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何も考えずにただ読んでほしい

これは私の体験の記録と、私があなたに届けたい思いを書き留めたものである。

私は5人姉弟の長女だ。2人の弟を挟み、妹が2人居た。

今は1人しか居ない。彼女は桜の季節に逝ったのだ。17歳だった。



7つ年の離れた妹はそれはそれは可愛かった。小さいころからずっと姉兄の後ろをくっついて離れなかった。


妹のあこがれの存在はいつも私であり、私は自慢の姉だったのだ。友達を連れてくるようになるといつも私の事を自慢していた。


着るもの、身に着けるもの、話し方、髪型、化粧、香水、、、全て私の真似だった。



それが嬉しかったはずが、大きくなるにつれて疎ましく思うこともあった。


新しく買ったティンバーのブーツは勝手に履いて傷つけてくるし、

SLYのダウンは穴をあけてくる。

香水はボトルの中身を半分以上盗む。

お気に入りのCDは持ち歩いて折ってくる。


こっちは一生懸命働いてやっと手に入れたものばかりだ。何度勝手に持ち出すなと言っても聞かなかった。

部屋は二人部屋。使いたい放題だったのだ。


お陰でよくケンカをした。とってない!私じゃない!の一点張りで埒が明かなかった。


でもそれも二年くらいだっただろうか。こんなに早く逝くと分かっていたら好きなだけ分けてあげたのに……。


――――――――――――――――――――――――


妹は高3の春、首を吊って自死した。正確には“運悪くこの時は死んでしまった”のだ。


高3と言っても進級できる単位がなかったので高校は中退していた。


一年半程、入退院を繰り返していた。病名は未だはっきりと断定はできないが、


その当時は

“発達障害”の疑い、“統合失調症”の疑い、“うつ病”の疑い、“躁鬱”かもしれない…

“自律神経失調症”の疑い。

と言われていた。


このどれかだったかもしれないし、全部だったかもしれない。若しくはどれにも該当しない。

反抗期ってやつなだけだったかもしれない。


今となっては分からないことだけど、苦しんでいたのは事実だ。本人が勿論一番苦しかったに違いない。ただ、あれやこれやと振り回される家族も辛かった。



この少し前から母はうつ病を患っていた。

母は再婚だ。一番下の妹だけ私たち他の姉弟と父が違う。


半身不随でほぼ寝たきりだが、口も頭も達者な義父の介護が必要になり同居することとなり、介護されているにも関わらず容赦ない嫁いびり。近所の目も母に対して冷ややかなものだった。


まだ幼稚園にも行っていない妹の世話もあり色々気持ちがパンクしたのだろう。母もまた入退院を繰り返していた。


この頃、再婚当時、家を出た私だったが実家に戻って一緒に暮らすようになっていた。


まだ学生の弟二人に、妹一人。未就学児一人。要介護者一人。

自ずと母の仕事が徐々に私の仕事となり、慣れない家事に育児に病院のお見舞いにと毎日大忙しだった。


けれど、これは私が自ら望んでしたことであって誰かに要求されたわけでも、頼まれたわけでもない。


私はこの時間を過ごして良かったとすら思っている。

それは大変なことばかりだったし、仕事はクビになったし生活も苦しかった。

けど、この時間があったから私は今は亡き妹と向き合あう時間が他の姉弟と比べ多くあったのだ。


妹の異変に気付いたのは、高一のまだ肌寒いころだった。

家の屋根から落ちたのだ。


しかもなぜか弟の部屋から出た所。

暑かったから涼みたかったと本人は言っていたがそんな季節ではなかったし、何もわざわざ弟の部屋から屋根へ出なくとも私たちの部屋にはババルコニーがあった。


それまでも、約束を守れない。(帰宅時間や携帯の利用額)無断外泊。無断欠席。と言ったよくある女子高生の反抗期か、と思うような行動は大いにしてあったのだが、こういった意味不明な行動が目に付くようになったのだ。



その頃よく傷を作って帰ってきた。

手の甲に根性焼きが入っていた時は聊か何があったのか問い詰めてやっと分かったことは、当時付き合っていた彼(バイト先の6つ年上の先輩)が実は既婚者であったらしく、奥さんが学校に乗り込んできたとの事。


そこから、毎日毎日ボコスカやられ、けじめつけろ!と根性焼きを入れられたのと事。


なんともドラマの世界みたいな話がこんなにも身近で起こるとも思わずあたふたもしたが、相手に子供も居ることだし、大人しく別れるように告げたのだが、なにせその元カレがひつこかった。


家まで迎えに来る始末。やめてくれと言っても聞かず、離婚もせずのらりくらりとやってくるのだ。

こんな調子の彼氏がいたんじゃ薬にでも手を出しているんじゃないかと疑う程、私生活が荒れ始めていた。

(検査をしてもらいシロだった)話し合いがまともにできず、暴れまくり、いつも最後は「お父さんに会いたい」と号泣した。



父は、ギャンブル依存症で闇金やサラ金に手を出し私たちの教育資金はすべて借金返済で消えた。

おまけに今で言うDV夫だった。


母にも手を挙げたが、私たち姉弟にも殴りかかってきた。弟が中学生になるとさすがに弟のいない時を見計らって殴りかかってくるような人だった。


そんな奴でも、小さかった妹はとても可愛がったし、低学年でサヨナラしている妹にとってはいい記憶しかなくても仕方がないことなのかもしれない。


一度たりとも養育費は振り込まれず、それでも子供たちが会いたがれば会わせていた母。


私は絶対に行かなかったが、弟と妹は月に一度ほどは出かけていた。


が、それも連絡が付かなくなり会うことは一切なくなった。


会ってどうしたいか聞くと「お父さんは絶対私の見方だもん!」と騒ぐ。


誰も敵対しているわけではないのに、毎度その騒ぎだ。泣きながら互いを罵倒しあい、疲れて終わる。その繰り返し……。



当時は苦痛な出来事だったが、今となっては後悔しかない。大人げなかった自分。


もっと向き合えたのではないか?罵倒しあう必要があったのか?妹の意見をもっと尊重できたのではないか?…挙げればきりがない程後悔は次から次へと湧き上がってくる。


それでも、どれだけ後悔したとしても、もう、妹はこの世には居ない。戻って来る事はないのだ。



会うことも、話すことも、喧嘩することももうない。二度とない。

たくさんの予兆はあった。


窓から飛び降りたとき。

部屋で首を吊りカーテンレールを壊したとき。


手首から血を流した時。


その切り傷が徐々に深くなった時。


手首はぶら下がり、通常では見たことのない角度に掌があった時。


行き過ぎたリストカットのせいで左手はお祭りの屋台で売っているイカ焼きの様な状態にあったとき。


切り傷を作るスペースを失い、左手から左腿へとその傷が増えていったとき。


高速道路にかかる橋から飛び降りたとき。


それでも、死ぬはずないと思っていた。

死んで欲しくなかった。


だけど、こころのどこかでこれがいつか終わりを迎えることは想像できていた。


…ただ、その現実を受け止めたくない自分と、そうなって欲しくない希望、どうしたらこの現実が平和な終息を迎えられるのか、答えが見つけられずにいた。


時間はそれ程なかったのに、ぐずぐずしていたのだ。


―――――――――――――――――――――――

そしてその日は突然訪れる。


先述した通り、破天荒な妹、未就学児。要介護者。鬱状態の母。学生2人。


すべての世話と色々な状況に置かれた私を心配してくれたの母の主治医だった。


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