1話 天は二物を与える
単刀直入だが、私には吐き気を催すほど嫌いなことわざがある。
『天は二物を与えず』
誰しもが一度は耳にしたことがある有名なことわざだと思う。簡単に言うと、神様は一人の人間に多くの長所は与えることはなく、どのような人間にも欠点が存在するという意味だ。
本当にそうならば、どれほどよかったことでしょう。実際はこんなの真っ赤な大嘘である。二物も三物も与えられた傑物は結構いるものだ。また、欠点という欠点が存在しない完璧超人も少なからずいる。実に不平等な世界だと思う。
ちなみに私は一物も与えられなかった残念な人間だ。容姿は下の上で、どちらかと言うとブサイク寄りの顔面だし、性格も根暗である。天才でもなければ、特別な才能は一つも持ち合わせていない。
どのような人間にも一物くらいは与えてほしいものだ。気まぐれな性格の神様が憎らしい。一物も与えられなかった私が、神様に怒りの腹パンをお見舞いしても許されるんじゃなかろうか。いや、さすがに許されないですね。はい。
軽い冗談はここまでとして(冗談のつもりはないけれど)、私の事が気になって仕方がない読者も少なからずいると思うので、そろそろ自分がどういう人間なのかを軽く紹介しておこう。
私、寒河江深雪は約二十年前に東京都で生を亨けた。三人姉妹の長女として両親に厳しく育てられ、高校卒業まで東京都の実家で過ごした。
大学入学後は現在に至るまで神奈川県で一人暮らしをしている。本当は実家から大学に通いたかったが、通学に二時間以上はかかるので泣く泣く一人暮らしを始めることになった。最初は嫌で仕方がなかった一人暮らしも今では手慣れたものであり、むしろ一人暮らしができてよかったと思っている。やはり、誰にも邪魔されずにやりたい事ができるのは大きいだろう。
そんな私は、今日から大学二年生になる。しかし、大学二年生になったからといって、目に見えて変化があるわけではない。強いて挙げるとするならば、講義の難易度が少し上がるくらいだ。人間関係に関しても特に変化はない。一年生の時に友達ができなかった私は、きっとこれからも一人ぼっちに違いない。
願わくば、一人くらいは友達が欲しいものだ。さすがに大学でぼっちは心に来るものがある。これが後三年も続くことを考えたらストレスで頭がおかしくなりそうだ。
「て、そんな事考えてる場合じゃない! そろそろ大学に行かないと!」
アパートの自室から大学までは約五分くらいかかる。ちなみに現在の時刻は午前九時。講義は九時十分からなので、今すぐ家を出なければならない。鏡の前で軽く寝癖を直してから走って大学に向かった。
大学に到着すると構内は多くの学生でごった返していた。自分が通う大学は生徒数一万人を超えるマンモス大学なので、授業開始時刻直前はありえないくらいに混雑する。この光景を目の当たりにして、もう少し早く家を出るべきだったと後悔した。
案の定というべきか、講義室の椅子はどこもかしこも既に誰かが座っていた。空いている座席を隈なく探すが中々見つからない。結果的に空きがあったのは、一番後ろの座席だけだった。そこだけ二席空いていた。
正直なところ、一番後ろの座席はいつも五月蝿いので避けたかった。とはいえ、他に空いている席はなく、一番後ろの席に座る以外の選択肢はない。仕方なく最後列で講義を受けることにした。
だが、講義が始まると予想に反して皆静かに教授の話を聞いていた。担当教授の話が興味を唆るものばかりで、教室内の全生徒が釘付けになっているのが大きい。ずっとこのまま何事もなく平穏に九十分間の講義が終わることを祈った。
ところがどっこい。人生とは思い通りにいかないものだ。むしろ思い通りになることのほうが稀と言える。私の切なる願いとは裏腹に、予期しない出来事が起こってしまった。それは講義開始二十分後に前触れもなく訪れる。
突如、講義室の扉が開かれたのだ。後ろの扉なので目視はできないが、講義に遅刻した生徒が入室したのだろう。新学期早々、二十分も遅刻とはいい度胸である。どんな輩なのか顔を見てみたいものだ。どこの馬の骨だか知らない人を内心馬鹿にしていると、その遅刻した生徒が隣にやってきて、なんとそのまま空いている隣の席にスッと座ってきた。
広い講義室だから他に多くの席があるはずなのになぜ自分の隣に座ったのだろうか。いや、よくよく考えてみると、自分が到着した段階で既に他の席が埋まっていた。他に席が空いていないので、仕方なく自分の隣に座ったに違いない。
ところで、隣に着席した生徒から甘い花のような柔らかい匂いが漂ってくる。何度も嗅ぎたくなる香りだ。顔は見えないが、きっと自分とは正反対の可憐な女性だろう。
どのような女性だろうか。ドレスが似合う女性だろうか。それとも和服が似合う女性だろうか。妄想が膨らんでいくにつれて、横に座る女性のことが気になって頭から離れなくなる。とうとう耐えかねた私は隣を一瞥した。
ーーそこにいたのは、息を呑むような美人だった。
流れるようなサラサラの長い髪。
綺麗な形の眉。
ぱっちりとした二重まぶた。
ぷるんとした妖艶な唇。
誰が見ても口を揃えて「美しい」と言う圧倒的な顔面の持ち主だ。まさに完璧で究極のアイドルみたいな女性だ。
私はこの女性を知っている。否、この大学の生徒で彼女を知らない者はいない。それほど有名な人物。
名前は浅海暖乃。昨年大学内で開催されたミスコンで一年生ながら優勝を果たした美貌の持ち主だ。超大企業の社長令嬢であり、家柄も抜群に良い。おまけに巨乳である。皆の憧れの存在だ。
だけど、私は彼女が嫌いだ。容姿が良くて家柄も良いなんて嫉妬するしかないではないか。神様の気まぐれによって、二物も三物を与えられた人間など憎まれて当然である。
ーー私なんて一物も与えられなかったのに。
一切艶のない外ハネのミディアムヘア。
垂れた不恰好な眉。
重たい一重まぶた。
厚みのあるたらこ唇。
その容姿から『おかめ納豆』と揶揄された過去がある。おそらく努力ではどうにもならない顔面だろう。それらの要素に加えて胸も小さく家も裕福ではない。そのせいで他人に馬鹿にされ続ける人生を歩んできた。
だからこそ、彼女の横に座るのは苦痛でしかない。並んでみると月とスッポンだ。このままでは自己嫌悪に陥りそうなので、できれば一刻も早く講義が終わってほしい。この空間から逃げ出したい。
とは言っても彼女と直接関わることは絶対にないはずだ。会話すること自体がありえないことだからだ。偶然隣に座っただけであり、自分のことなど認識すらしていないだろう。このまま時が過ぎ去るのを静かに待つとしよう。
「ねぇ、今ちょっといい?」
柔らかい声だった。予期せず話しかけられたものだから、少し驚いて声がした方向を振り向くと、隣に座る美人が自分の顔をまじまじと見ていた。え、どうしよう。一体何が起こったんだ。
待て待て、状況を整理しよう。どうやら、私は雲の上の存在である浅海暖乃に話しかけられたらしい。吐き気を催すほど嫌いな人間であるとはいえ特に断る理由も見つからないので、こくりと頷いた。
「よかったぁ。私、今来たばっかりだから、どこのページを進めてるのかわからなくて。申し訳ないんだけど教えてもらっていい?」
「あ、はい。二〇ページですよ。下の段落の部分をやってます」
「ありがとう!」
満面の笑みで私にお礼を述べた。私は彼女のようなカースト最上位の人間は講義をろくに聴かずに大学に遊びに来ている者ばかりだと偏見を持っていた。大学を合コンの場だと捉えている脳内お花畑の連中として嫌悪していた。
それがどうだろうか。真剣な眼差しでテキストに向き合っているではないか。自分自身の凝り固まった浅い思考を改める必要がありそうだ。少なくとも彼女はとても真面目に講義を受けようとしている。
時間が経つにつれ、スマホを触ったり、机の上に突っ伏して寝る生徒がちらほら見受けられるようになった。それでも浅海暖乃は変わらずに黙々と講義を受けた。最後まで真剣に取り組んでいた。
「今日の講義はここまで。皆、しっかり復習しておくように!」
教授の一言で講義が終わり、多くの生徒が凄い勢いで退出していく中で私はノートをまとめていた。隣の彼女も同じくノートをまとめている。隣に誰かがいると集中できないので早くどこかに行ってほしい。
「よし! 書けたぁ!」
浅海暖乃は嬉しそうに大袈裟なガッツポーズをして、急いでノートやテキスト類をバッグに片づけ始めた。やれやれ、やっと一人になれる。安堵の息を漏らすと彼女は急に身体の正面を私に向けた。その状態で頭を下げ、大きな声で、
「ありがとう! おかげで助かったわ」
ビックリした。いきなり何を言い出すかと思えば感謝の言葉が飛び出てくるとは予想していなかった。
「いえ、私は別に何も……」
ただテキストのページ数を教えただけなので感謝をされる覚えはない。それなのに律儀にお礼をするなんて変わった人だ。
「またね。寒河江さん」
浅海暖乃はニッと笑顔を見せ、そのまま走って講義室を去っていった。私はぽかんと口を開けて、その場に立ち尽くす。先ほどの言葉が頭から離れない。
ーーまたね。寒河江さん
今、間違いじゃなければ、私の名前を呼んでくれたよね。私なんかの名前を覚えていてくれていたなんて。これまでまともに話をしたこともないのに。なぜ名前を知ってくれているのだろう。
それにしても、礼儀正しくて優しい女の子だった。顔が良くて家柄も良くて、おまけに性格までいいとはありえないバグだ。これじゃあ、本当に非の打ち所がない完璧人間じゃないか。やはり私は彼女のことが。
大嫌いだ。だけど、少しだけ嫌いではなくなった。ほんの少しだけど。