17 昼休みの珍事
「な、なんで、こんなところに豹がいるんだよぉ!?」
ワヨインワ侯爵令息は悲鳴のような声を上げて後退りしながら、ルカ様を指差す。
ルカ様はふん、と鼻を鳴らしてから、怯えているワヨインワ侯爵令息にゆっくりと近付いていく。
「く、来るなよぉ! おい、お前、どうにかしろ!」
ワヨインワ侯爵令息は、自分の後ろに隠れているエセロに向かって叫んだ。
でも、そんな彼の叫びは無視して、エセロは私に声を掛けてくる。
「リゼ! 君だけでも早く逃げるんだ!」
「ミカナを置いて逃げられるわけないでしょう!」
襲われることがないとわかっているのもあるけれど、気絶しているミカナを置いて逃げるふりをしてしまったら、やってることがエセロと同じような気がして出来なかった。
すると、ワヨインワ侯爵令息の背中にそろりそろりと近寄る、イグル様の姿が見えた。
それと同時に、ルカ様が獲物を慎重に追い詰めるようにワヨインワ侯爵令息に近付いていく。
彼の意地の悪そうな顔がどんどん情けないものに変わっていった。
「なんで、俺のほうに来るんだよ! あっち行け!!」
ワヨインワ侯爵令息がそう叫んだ時だった。
「それはこっちの台詞だよ。あっち行け」
イグル様がワヨインワ侯爵令息の背中を押した。
「うわあっ!」
ワヨインワ侯爵令息はたたらを踏んで、何とか体勢を整えた。
でも、彼のすぐ目の前にはルカ様が迫っていた。
「ひいぃぃっ!!」
ワヨインワ侯爵令息は悲鳴をあげて尻餅をつく。
ルカ様は彼に飛びかかり、馬乗りのような体勢になると、彼の顔に自分の顔を近付けた。
「うわあああっ!」
どうやら、ルカ様は威嚇したみたいで、ワヨインワ侯爵令息は死にものぐるいといった様子で、ルカ様の体を押しのける。
もしくは、ルカ様が飛び退いたのかはわからないけれど、自由になったワヨインワ侯爵令息は、一目散に校舎に向かって走っていった。
人を呼んで来られても良くないし、中庭のガゼボに人が誰も来ないとも限らない。
それなのにルカ様は威嚇しながら、今度はエセロに近付いていく。
その時、私の右足のふくらはぎに何かが触れた。
トントンと叩かれている感じがして下を見ると、立ち上がった黒ウサギがいた。
「やあ、お嬢さん、私はルカとイグルの叔父のラビだ。よろしく頼むよ」
「はじめまして。リゼと申します。よ、よろしくお願いいたします!」
小声で言葉を返すと、ラビ様は鼻をひくひくさせて言う。
「彼はエセロくんと言ったか。彼にワヨインワ侯爵令息が君にしたことを証言しろと伝えてくれ。そうすれば、イグルが助けてくれるとも」
「それは良いんですが……」
「大丈夫だ。どうせ彼の記憶はなくなるんだから……。それに、彼が告げ口したことにすれば、君がワヨインワ卿に逆恨みされることもない」
「わかりました」
頷いてから、ルカ様に威嚇され、恐怖で立ち尽くしているエセロに向かって叫ぶ。
「エセロ! あなたはまだ死にたくないわよね!?」
「それはそうだよ! このままじゃ、両親に苦労をさせただけだ!」
「なら、言うことを聞いて!」
「この状態で何を聞けって言うんだよ!?」
「私が無理矢理、ワヨインワ侯爵令息に連れてこられたと皆に証言して! そうすれば、あなたをイグル様が助けてくれるわ!」
私の言葉を補足するように、イグル様がルカ様に近付いて言う。
「僕の可愛い犬だからね。助けてあげられるよ」
「い、犬だって!?」
エセロはルカ様を指差して叫ぶ。
「どう考えたって犬には見えない!」
「残念ながら犬になるんだよ」
「なんなんだよ、一体!?」
イグル様の言葉の意味がエセロに理解できるはずもなく、彼は眉根を寄せた。
「エセロ、お願い、約束して! 死にたくないでしょう?」
「わ、わかったよ! 元々、証言はするつもりだった。君が味方してくれるなら」
ワヨインワ侯爵令息に立ち向かうのは、自分だけでは怖い。
でも、私の後ろにノルテッド家の人達がいるとわかっているから、自分の家も守ってもらえると考えたのかしら。
ワヨインワ侯爵令息の評判は貴族の間でも良くない。
それを彼の御両親は知っておられるはずだと、伯母様が教えてくれた。
伯母様が生きていた頃だから、かなり前の事だし、ワヨインワ侯爵が何も考えていないとは思えない。
ワヨインワ侯爵令息はこれで終わりかもしれないわね。
「リゼ?」
「もちろん、味方するわ」
中々返事をしない私をエセロが不思議そうに見てきたので頷く。
すると、エセロはホッとしたような表情をした。
それと同時に、ルカ様がガゼボの奥の茂みに入っていく。
「人が来たようだね」
ラビ様は自分が見つかっても別におかしくないと考えているからか、呑気な口調で言った。
ご迷惑かもしれないけれど、自分の欲望には勝てずに話し掛けてみる。
「あの、失礼でなければ抱き上げてもよろしいでしょうか」
「うむ、そうだね。でも、イグルに頼むよ。私は重いからね」
「大丈夫です」
エセロはイグル様に話しかけられていて、こちらに注意を払っていない。
そんな会話を小声でしたあと、私は大きなウサギのラビ様を抱き上げた。
仰った通り、ずしりと重いけれど、毛は手触りがなめらかで、ついつい何度も撫でてしまいたくなるような心地よさだった。
「触ってもかまわないよ。ルルにもね、そりゃあもう、何度も触られてね。昔は、目をね……。うん、目とかね、デリケートなところはやめてほしいかな」
耳や鼻を動かして、周りに注意を払いながらラビ様がそう言ってくれたので、遠慮なく撫でさせてもらうことにした。
そうこうしている内に、人間の姿に戻ったルカ様が合流し、ワヨインワ侯爵令息が「大きな犬がいるんだ」と叫びながら、先生や守衛さんを連れてきた。
私はまず先に、先生にミカナを保健室に運んでもらえないかと、お願いしたのだった。




