61 隣国の辺境伯令息の目的
暴れても力では勝てそうにない。
無駄な体力を使いたくないし、怪我もしたくないため無言で首を縦に振ると、ブロッディ卿は素直に私の口から手を離してくれた。
今ここで叫べば良いのかも知れないけれど、お手洗いの場所と店内は少し離れているし、何より店内は騒がしいので、少しくらい大きな声で叫んだくらいでは誰にも気付いてもらえない気がした。
誰にも気付いてもらえないのなら、叫んでも乱暴されるだけなので、大人しく用件を聞くことに決めた。
一応、彼だって辺境伯令息だもの。馬鹿なことをして問題を起こしたくないでしょう。
……って、問題をすでに起こしてるわね。
まあいいわ。とにかく話を聞きましょう。
「こんなことをして一体、どういうつもりなのですか? 私に話したいことがあるのでしたら、普通に話しかけてくだされば良いことだと思いますが」
「ノルテッド卿が女に興味を示すだなんて思ってなかったからだ」
「はい?」
質問の答えになっていない気がして聞き返すと、ブロッディ卿は眉根を寄せる。
「話をしようと思ったが、周りに人が多すぎたんだよ! いいか? とにかく、何も言わずにノルテッド卿と別れてくれ」
「別れろと言われましても、私一人の判断では無理です! それに私たちは、婚約者であって恋人同士というわけでもないですし別れるとかそういう問題ではないのです」
「お前がノルテッド卿のことを嫌いになったと言えば絶対に別れてくれるはずだ」
私の話を聞いてくれていないのか、ブロッディ卿は切羽詰まった表情で言ってきたので尋ねてみる。
「どうしてブロッディ卿がルカ様のことを気にされるんです? ……まさか、ブロッディ卿はルカ様のことを!?」
「違う! ノルテッド卿を好きなのは俺の妹だ! 俺じゃない!」
「それは失礼いたしました。ブロッディ卿の妹さんがルカ様を好きだから、婚約を解消しろと私におっしゃりたいのですね?」
「そういうことだ」
ブロッディ卿は私とルカ様がどうして婚約者になったのか理由を知らないから、そんな話をしてこられたのだと思う。
だから、詳しいことは話せなくても、自分たちでどうにかできる問題ではないと再度伝えることに決めた、その時だった。
コンコン。
個室の扉がノックされた。
ブロッディ卿は舌打ちして、中に人がいると伝えるためにノックを返す。
普通なら、ここで終わるはずなのだけれど、今回は違った。
コンコン。
ガリガリ、ガリガリ。
木の扉を何かが引っ掻いている音が聞こえてきた。
不審に思ったブロッディ卿が私に指示する。
「おい。顔だけ出して外を確認しろ。助けを求めたりするなよ」
「わかりました」
ブロッディ卿の話は誰かに助けを求めるようなものでもなかったので素直に頷いてから、扉の鍵を開けて外を見てみる。
けれど、誰もいなかった。
「……誰もいない?」
そう呟くと、私の足に何か柔らかいものが触れた。
足下を見てみると、そこには猫になったルル様がいた。
「ルッ!」
ルル様と名前を呼んでしまいそうになり、慌てて口を押さえる。
けれど、ブロッディ卿は「ル」という言葉でルカ様だと思ったようだった。
「おい。早く閉めろ」
ブロッディ卿が小声でそう言った時には、時すでに遅しで、ルル様が私の股下をくぐり抜けて、個室の中に入ってきた。
そして、問答無用でブロッディ卿に襲いかかった。
「うわっ!? なんだ、でかい猫だな!?」
ブロッディ卿はルル様を手で受け止めて、彼女の鋭い爪から逃れるように腕を伸ばす。
そのうちに私が個室から出ると、誰かにぶつかった。
「ごめんなさい!」
反射的に謝ると「大丈夫か?」と優しく聞かれ、ぶつかった相手がルカ様だと気付く。
「ルカ様!」
「大丈夫、リゼちゃん?」
「イグル様! どうしてここに?」
ルル様がここにいるといういことは一緒に出かけているイグル様がここにいてもおかしくない。
ということは、イグル様の弟のシファ様もどこかにおられるのかしら?
もしかしたら、私とルカ様のデートを心配してこっそり付いてきてくれていたの?
疑問で頭がいっぱいになったけれど、あとで聞けば良いことなので気持ちを落ち着かせる。
男性二人と私がいるせいで、お手洗い前の廊下は人がすれ違うこともできないくらいに狭くなっている。
だから、ブロッディ卿の逃げ道もなかった。
ルカ様がブロッディ卿に冷たい声で話しかける。
「ブロッディ卿、そこは女性用だぞ。お前は身も心も男だろ? 緊急事態でも何でもないのにどうしてそんなところにいる?」
「う、うるさい! ちょっと、そこの女に用事があったんだ! それよりも、この猫、お前の猫か!? えらく殺気立ってるんだが!」
フーフー唸っているルル様とルカ様を交互に見てブロッディ卿が叫んだので、慌てて、私はルル様に向かって手を伸ばす。
「ありがとうございます。もう私は大丈夫ですから、こちらに来てください」
「……にゃー」
人の言葉を話すわけにはいかないので、ルル様は猫の鳴き真似をして返事をしてくれた。
ブロッディ卿からルル様を受け取ったところで、ルカ様がブロッディ卿を促す。
「ここじゃ邪魔になるからテラスに行くぞ。話を聞いたあとは騎士団のところに連れて行くけどな」
「勝手にしろよ。国際問題になるぞ」
「悪いことをしたのはそっちだろ」
ルカ様がルル様を抱いている私の肩を抱き寄せて、ブロッディ卿を睨む。
「とにかく話をしようぜ」
そんなルカ様を見てブロッディ卿は大きく息を吐くと、なぜか偉そうな口調で私たちを促した。




