なんで、こんな気分になるのだろう。
「私は、アイン。貴方の為に捨てられた存在よ」
私が――アインと名乗った存在が、微笑する。
ようやく、私は感じる気分の悪さに答えを得た。
アインの胸には、ぽっかりと握りこぶし大の穴が開いていた。
その欠落が、ひどく不気味で、そんなものが私と同じ姿をしているというのが、不愉快なのだ。
「なんなの、あなた……」
「だから、姉さんの為に捨てられたもの。ほら、この欠落こそがその証明」
アインが穴の空いた自分の胸にそっと触れる。
「ああ、ずっと会ってみたかったわ、姉さん……とはいえ、今はそっちね」
アインの目が私から緋色に移る。
「興味深い。女神が目移りするのも分からなくはないわ。ええ、これはなんて奇異なのかしら。私達にまで干渉し、取り込もうとしてくるなんて……姉さんから影響が伝わってきたのかしら? それにしても、出鱈目ね。ここまで節操のない《真想》なんてあり得るのかしら」
「《真想》……!」
やっぱり、そうなんだ。
緋色のあれは《顕現》じゃない。
《顕現》の次の段階……人と人の想いを繋ぎ、それを力に変える《真想》。
「受け入れる幅が大きすぎるから、それは当然こんな風におかしくもなるわよね。憎悪と慈愛、善と悪……ここまで究極の混沌を受け入れられるわけがないでしょう」
アインが緋色に手をかざす。
すると、両者の間でなにかが起きた。
なにか、としか形容出来ない。
既にそれは私の認識を超越している。
ただ、破壊が起きたことだけは分かる。
破壊されたのは、空間か、時間か、概念か、あるいはもっと別のなにかなのか。
「……これはなかなか」
アインが苦笑する。
「ツヴァイ……ドライ」
アインの声に応じるように、空間から新たな人影が二つ現れる。
それもやはり、私だった。
片方は、くすんだ栗色の髪を。
もう片方は、くすんだ金色の髪をなびかせていた。
そして栗色の方は右腕が、金色のほうは左腕が、欠けている。
「どうしたんですか、アイン?」
「あなたがいきなり抜けたせいで、女神が好き放題やってるんだけど」
「ごめんなさい。少し、興味が出てしまったから」
ツヴァイ、ドライというのはあの二人の名前だろう。
二人の言葉にアインは微笑し、緋色を見やった。
つられてツヴァイとドライも緋色に向く。
「なるほど……これは」
「……違和感を感じると思ったら、これか」
「そういうこと。ちょっと目ざわりだし……興味はあるけれど、とりあえず消しましょう」
「そうですね」
「ええ」
三人が緋色に手をかざす。
すると、緋色の翼が二枚、千切れ跳んだ。
「――――――――!」
緋色の口から人のものではない悲鳴があがる。
「っ、なにを!」
「姉さんは黙って見ていなさい」
「……!」
地面に膝がつく。
それ以上はもうなにも出来なかった。
指一本動かせない。
「いい機会だし、これの後は、姉さんを奪わせてもらうわ」
緋色の翼がさらにちぎられ、四肢にも傷が入る。
「いえ。アイン。そうそう上手くいかないみたいですよ?」
ツヴァイが肩をすくめ、笑う。
「……まったく。残念ね」
アインが虚空に視線をやる。
直後、その虚空が砕けた。
砕けた空間の向こうから現れたのは、白い翼に、黒いドレスの女性。
銀色の髪が躍る。
「え……?」
「_-‐′‐′‐,- ⁻`_‐_‐’-_‐‐_’‐-/‐‐_‐’-_‐‐_/‐‐-′‐,-〟‐_‐_’‐-/‐‐⁻_/⁻`_‐_‐’-_‐‐_‐‐-_‐‐_/‐‐-‐_-‐/⁻`_‐‐〟_/′‐,-――!」
白銀の女神の口から出たそれもまた、認識できる声ではなかった。
白銀の女神が、六枚の白い翼を広げた。
それだけで、なにもかもが崩れ出す。
言葉になど出来ない。
それは例えば存在そのものであるし、命と呼べるものでもあるし、記憶なんて不確かなものも、世界や次元なんてものまでもが崩壊を始める。
破壊をばら撒いていた。
悉く、在ってはならないと。
まるでそう告げているのかようだった。
白銀の女神を中心に、崩壊の波が広がる。
ふと、目の前に紅蓮が――緋色が立った。
「_-‐′‐’-_‐‐_〟‐_’‐-/‐‐⁻〟-‐_-‐⁻_/⁻`_‐〟_‐’-_‐‐_/‐‐-′‐,-〟‐_-_-‐′‐,-〟‐_’‐-/‐‐〟_‐‐_-‐_-‐⁻/‐‐-‐_-‐⁻〟_/⁻`_‐‐〟_/⁻`_′‐,-――!」
「-‐__〟‐_’‐-/‐_‐〟_‐’-_‐‐_//‐‐〟_‐‐_-‐_‐-′‐,-〟‐_-_-‐′‐,-〟‐_’‐-/‐‐-‐⁻‐’-_‐‐〟_‐‐⁻〟-‐_-‐⁻_/⁻`‐_-‐_-_-‐′‐_-‐⁻/‐‐-‐_――!」
白銀の崩壊と、紅蓮の破壊が衝突する。
「なに、これ……」
状況が理解できない。
白銀と紅蓮の余波がアイン達にも襲いかかる。
「まったく、出鱈目と出鱈目の衝突だなんて、やってられないわね……戻るわよ」
「いいんですか?」
「どうせ遠くないうち、また来るもの。それにそろそろ戻らないと、他の子達が怖いわ」
「それはあるわね」
頷き合い、ツヴァイとドライが身を翻る。
と、二人の姿が消えた。
ぴくりと白銀の女神が反応し、崩壊の波が止まる。
「それじゃ、戻るわよ、女神さま?」
くすり、とアインが笑う。
「じゃあ姉さん、またね。そのうち、きちんと奪いに来るから……その子、元通りになってよかったじゃない」
「え?」
見れば、目の前で《真想》状態ではなくなった緋色が横たわっていた。
「緋色っ!」
「その子にもちょっと興味、あるわ。大切にしてあげてね。それじゃ」
アインの姿が消える。
すると、白銀の女神もまた、どこかへと消えた。
「……緋色」
茫然としながらも、緋色の身体を抱き上げる。
「緋色……緋色?」
「う……」
「緋色っ!」
「う……おっぱいは、小さくても、大きくても、いいもん、です」
「…………」