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隣の芝生は青く見える  作者: 松田 由香
9/11

9話 猿は木から落ちない

 物心がついてすぐに理解したことがある。それは自分が可愛いということだ。ぱっちりした二重まぶたも綺麗な形の鼻もとても小さい顔も全て好きだったし自信があった。

 そのおかげで幼少期は常に幸せに満ちた生活を送っていた。友達作りに苦労したことはなく自分からアクションを起こさずとも周りに人が勝手に集まり、私を取り囲んだ。懇談会では毎回先生から褒められていたので親はいつもニコニコしていた。発表会でも必ず主役を務め、どんな時もスポットライトを浴び続けてきた。私は恵まれた人間であると自覚していたので、これからも何一つ不自由なく生きていくのだとそう思っていた。


 限界が訪れたのは中学三年生の時だった。懇談会で初めて担任の先生からお叱りを受けたのだ。理由は学業成績だ。恵まれた環境のもとで惰眠を貪り一切勉強してこなかったツケが回ってきた。

 「このままでは高校に入学できないぞ」と言われショックを受けたことを今でも覚えている。いつも懇談会でニコニコしていた親の姿はなく鬼の形相になっていた。家に帰ると当然の如く真面目に授業を受けて勉強しろと叱責を受けた。


 当時、私は馬鹿な子どもだった。怒られることにも不慣れなまま成長してきたので、怒られた理由が理解できなかった。だから、明日学校に登校した時に友達に愚痴を聞いてもらうことにした。


 翌日、学校の教室の扉を開くと異変を感じた。いつも遊んでいたはずの友達が一生懸命勉強していたのだ。否、友達だけではない。クラスのほぼ全員が教科書や参考書を開いて真面目に向き合っていた。

 まるで自分だけがその場に取り残されたような気分に陥ると同時にこの時初めて気づいた。私の思慮の浅さを。


 本当はもっと早く察知するべきだった。予兆はあったはずだ。年齢を重ねるごとに褒められる機会が目に見えて減っていった。怒られることはないにしろ勉強について痛いところを突かれることもあった。そうだ、全力で見て見ぬふりをしていただけだ。


 クラス内の真面目な雰囲気は別に昨日今日始まったことではない。中学三年生に進級するや否や皆勉強に励むようになった。それに気づかないふりをして、まだ大丈夫だと根拠のない自信を持ってしまっていたのだ。


 今からでもまだ遅くない。真面目に勉強を頑張ろう。


 この日を境に私の意識は変わった。学校の授業は積極的に受けるようになり、親に頼み込んで学習塾に通うことにもなった。


 学習塾の入塾テストでは成績が悪すぎて一番下のクラスに入れられた。一番下のクラスというだけあって、授業は初歩的な内容だった。何の知識も持たない私でもギリギリついていけた。先生も優しくてどんな簡単な質問にも笑顔で答えてくれた。


 ある日、空き時間を利用して先生に質問をしにいくと根掘り葉掘り質問をしている生徒がいた。私は順番待ちのため距離をとって様子を伺う。見たところ真面目そうな生徒で絵に描いたような優等生という感じだ。


 先生に対する質問はどれも難解なものだった。本当に中学生なのかと疑うくらいにレベルが高く会話内容が全く理解できなかった。先生も感心しているくらいだ。


「いやー。さすがだな。もうここまで解けているのか。我が塾の誇りだよ!」


「そんなことないですよ。まだ完全には解けてないですし」


「いやいや、ここまで解けてたら十分だよ。これからも頑張って!」


「はい! 失礼します!」


 真面目な生徒はペコリと頭を下げて去っていった。先生はそれを見送った後、こちらを向いて「何でも質問してきてね」と優しい声で呼んでくれたので、自分の理解できない部分を質問した。

 質問をしている時、内心少し恥ずかしかった。さっきの生徒は遥かに難しい内容を質問していたのに、自分はこんなにも低い次元の話をしているのが申し訳なくなった。


「先生……さっきの子って……」


「あぁ、あの子? あの子はこの塾で一番成績が優秀な子だね。それがどうかした?」


「いや、あの子すごいですよね。同い年なのに。私は全然ダメなのに」


「そりゃあの子は優秀だから。本当に我が校の誇りだよ! キミは……確かに全然ダメだけど、まぁ地道に頑張ろうよ」


 予想外の返しに言葉を失った。てっきり優しい返事が返ってくると思っていたのに突き放された気持ちになった。この先生も表面上は優しいけれども、心の底では成績が悪い人間を見下しているのだろう。

 いつまでも一番下のクラスという名のぬるま湯に浸かっているわけにはいかない。必死に努力して周りを、この先生を見返そう。先生だけではない。親も学校の担任の先生もだ。


 決意を新たに毎日のように学習塾の自習室に通うようになった。土日は朝から晩まで自習室に籠って勉強をした。気持ち悪くて倒れそうになる時もあったが、必死に堪えた。全ては自分自身のために。


 自習室に通うようになってから一ヶ月が過ぎた頃、成績に変化が訪れた。これまで三十五という最低ランクの偏差値を記録していた模試の成績が良化した。どれくらい改善されたかというと、なんと偏差値が十も上昇したのだ。

 元の成績が論外であるとはいえ、一ヶ月で偏差値が十も上がるなんて予想だにしていなかった。嬉しくて早速先生に報告に向かおうとするが、そのタイミングで勢いよく誰かにぶつかり、相手を弾き飛ばしてしまった。


「だ、大丈夫?」


 自分のせいで怪我を負わせてしまったかもしれない。無事を確認するために、その場に蹲っている相手に手を差し伸べた。


「あ、はい。大丈夫です。ありがとうございます」


 私の手をガッシリと掴んで起き上がった。どうやら無傷みたいだ。相手の顔に傷や痣がついていないか確かめようとしたところで、その相手が例の優等生だと気づいた。

 優等生は服に付着した埃を払った後、ペコリと頭を下げた。その状態のまま申し訳なさそうに謝罪の言葉を述べる。


「申し訳ありません。お怪我はございませんか?」


「いや、私がごめんだよ。周りをちゃんと見てなかったから。怪我はないよ。そっちは怪我ない?」


「ありません。貴女のお怪我がなくて安心しました。それじゃあ私、急ぐので」


 再度頭を下げてからその場を後にした。一方で私はその場から動けず立ち尽くす。優等生は自分に過失が一切ないにも関わらず、他人の心配をしてくれた。自分とは違って人間が出来ている。

 それに相手が握っていた模試の結果がチラッと見えてしまった。そこには偏差値七十五という脅威の数値が書かれていた。自分とは三十も離れている。


 完璧な人間性、優秀な成績。自分とは真逆の人間だった。この程度の成績で嬉しがっている自分が恥ずかしくて仕方ない。穴があったら入りたい。


 私もあのような人間になりたい。あそこまでのレベルにはなれなくても少しでも近づけるように。そうだ。今度あの子に会ったら話しかけてみよう。


✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 今度会ったら名前を聞こう。そう決意した日から数週間が経過した。あの日以降、塾の中で優等生と会うことはなかった。それもそのはず、私たちはクラスが違う。片や一番下のクラス、片や一番上のクラスだ。授業の時間が違うので自習の時しかチャンスはない。あの子と出会えぬまま時間だけが過ぎていった。


 ある日、中学校の文化祭が開催された。私が通う南中学校は文化祭だけ歩いてすぐの場所にある北中学校と合同で行う。合同といっても開催日が同じというだけで、他は特に変わらない。

 今年の文化祭も私たちの南中に北中の生徒が多く訪れた。自分は北中には知り合いが一人いる。結構騒がしい男の子だ。幼稚園と小学校が同じだったので今でも親交があり、今日も会う約束をしている。


「待たせたな、暖乃はるの!」


 坊主の男子生徒が前から小走りでやってきた。ちなみに暖乃はるのというのは私の下の名前だ。


「全然。私も今来たとこだし。それにしても久しぶりだね、田中」


「それな。にしても相変わらずバカっぽい見た目だなー」


 坊主の男子生徒改め田中は会うたびに私をバカにしてくる。幼稚園の時なんか毎日のようにバカにされていたっけ。


「一応これでも最近は勉強頑張ってるから」


「お前が? そういう冗談はやめろって。ちょっ、面白すぎて腹が捩れそう」


 田中は腹を抱えて笑い始めた。確かにこれまでの私をよく知る人からすればありえない話だろう。勉強なんて全くしてこなかったのだから。それにしたってそんなに笑わなくてもいいのに。

 しばらく狂ったように高笑いしていたが、露骨にイラッとしている私が目に入ったのか彼は爆笑するのをやめた。どうやら本気であることが伝わったみたいだ。


「そっか。お前が勉強か。なんかすげーな。なんで勉強しようってなったんだ?」


「私がいかに馬鹿だったのかを気づいたの。ちゃんと勉強して周りを見返そうって。それに……」


「それに?」


「憧れの人がいるの。優しくてめっちゃ頭が良くて。その人に少しでも近づきたい……」


「ほーん。あのお前が憧れねぇ」


「まぁ田中はめちゃくちゃ賢いから理解できないかもね。どうせ北中でも学年一位なんでしょ?」


 直後、田中の足がピタリと止まった。いつもであれば胸を張って「当たり前だろ。頭の出来が違うんだよ」と強気の姿勢を見せるのに彼からの言葉はなかった。

 田中は小学校の時は常に学年トップの成績を収めていた。テストは毎回百点を取っており、事あるごとに優秀な成績をひけらかしていた。そんな彼が黙り込むなんて。


「ははっ。俺、二位なんだよ。ムカつくけど俺より賢い奴がいるんだ」


「へ? あの田中より? どんな子なの?」


「女。おとなしい奴なんだけどクソ賢い」


 田中よりも賢い人がいるなんて思っていなかったので反応に困った。会話を逸らすために、近くにあったスーパーボールすくいの屋台を指差した。


「あれ、やろうよ」


「いいけど。やるからには勝負な。本気出してやるよ!」


「望むとこよ」


 田中と対決することになった。さっそく挑戦しようとするが、既に先客がいるようなので順番待ちをする。そのまま待つこと五分。前の人が中々終わらないので、後ろから様子を覗き込むと目にも留まらぬ早業でボールを掬い上げていた。カゴを見ると大量のボールが中に入っている。

 

「この人すげぇな。化け物じゃん」


 隣にいる田中も唖然としている。その後も立て続けにポイでボールを掬い続けた。いつまでも神業を見ていたかったが、ついにその時が訪れる。


「ありがとうございました」


 神業を見せた生徒がこちらを振り向いた。服装からして北中の生徒だ。はたしてどんな生徒なんだろうか。ご尊顔を拝見させていただこう。


「あっ……」


 どこの中学校の生徒なのか気にはなっていた。しかし、まさか北中だったなんて。なんと神業を見せた生徒の正体は塾の優等生だった。こうしてはいられない。名前を聞かなければ。

 私は急いであの子の元に駆け寄ろうとするが、お先に失礼しますと言わんばかりに田中が真っ先に優等生に話しかけた。まさに弾丸のようなスピードだ。


「よ、よう。偶然だな。スーパーボールすくい上手いんだな。ははっ」


 一目で分かった。この男、緊張している。私の前では見せたことのない表情だ。ひょっとして田中はあの子のことが。


「上手いというほどではないですけど。田中君もスーパーボールすくいやるんですか?」


「も、もち。あのさ、カッコいいとこ見せるから見守っててくれない?」


 やはりそうだ。田中は優等生に好意を抱いている。そういや昔、彼の口から聞いたことがある。「俺は自分より賢いやつが好きなんだ」と。つまり、あの子は北中のトップということになる。

 幼馴染の田中が誰かを好きになるというのは嬉しい反面少し寂しい。別に田中のことを男として好きだったわけではないが、とても身近な異性だ。多少なりとも気にはなる。

 

「見守ってます。頑張ってください」


 優等生は私の隣に並んだ。近くで見るとスラッとしていて背が高い。そういえば、まだ名前を聞いてなかった。


「頑張るよ。寒河江さかえさん!」


 田中はカッコいいところを見せようと躍起になる。そんな彼の後ろ姿を真剣な眼差しで見つめる優等生。お似合いの二人だなと感じた。

 私なんかがここにいていいのだろうか。邪魔になってしまうので、この場所から静かに去ってしまうべきなのではなかろうか。否、その前にやるべきことがある。


「あの……寒河江さかえさん?」


 先ほど田中が優等生のことを寒河江さかえさんと呼んでいたので名前は間違いないはずだ。もし間違っていたらすみません。


「はい。何でしょうか?」


 合っていたみたいで良かった。いや、安心している場合ではない。聞きたいことをしっかり聞かなければ。


「駅前の学習塾に通ってるよね」


「そうですけど……」


「私も同じ塾に通ってるの。クラスは全然違うけど。寒河江さかえさんってめっちゃ賢いよね! なんか特別な勉強方法とかあったりするの?」


 私は何を言っているんだろう。緊張して早口になってしまった挙句どうでもいい質問をしてしまった。気持ち悪がられていないだろうか。


「特別なことはしてません。ただ毎日同じことの積み重ねを大切にしてます」


「そうなんだね。私、すごい馬鹿で。寒河江さかえさんに憧れてるんだけど、貴女みたいになれるかな?


 きっと塾の先生には絶対無理だと嘲笑されるに違いない。私が先生でもそうする。だけど、本気でこの子みたいになりたいのだ。


「なれますよ。私も最初からいい成績だったわけじゃないですし。正しい努力を積み重ねれば誰だって成績は上がります」


 真剣な眼差しで私を見つめる。見ず知らず自分のために親身に答えてくれた。本当に優しい子だ。


「頑張ります。貴女みたいになれるように」


 さすがに今から同じ高校に合格することは難しい。けれども、いつの日か隣に立てるように。

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