振り絞った力はっ!
――虫が、這う。
ぞわり、と。
全身の肌が粟立つ。
それは恐怖からか、嫌悪からか……あるいは、そのどちらもか。
地平線までを埋め尽くす、黒い虫。
気持ち悪いとか、もうそういうのではない。
なんて言うか……なにもかもが、汚されていくような、そんな気持ち。
「他所見しすぎ」
そんな声が聞こえた。
どん、と。
胸から腕が生えている。
振り向けば、その顔があった。
……前の夢と同じ。
どうして、あなたが……?
「そんな甘く見られては、興ざめ。あなたは最大の壁。私が私を得る為の、最大の障害。そんなあなたは、こっちだけ見ていればいいの」
言いながら、彼女は私の胴を引き千切る。
「それが出来ないと言うなら、ねえ……こっちも、少し他所見してしまうわよ?」
虫が蠢いた。
波打ち、それは巨大な塔のように盛り上がる。
†
「……またそんな感じの夢ですか」
目が覚めて、とりあえず乾いた笑いが出た。
「あー……なんなんだろ、これ」
こんな夢を見る理由に、私は心当たりがない。
敷いてあげるなら、やっぱり……あの人、かな。
「……」
ふと、枕元に置いてある目覚まし時計に目をやる。
「……は?」
えっと……あれ?
んー?
目覚ましをガン見する。
「……」
ふむ。
なるほど。
これは、あれですね?
あれですよね。
「――もう試合始まっとるやんけ!」
遅刻だぁああああああああああ!?
†
「おはよ、緋色」
全速力で私はナユタ達がいる観客席に到着した。
起きてから大体四十秒でである。
頑張った。
私超頑張った。
朝風呂含めて四十秒だもんね!
ふはは!
能力の無駄遣い?
能力なんて使わなくちゃ意味ないんですよっ!
「寝坊ですか?」
「なんのことかしら?」
ソウの言葉にとぼけつつ、席に座る。
観客席には、スイ以外の姿がある。
つまり今日はスイの試合ってことですか。
「で、今はどんな状況かな――」
舞台に目を向ける。
そこで、思わず目を丸めた。
「……おろ?」
なんていうの?
えっと……。
スイの試合相手……お坊さん、だった。
「シドウ=カンザキだとか言ったか……なかなかだぞ」
「しかし……これは、どうなるのでしょうね」
アイリスとエレナが、そう言った。
†
「はぁああああああああああああああああああああ!」
スイが叫びながら、常闇で出来た爪を振り下ろす。
しかし爪は、相手――シドウ君、もといシドウさんには通用しなかった。
――なんか坊さんを君付けは気が引ける。
「喝っ!」
そんな声とともに、常闇の爪がシドウさんに届く前に消し飛ぶ。
「ちっ」
舌打ちをして、スイは空中にいくつもの水の球を生成すると、それらを一斉に射出した。
一つ一つが人間なんて簡単に消し飛ばせるような威力を秘めたものだ。
だが――。
「ふん!」
シドウさんが数珠を持った手を振ると、それだけで水は蒸発する。
「これも駄目……」
どうやらスイの態度からして、これまでも何度も攻撃は無力化されているっぽい。
……ただ、一つ疑問がある。
どうしてシドウさんは攻撃しないのだろう?
「……お主、そろそろ棄権してはくれぬか」
シドウさんの声、めっちゃ渋いやん。
さすがお坊さん。
いやお坊さんだから渋い声だとは限らないけれどさ。
「拙僧はローゼンベルク殿の気概に応じ、この場に参上した。が、女人を傷つけることなど到底出来ることではない。故に、お主が棄権してくれれば、全て丸く収まるのだが」
「馬鹿、言ってるんじゃないわよ!」
スイがさらに攻撃を加える。
っていうか、なんでだろう。
あのお坊さんそこはかとなくカッコよく見えるんだけど。
女の子を傷つけないとか、紳士じゃん。
「……」
シドウさんが溜息を吐く。
「お主の攻撃は拙僧には効かぬ。諦めてはくれぬのか?」
「聞けない話ね!」
諦めず、スイは攻撃を加え続ける。
「……であれば、仕方あるまい。拙僧、ローゼンベルク殿の信念を裏切ることは出来ぬゆえ……今一時、鬼に変じよう」
言って、シドウさんが手を合わせる。
と、シドウさんの身体が赤く輝いた。
おおっ?
光は奔流となり、シドウさんの姿を隠す。
スイがシドウさんから距離をとった。
……ここでその行動をとるということは、やはりスイはまだ、使えるようにはなっていないのだろう。
光がおさまってゆき、ゆっくりと輪郭が浮かび上がる。
……ぇ。
それは、なんと言うか……うん。
鬼、だった。
比喩表現でもなんでもなく、鬼だった。
全長三メートルはある、むきむきボディ。
肌は真っ赤で、頭からは二本の角が生えている。
腰には獣の毛皮のようなものを巻いていた。
手には、巨大な刀が一本。
……マジっすか。
「今からでも、遅くはない。棄権せぬか」
低く響く声が、鬼の口から出る。
「……断るわ」
言いながら、スイが常闇の翼を背中に広げる。
「――!」
スイが飛び出す。
「《顕現》には、《顕現》でしか抗えぬ。これは絶対だ」
「そんな絶対、覆してやるわよ!」
鬼を、常闇が包み込む。
「ふん!」
けれど……その闇を、鬼の刀が薙ぎ払った。
「はぁあああああああああああああああああああ!」
鬼の号砲が空を揺さぶった。
シドウさんは刀を高く掲げる。
すると、空が急に曇り始め……曇天から、雷が降り注いだ。
雷は、スイへと襲いかかる。
「っ……!」
かろうじて避けるスイだが、雷は止まず、次々に降り注ぐ。
「こ、の……!」
スイの手から、水の槍が空に向かって放たれる。
曇天に巨大な穴が穿たれた。
しかし、すぐに穴は埋まってしまう。
ついに降り注いだ雷の一つが、スイの身体を打つ。
「っ……!」
スイの身体が大きくよろめく。
けれど、倒れなかった。
スイは未だ、立ったいる。
「加減したとはいえ、よく立っていられるものだ」
感心したようにシドウさんが言う。
「こっちは、連日エレナにしごかれてるのよ……この程度、どうってことないわ!」
スイがシドウさんに襲いかかる。
……どうして、そこまで真っ直ぐに立ち向かえるのだろう。
勝てないと、スイ自身分かっているだろうに。
それなのに、どうして?
決まっていた。
それがスイだからだ。
……すごい。
感動、と言えばいいのだろうか。この気持ちを。
「はぁあああああああああああああああああ!」
スイが、すごく大きな存在に見えた。
もしかしたら、シドウさんを破ることも不可能ではないのでは、なんてふうにも思えてくる。
でも、現実は残酷だった。
スイが全力を込めて振るった常闇の爪は……鬼の肌に傷一つつけられない。
「……よくやった、と称賛しよう。他の何者がお主をけなそうとも、己がお主の武勇を知っている」
鬼の腕が、スイの身体を鷲掴みにする。
「ぐっ……!」
「終いだ」
徐々に鬼の手に力がこもる。
「っ、勝手に、決めるんじゃないわよ!」
その時、スイの身体が淡く輝いた。
「ぬ――っ!」
「死ぬほどしごかれて、成長一つないわけ、ないでしょうがっ!」
一滴の水滴が弾丸となって、シドウさんに放たれる。
これまでの攻撃と比べれば、なんてことはない。
けれど、シドウさんはスイを手放し、全身に力を滾らせた。
何故ならそれは……不完全ながらも《顕現》の性質をもった攻撃なのだから。
私の大鎌と同じだ。
スイはただあの一滴を、《顕現》させることに成功したのだ。
貫く、と。
敵を倒す、と。
そう信じ放たれた水滴を、シドウさんは真正面から両手で受けとめた。
――刹那。
世界が揺れた。
そう錯覚するほどの衝撃が起こる。
「ぬぅううううううううううううううううううううううん!」
シドウさんの唸り声。
直後。
シドウさんの両腕が、消し飛んだ。
だが、それは水滴も同じこと。
「くっ……」
スイが悔しそうに表情を歪める。
「……驚いたぞ」
シドウさんが両腕を再生させながら、ゆっくりと姿勢を正す。
「今の想い……なんと重きことか。それでもまだ不完全とは……恐ろしいものだ」
鬼の口元には、笑みが浮かんでいる。
「まこと、素晴らしき想いであった」
「それは、光栄ね」
「返礼に、己もまた、同等以上の想いで答えねばならぬな」
「……」
シドウさんがゆっくりと刀を振り上げる。
「ゆくぞ……」
「……ええ、来なさい」
スイは最後まであきらめなかった。
全力を発揮せんとするシドウさんに、真正面から立ち向かう。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
シドウさんの雄叫びがあがり……刀が、振り下ろされる。
ただそれだけ。
けれどその刀の動きは、とても洗練され……美しかった。
対し、スイは水の盾を作り出すが、盾は一瞬で消滅する。
――振り下ろされた刀から放たれた力の塊が、スイを飲みこんだ。