【5】
かくして、それから十日経過した。
この十日もの間にすっかり身体はすっかりずたぼろになったシズシラだったが、なぜだか頭はすっきりと冴え、心は晴れやかだった。
もちろん不安だってたっぷり持ち合わせていたけれど、ただ隠れ里でいつ母に見放されるのかと震えていた過去の不安よりはよっぽど心地よいそれだった。
不安が心地よいなんておかしなものだと自分でも思う。
けれどやれるだけのことはやったのだと胸を張れるだけの自信が、シズシラの背をぴんと伸ばしていた。
「そろそろだね」
アトランティスが王子の想い人がいるという修道院を見下ろす丘で、ゆぅらりと長く立派なしっぽを揺らしながらヨルがつぶやく。
こくりとシズシラは頷いた。
そろそろ、いよいよだ。
今日も今日とて、王子はアウネーテを連れてあの修道院にやってくるだろう。
常にアウネーテをそばに置いておきながら、本命の前には彼女を連れては行かない王子は、今日も先日のようにアウネーテを修道院の前に放り出しておくに違いない。
狙うはそこだ。
「来たよ」
アトランティス王家の馬車が、修道院の前に停車する。
ヨルの短い言葉に再び頷いて、確かめるように異次元鞄をぽんと叩く。
これから自分はとても酷いことをしようとしている。
きっとアウネーテは受け入れてはくれない。
けれどシズシラは、リュー一族のよき魔女として、彼女に選択肢を示したい。
ごくりと息を飲むシズシラの視線の先で、王子とアウネーテが馬車から降り、そしてやはり王子だけが修道院の中へと入っていく。
そしてアウネーテは、ひとりぼっちの時間を過ごすために、シズシラ達がいる丘の公園へと登ってくる。
さあ、正念場だ。
「アウネーテ姫、先日ぶりにございます。お時間を頂戴できるでしょうか」
長い黒髪と赤い瞳を陽の下にさらし、足元に銀の猫をはべらせて、シズシラは驚きに固まっているアウネーテに問いかけた。
アウネーテのアクアマリンの瞳が戸惑いに揺れる。
どうして、とわななく彼女の愛らしい薄紅の唇から音がこぼれることはない。
そのことを改めて惜しく思いながら、シズシラはその場にひざまずく。
「改めて、此度の不始末について、アウネーテ姫にお詫びいたします。本当に申し訳ございませんでした。ヨルはあなたの望みを叶えただけだと申しますが、よき魔法使い、よき魔女、リュー一族として、私達はあなたに対し犯してはならない罪を犯しました」
「……っ! ……、…………っ!!」
違う、そんなことはないわ、これはわたしが望んだこと! とでも言いたいのだろう。
ぱくぱくとアウネーテの唇が開閉するが、やはり音はなく、アウネーテはもどかしげに喉を押さえる。
ひざまずいているシズシラの前に、せめてとばかりにしゃがみこみ、いいの、いいのよ、と音なく言葉を重ねてくれる人魚の末姫は、とても優しい。
こんなにも愛らしくて心優しい少女だからこそ、人魚族は怒り狂ったのだろう。
よくも我らの宝を惑わしたな、と。
そうだ。
ヨルはこの無垢な少女を惑わした。
そしてシズシラは、その惑わしのすべをヨルに授けた張本人。
犯してしまった罪は、贖わなければならない。
「……末姫様。このヨルは、あなたが人魚の姿に戻る方法は、王子様からまことの愛を得るより他はないと申し上げました。ですが、もうひとつだけ、他に方法がございます」
「……!」
思ってもみなかったのだろう。
そんな、とまた音なく唇を震わせるアウネーテの前に、シズシラは異次元鞄から、先日彼女に見せた巻き貝とともに、一振りの短剣を取り出した。
銀に輝く刃は美しい流線を描き、飾り気のない柄には五色の編み紐が結わえられている。
その編み紐を見たアウネーテの顔色が変わった。
まさか、と言わんばかりにシズシラの顔を覗き込んでくる彼女に、シズシラは努めて平静を装って続ける。
「アウネーテ姫の、五人の姉姫様の御髪を頂戴いたしました。この短剣で流させた王子様の血を浴びれば、あなたは……ッ!」
ぱん、と、乾いた音が響き渡る。
アウネーテの手が、シズシラのほおを思い切り叩いたのだ。
覚悟はしていたが、やはりその痛みは大きいものだった。
唇の端が切れたのだろう、鉄錆の味が口の中に広がっていく。
それでもなおとアウネーテを見遣ると、彼女は怒りにぶるぶると身体を打ち振るわせながら、シズシラのことをにらみ付けていた。
「……っ! ……っ、…………!!」
音こそないが、これでもかというくらいにありとあらゆる罵声を浴びせかけられていることは解る。
当然だ。
人魚族の娘にとって、美しい髪は誇りのひとつ。
その髪を姉達に差し出させ、あろうことかその髪を使った短剣で愛しい人を殺せとそそのかす魔女、シズシラこそ、アウネーテにとっては悪しき魔女以外の何者でもない。
――ごめんなさい。
言葉にできずにこうべを垂れる。
解っていたのだ。
アウネーテがこの提案を受け入れるはずがないことが。
けれど他に彼女の命を救うすべをシズシラは知らないし、知っていたとしてもシズシラにはその魔法を行使することができない。
もしもヨルが本来の姿であり、魔力を封じられていなかったら叶ったかもしれないが、今の彼は無力な猫だ。
どうしようもない。
そう、どうしようもない、落ちこぼれの魔女、シズシラ・リュー。
怒り冷めやらぬままに、またアウネーテが手を振り上げる。
再び襲い来るであろう衝撃に耐えるために唇を噛み締める。
だが、その衝撃がやってくることはついぞなかった。
「そこまでにしてもらうよ」
ヨルだ。それまで沈黙を保ち、シズシラとアウネーテのやりとりを静観していた彼が、二人の間に割り込んできて、アウネーテを見上げている。
その青と黄の双眸に宿る氷のような光に気圧され、びくりと身体を震わせるアウネーテを憐れむように見上げるヨルは、そのまま続ける。
「僕からも一応謝罪するから、これ以上シズシラに手を出さないでもらえるかな。これでもシズシラなりに頑張ったんだよ? 叶うはずもない初恋に浮かされて、周りにどんな影響を及ぼすかも考えずに陸に上がった愚かな姫君のために、シズシラはわざわざ土下座してまで姉姫達の髪を手に入れて、十日間ほとんど飲まず食わずでこの短剣を完成させたんだ。アウネーテ姫。全部君のためだ。君の恋のために、君を愛する人々がどれだけ……」
「ちょっとヨル! 余計なこと言わないの! 諸悪の根源は黙ってて!」
「シズシラの顔を叩かれて黙ってろって? それこそ冗談だよ」
「これは当然の罰なんだってば!」
十日前、シズシラは、海底の竜宮城に住まう末の妹のために気を揉む五人の人魚の姉姫達と繋ぎを取った。
アウネーテと縁深い、彼女を人間から人魚に戻すための魔力の媒介としては最高峰の逸品である姉姫達の髪を得るために。
末姫のためならばと特例で水面に顔を覗かせた彼女達に対し、シズシラはヨルの言う通り土下座した。
それはもう地面に額を擦り付けるとごろか地面にめり込む勢いで。
だがそんなことをせずともよかったのかもしれない。
五人の姉姫達は全員、驚くほどあっさりと、ご自慢の髪を自ら切り落としてくれた。
どうか妹を救ってほしいと。
そしてヨルのアドバイスがあってもなお下手くそな魔法をなんとか行使し、作り上げた魔法の短剣。
それがようやく完成したのが昨夜の夜遅くのことだ。
「私はリュー一族の魔女として、アウネーテ姫、あなたに選択肢を示さねばなりません。泡になるだけが未来ではないのです。人魚に戻る道もあるのだと、あなたは知っておかねばなりません」
その道がたとえ、愛しい人に血を流させねば叶わない道だとしても。
我ながらなんて酷い選択をさせようとしているのだろう。
それでも。
それでも、シズシラは、アウネーテに選択肢を示す。
王子に刃を向ければそれこそ外交問題だが、そこはそれ、人魚族の存在を知らないアトランティスにできることはないし、リュー一族が一枚噛んでいると知られても、それこそシズシラが責任を取るだけだ。
魔女の契約は命を賭けてこそのものである。
それがシズシラの罰であり贖いなのだから。
アウネーテは何も言わなかった。
声を奪われたままなのだから当然なのだが、たとえ彼女の喉に声が宿っていたとしても、彼女は何も言わなかったし言えなかったに違いない。
アクアマリンの瞳が揺れている。
その視線の先にあるのは、シズシラが持つ巻き貝と短剣だ。
「…………」
――わたし、は。
そう確かに聞こえた気がした。アウネーテの唇がわなないて、音なくなお言葉を紡ごうとする。