【6】
その時だ。
「ウンディーネ!」
突然割り込んできた声に、シズシラは反射的にフードを被って黒髪と赤目を隠した。
アウネーテがびくりと身体を跳ねさせて背後を振り返り、シズシラ、そしてヨルもまたその視線の先を追いかける。
王子だ。
アウネーテの想い人であるこのアトランティスの王子が、満面の笑顔でこちらへと駆け寄ってくる。
「ああよかった、ウンディーネ。ここにいたんだね。探したんだよ」
「…………」
にこにこと何故か嬉しそうにアウネーテの肩を抱く王子に、アウネーテはおずおずと頷きを返す。
ごめんなさい、という彼女の気持ちが伝わったのだろう。
王子は「君も息抜きがしたかったんだね」と納得したように頷いて、「それより聞いてくれ!」と弾む声で続ける。
「あの修道院の彼女! 僕の命の恩人の彼女と、結婚できることになったんだ!」
「!」
その時息を飲んだのは誰だったのだろう。
事態を見守るシズシラだったのか、それとも王子の腕に抱かれながらも凍りついたように固まるアウネーテか。
少なくともヨルではない。
彼は器用に瞳をすがめて王子とアウネーテを見つめている。
その場の空気が明らかに変わったことにも気付かない王子は、幸せそうに、嬉しそうに、夢見るように瞳を細めた。
「彼女はね、実は隣国の姫君だったんだよ。僕との結婚のために、行儀見習いとして修道院に入っていただけだったらしい。ああ、ああ! こんな幸運なことがあっていいんだろうか! ねえウンディーネ、君も喜んでくれるだろう?」
アウネーテが頷いてくれるものだと信じて疑っていない口調だった。
けれども流石に彼女の表情に絶望が満ちていることには気付いたらしい。
ぱちりと瞳を瞬かせた王子は、「どうしたんだい?」と首を傾げてから、やがて「ああそうか」と納得したように頷いた。
「大丈夫だよ、ウンディーネ。何も心配することはない。たとえ僕が彼女と結婚したとしても、彼女は妾を許すと言ってくれた。君と僕の関係は何も変わらないよ。流石に平民の上に口も聞けない君を側妃にまで取り立ててあげるなんてことはできないけれど、公妾としてそばに置いてあげることはできる! さあ、これで安心してくれるだろう? 君も僕と彼女の結婚を祝福してくれ」
――何を、この王子様は言ってるの?
シズシラは深く被ったフードの下でぽかーんと口を開けて固まっていた。
この王子、何を当たり前のように、自分に惚れている少女相手に他の女性との結婚を告げ、あまつさえ妾になれだなんて言っているのだろう。
何を考えていると言うのだろう。
え? おかしくない? おかしいわよね? それとも私がおかしいの?
だんだん自信がなくなってきて、助けを求めて足元を見る。
足元ではヨルが、美しい瞳を半目にしていた。その口が音なく動く。
――クズだね。
容赦がないが的確な表現だった。
そうだ。この王子、クズである。
こうなるとアウネーテのことが心配でたまらなくなり、シズシラは一歩踏み出してとりあえず彼女を王子から引き離そうとする。
いやだがしかし、王子のことをそれでも想うのだとアウネーテが言うならば、ここで横槍を入れるのは無粋すぎるのだろうか。
解らない。
想定外に王子がクズすぎて解らなさすぎる。
「ア、アウネーテ姫……っ!?」
「ウンディーネ? ど、どうし……」
シズシラが恐る恐る声をかけた瞬間、アウネーテが王子の腕を振り払い、バッとこちらに振り返ってくる。
荒れ狂う海のようにぎらつくアクアマリンの瞳がこちらに向けられて、反射的にびくつくシズシラの元に、アウネーテはそのまま大股でずかずかと歩み寄ってくる。
わあ、歩くのお上手になりましたね……なんて言える雰囲気ではない。
アウネーテしか目に入っていなかったらしい王子がようやくシズシラ達に気付いて瞳を瞬かせるが、彼がこちらに声をかけるよりも先に、アウネーテの手がシズシラの手にあった巻き貝を奪い取る。
あ、と思う暇もなく、アウネーテの手で、巻き貝が地面に叩き付けられた。
バリーン!! と盛大な音を立てて、まるでガラスのように巻き貝が砕け散り、真珠色の煙が立ち上り、その煙のすべてをアウネーテが大きく吸い込む。
唖然と固まる周囲を置き去り、またくるりと踵を返したアウネーテは、王子の元へ走った。
ほんの数歩程度ではあったけれど、確かに彼女は走り、王子は訳がわからないながらもかわいい妾を抱き止めようと笑顔になって両腕を広げる。
そして。
ばち――――ん!!
アウネーテの平手が、見事なまでに王子の顔にめり込んだ。
よほどすさまじい勢いだったのだろう、倒れ込むまでとはいかないもののその場でたたらを踏む王子を見上げ、アウネーテは。
「ふざけないでいただける!?」
それは、まるで、真珠を転がすかのような、美しくも愛らしい声音だった。
光沢のある声音が、確かに強大な怒りを宿して、王子を罵倒した。
「わたし、わたし、あなたのことが好きよ。だからあなたにもわたしのことを好きになってほしかった。だからこの声を手放してまで人間になったのよ。あなたのとなりを堂々と歩ける足が欲しかったの。言葉が伝わらなくたって、わたしが命の恩人だって気付いてもらえなくたって、あなたのためなら声を手放せる、命だって賭けられる、そのままのこのわたしを好きになってほしかった。それがなに? ただ振られるだけならまだしも、妾ですって? ええ、そうね、妾でもあなたに愛してもらえるなら構わないのかもしれない。でもあなたは結局、わたしのこと、愛してなんていないじゃない。ただ都合のいいお人形を手放したくないだけじゃない。ふざけるのも大概にして!」
それは魂の叫びだった。真珠を転がすような美しい声が紡ぐ、愛の告白であり、恋の終結の宣言だった。
勢いよくほとんど一息で叫んだせいか、ぜえはあと肩で息をしながら、それでもなおアウネーテは王子のことをにらみ上げている。
年若い少女に手を上げられたことがよっぽど衝撃だったのか、王子はしばしほおを押さえて呆然としていたが、やがてその顔色がみるみるドス暗く変色していく。
「このっ! かわいがってやれば、調子に乗って! この僕に手を上げた罪、その命で償え!」
怒りに任せて王子が腰に下げていた護身用の剣を抜き払う。
口を挟めずにアウネーテの口上を聞いていることしかできなかったシズシラは、慌ててアウネーテの元に走り、彼女を守ろうとその身を割り込ませる。
魔女さん、と、アウネーテが目を見開くのになんとか笑みを返して、小柄な彼女を庇うために抱え込む。
怒りに理性を失った王子は構わずにシズシラごとアウネーテを斬り捨てようとする。
しかしその瞬間、王子よりももっと素早く動く存在がいた。
「シズシラ、借りるよ」
「えっ」
シズシラが握り締めていた短剣をヨルが咥えて地を蹴った。
器用に短剣を操るヨルは、そのまま王子の顔面に、一直線に見事な傷を作る。
深く、大きな傷だ。
王子の鮮血が盛大に宙に散り、悲鳴を上げて彼がその場にうずくまる。
「ほら、ぼやっとしない。逃げるよ、シズシラ」
「っうん!」
ぽいっとナイフを投げ出して言い放たれたヨルの言葉に促され、走ることに慣れないアウネーテを抱え上げるようにしてシズシラは走り出した。
向かうは海だ。
とにかく海である。
王子の悲鳴を聞きつけて、近くに隠れていた護衛が集まってくるのを後目に、シズシラはアウネーテごと、ためらうことなくこの丘の公園の柵の向こう、海へと飛び込んだ。
遅れてヨルも飛び込んでくる。
盛大な水飛沫がひとつ、小さな水音がひとつ続けて上がり、シズシラの身体が海に沈んでいく。
追手を巻くためとは言え、ローブも脱がずに海に飛び込んだシズシラにはもうなすすべがない。
おそらく今後、王子のお遊び候補が、王子の妾にしかなれないことに不満を覚え、王子を襲った末に丘から海へ身を投げたといううわさがアトランティスに出回ることになるだろう。
そう仕向けるための飛び込みだったが、まさかこんなにも自分が泳げないなんて思わなかったシズシラは無我夢中で手足を動かした。
――お、おぼれるっ!
ごぼぼっと口から息を吐き出して手足をばたつかせても事態は何一つ変わらない。
ああお母様、不肖の娘をお許しください……といよいよ覚悟を決める。
その重いローブがまとわりつく身体を、誰かが掴んだ。
ほっそりとした腕がシズシラの身体へと回された。
え? と、硬くつむっていた目を開ける。
そして、シズシラは目を見開いた。
――人魚姫。
見事な白真珠色の尾びれの人魚が、シズシラのことを抱えて泳いでいる。
白真珠の人魚、すなわち人魚族が末姫、アウネーテ。
彼女はシズシラを片腕に抱き寄せて、ふよふよと器用に泳いでいるヨルをももう一方の腕に抱き、一気に泳ぐ速度を上げる。
あっという間の出来事だった。
気付けばシズシラは、ヨルと一緒に、沖の小さな無人島の浜辺へと引き上げられていた。
「ぇっほ、ごほっ! は、はー……、し、死ぬかと思った……」
「箒で空に逃げればよかったのに、無茶するからだよ」
「だって私、猫との相乗りでギリギリなんだもの!」
ヨルを乗せるだけで精いっぱいなのに、アウネーテまで乗せて上手に箒を操れる自信なんてない。
生理的なのかそうでないのか解らない涙を浮かべてそう訴えると、見事な長毛をびっちょびちょにしたヨルはぶるるっと身震いしてなんとか海水を振り払おうとする。
無駄な努力がかわいそうすぎて、異次元鞄から取り出したタオルでわしゃわしゃと彼を拭いてやりつつ、ようやくシズシラは海の方へと視線を向けた。
「末姫様……」
「ありがとう、魔女さん」
すっかり元の姿である下半身の尾びれを取り戻したアウネーテが、海からこちらを見つめていた。
彼女がどうして元の姿に戻れているのか解らないシズシラの戸惑いに気付いたのだろう。
アウネーテはいたずらっぽく笑って、ちらりとシズシラの手元で大人しくタオルを受け入れているヨルへと視線を向けた。
「その銀の猫さんが王子様の顔を傷付けた時、血が舞ったでしょう。あれが少しわたしの顔にもかかったの。そのおかげみたい」
「……!」
驚いて手元を見下ろせば、ヨルは涼しい顔で「褒めてくれていいよ」なんて言ってくれる。
なんだか悔しくて、けれどそれ以上に嬉しくて、シズシラは言葉を返す代わりにより丁寧にヨルのことを拭いてあげることにした。
ゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らし始める銀の猫の姿を、海の中からアウネーテが見つめる。
彼女の唇が、まことの愛、と小さく震えた。
「ねえ、猫の魔法使いさん。あなたは王子様からまことの愛が得られたら人間になれる魔法をかけてくれたわね」
「そうだね。僕が君にかけた魔法はそういうものだ」
「わたし、自信があったわ。だってわたし、命の恩人なんだもの。きっと王子様は気付いてくれるって、しゃべれなくたってわたしを愛してくれるって、そう思ってた」
でもね、と、少女はいつかと同じようで確かに異なる、切ない笑みを浮かべてみせた。
「まことの愛なんてものには、きっと命の恩人だからだなんて理由をつけてはいけないんだわ。見た目なんて関係ない、言葉なんて必要ない。そう思っていたけれど、でもきっと、それだけじゃだめなのね。取って付けた理由や見せかけだけでは、まことの愛は得られないの」
歌うように紡がれる言葉は美しく、そしてやはりどこかさびしげで、シズシラはぎゅっと胸が締め付けられるような気がした。
思わずヨルを胸に引き寄せると、彼は大人しくシズシラの腕に身を任せてくれる。
タオルで拭ってもなおまだ海水をたっぷり含んだ彼の身体は重い。
まるで、アウネーテの言葉のように。
「ありがとう、魔女さん、猫の魔法使いさん。わたしは海に帰るわ。お姉様達にたくさんたくさん謝って、それからもっともっとありがとうって言って、それから、ただいまって伝えなくちゃ」
それが、最後だった。
ぱしゃん、と繊細な波音とともに、アウネーテの肢体は波間へと消えた。
あっけない終わりでありながら、それでもどうしてだろう。
何故だかこんなにも胸が詰まる。
「シズシラ。僕らも宿に帰ろう」
「……そうね」
異次元鞄から箒を取り出した。
もうすぐ日が暮れる。
きっと今夜は、人魚の末姫の恋の終わりのために、星々がいつもよりも一層美しく輝いてくれることだろう。
彼女がそれを見ることは、二度とないだろうけれど。
「まことの愛って、なんなのかしら」
ぽつりとつぶやくシズシラに、さぁね、とヨルは一言返して、大きなあくびをするのだった。