柴田海音 記憶
「海は、海から流れる音は、いろんな人を、感情を包みこんでくれる。お母さんは、海音にそんな人になってほしいんだ。」
夢を見た。もう十年以上も前になる母との少ない記憶の一部。
僕と母と祖母。生まれた時から父がいない僕の世界はこれだけだった。母は病気がちで僕が生まれてからはずっと入院生活を送っていた。その間の世話をしてくれていた祖母は親子の時間は大切に、と毎日病院に連れて行ってくれた。歌うことが好きだった僕は保育所やテレビで覚えた歌を披露し、たまには踊りもつけてみせた。僕が元気な姿を見せることで母も元気になっていくと信じて疑わなかった。
「海音はたくさんお歌を知ってるね。どれも上手でお母さん大好きだな。元気が出るよ。」
「僕、大人になったらもっといっぱい人を元気にするんだ!でもまずはお母さんを元気にするんだよ!」
「そっかそっか。じゃあ、お母さん頑張らないとね。」
母はそう言って微笑んでくれた。病室からは海が見えていた。僕がいないときでもそばに感じられる気がするからと母が希望した部屋だった。大好きだった。母と過ごすこの病室が、ここから見える景色が。
小学校に上がり友達も増えてくると遊びに忙しくなり母の見舞いに行く頻度も毎日から週5、4と少しづつ減っていった。それでも変わらず、覚えた歌を披露しに行き、友達との思い出もあれやこれやと元気にやっていることも報告した。微笑んでいる母の体はどんどん痩せ細っていっていたが、僕が来るときだけ厚着をして誤魔化していたことを後になって祖母から知らされた。
「音楽の授業で褒められたんだ。僕が一番元気に歌うんだって!お母さんのおかげだよ。いつも聞いてくれてありがとう!」
「私こそ海音にいつも元気貰ってるんだよ。ありがとうね。」
母は力なく微笑んだ。
小学二年生。母の見舞いに友達との遊びにと夏休みを満喫していた僕は溜め込んだ宿題を片付けるために一週間家に閉じこもった。毎日の天気と日記をまとめて書き、祖母に隠れて答えを見ながらワークを解いた。とんでもない正解率を叩き出す僕のワークを祖母はなんとも言えない顔で丸をつけていた。
「宿題も終わったんだし、お母さんに日記、見せに行こうか。」
祖母の提案で僕は一週間ぶりに病院へと向かった。
どことなくいつもより慌ただしさを感じる院内。
「あ、、、柴田さん、その、今丁度お電話しようと思っていて、その、、、」
顔見知りの看護師さんが慌てた様子で僕達に声を掛けてきた。
「海音くんは少しここで待っててもらえるかな。」
なにが起こっているのか全く理解できていなかった僕とは違って祖母の顔色は変わり、看護師さんと共にそそくさと別室へ移動する。何分くらい経っただろうか。待合室で待っていたが、母に早く日記を披露したくて僕は看護師さんの言いつけを破り母の病室へ向かった。騒がしい。いろんな声が聞こえてくる。
「ここにも、、、えぇ、じゃあやっぱり、、、」
「でも、そんな状態じゃ、、、」
「あ、海音くん、待って!」
看護師さんの制止も虚しく僕は扉を開けた。しかし、母の姿はどこにもなかった。諸々の私物はそのままに、母が病室を出る時に履いていたお気に入りの靴だけが消えていた。
「海音くん、その、お母さんが、、、」
「ちょっと!それは、、、」
「靴がないよ。あ、お買い物かな?僕、迎えに行かない__」
「海音!」
祖母の怒鳴り声が病室に響いた。
「あっちにいなさいって言ったじゃない。どうして大人しくしていなかったの。」
初めて見た祖母の怒った顔に圧倒され僕は泣いてしまった。
「だって、だって、日記を見せたかったんだ。きっと喜んでくれるよ?お母さんを元気に、、、でも、でも、今お買い物に行ってるみたいだよ。ねえ、迎えに、、、行かなきゃ」
「海音、お母さんはそこにはいないみたい、、、お部屋で少しおばあちゃんと待ってよう?ね?」
このときにはもう、なんとなく気付いていた。ただ事ではないこともこれまでの生活が終わり何かが壊れることも。子供ながらに子供であることに言い訳をして気付いていないふりをしていた。
病室から母が消えた。どこにもいない。院内のどこにも。
あれから何時間経っただろうか。近隣住民からの目撃情報による捜索で母のお気に入りの靴とよく着ていたカーディガンが見つかった。海に打ち上げられていたらしい。しかし、肝心な母の姿は見つからなかった。
母は海に沈んでいった。皮肉なことに靴とカーディガンが打ち上げられた場所は病室の窓から見えたあの景色のあたりだった。
「お母さんは、もう帰ってこないの?靴もカーディガンもびしょ濡れで、どこに行っちゃったの?」
「海音、、、ごめん、ごめんね、、、本当に、、、」
涙と絶望でぐちゃぐちゃになった祖母の顔に何度も投げかけた。聞きたい返事が返ってこない現実にようやくことの重大さを受け入れた。「きっと帰ってくるよ。」お願いだから誰かにそう言ってほしかった。
母の葬儀は母の姿がないまま行われた。僕は入学式ぶりにブレザーを着た。大きくなった僕にはピチピチであまりに滑稽な姿だった。この成長も、母は知らない。これからもっと大きくなって大人になっていくことも知ることはできない。
母の遺品からウォークマンを貰った。中には今まで僕が歌ってきた曲たちが入っていた。それともう一曲、昔好きだったのであろうバンドの曲。毎日違う歌を持ってくる僕に応えようとしてくれていたのだろう。この曲たちも、もう増えることはない。
いろんな声が聞こえてくる。葬儀に参列した医師や看護師が祖母に仕切りに頭を下げている。母のことなどなにも知らない血がつながっているだけの親戚たちがその光景を見ていた。
「謝られても、、、しずこさん唯一の娘さんなのに」
「治る病気でもなかったんでしょ?それできっと、、、」
「そりゃあ気も落ちるわよ、だって、ねぇ、楽になりたくても、、、」
「あ、海音くん、、、」
「あ、、、」
どうでもいい。うるさい。僕と母と祖母。僕達の世界のことは僕達しか知らなくて良い。イヤホンで耳をふさいだ。知らないバンドの曲が流れる。
確かに幸せだった。確かに。そう感じていたのは僕だけだったのか。僕が歌を歌ってみせたときも友達との思い出を語ったときも母は心の中に真っ黒なものを抱えていたのか。どうして、それに気づけなかった?僕が信じて疑わなかったものたちは嘘ばかりだったのか。僕が明るくても周りは明るくならないし、僕が歌っても母は元気にならなかった。それどころか___。
僕はこの日から人との関わりを避けるようになった。そして、人前で歌うことも辞めた。




