【4】
シズシラの触れた元人魚の姫君の手は、長く海に浸していたかのように冷たかった。
「末姫様。ご事情をお教え願えますか?」
「……」
短くも長い沈黙の後に、ようやくアウネーテは頷いてくれた。
震える手が紙に人魚語を綴っていく。
その内容を、アウネーテの邪魔をしないように目で追いかけ続けたシズシラは、自身の眉間に、徐々にしわが刻まれ、更に深くなっていくのを感じた。
「シズシラ? どうしたんだい?」
シズシラの顔がはっきり険しくなっていくのを間近で見上げているヨルがことりと小首を傾げる。
もふっと音がしそうだった。
かわいい。ヨルは猫になってもこんなにも美人だ。
だがしかし。
「ヨル……あなた、本当にとんでもないことしでかしてくれたのね……」
「ええ?」
「王子様が別の女性にご執心だなんて聞いてないわよ!?」
ほとんど悲鳴のように叫ぶ。
ヨルはぱちくりと二色のガラス玉のような双眸を瞬かせて、シズシラからアウネーテの元へと視線を移動させた。その視線は言葉よりもよほど雄弁だ。
――え、そういうこと?
無言で問いかけてくる銀の猫に、アウネーテは切なげに微笑んで頷きを返す。
そう、つまりはそういうことらしい。
アウネーテの綴ってくれた人魚語が綴るには、王子は修道院のとある女性こそ自らの命の恩人だと思い込み、彼女に恋焦がれているのだという。
不幸なことに、その女性はアウネーテにそっくりな美貌を誇り、だからこそ王子は勘違いしてしまったのだそうだ。
そんな馬鹿な話があるだろうか。
すぐとなりに本当の命の恩人、本当の意中の人がいるというのに、王子はさっぱりその事実に気付かずに別の女性と、だなんて。
その女性が修道院に所属しているならば、未婚を貫かねばならない彼女との恋は叶うはずがない。
それでもなおと王子は。
『もし、わたしが声を取り戻して、真実を王子様にお伝えしても、きっともう王子様はわたしに振り向いてはくれないわ。でもいいの。わたしはこのまま、この恋に殉じたい。王子様へのこの想いで泡と消えられるのなら、わたし、幸せよ』
「末姫様、そんな、そんなことはっ」
『いいの。猫の魔法使いさんに伝えてくれる? ありがとう、って。私の声はそのままお礼としてさしあげるわ』
「末姫様……」
切なげに、悲しげに、そして何よりもさびしげに微笑む人魚の姫君は、美しかった。
あまりにも美しくて、かける言葉が見つからなくなるくらいに。
やがて、丘の下の修道院から、若い青年の声が聞こえてきた。
ウンディーネ、と、女性の名前を呼び探す声だ。
その声を聞き拾ったアウネーテが嬉しそうに顔を輝かせ、一目散に走り出す。
向かうのは丘の下、アウネーテをウンディーネと呼ぶ王子のもとだ。
呆然とすることしかできないシズシラを置いて、アウネーテは行ってしまった。
何もできなかった。
言葉をかけることすらできなかった自分の無力に、こんなにも打ちひしがれている自分があまりにも情けなくて、ひぐっと喉の奥が鳴る。
そのままぼたぼたと泣き出すシズシラの涙の雨を受け入れながら、ヨルは冷ややかにつぶやいた。
「あの王子。拾った女に悲劇の水精の名前を付けるなんて、本当は全部解っているのかな。そこまで頭が回る男じゃなさそうだから、たまたまか。どっちにしろ悪趣味だね」
「で、も、そんな王子様を、末姫様は、好きなんでしょ」
「うん、彼女も悪趣味だ」
「そんな言い方ないじゃない……っ」
ぐすぐすとしゃくり上げるシズシラを、ヨルは困ったように見上げてきた。
いつぞやと同じようにぺろりと顔を舐めてくる彼のことがこんなにも腹立たしくて、でもやはり嫌いにはなれず、そんな自分がもっと嫌でたまらない。
落ちこぼれのシズシラは結局最初から何もできないのだ。
何も。
何一つ。
「っう、ううっ!」
「ああもう、泣かないでよ、シズシラ」
「だれの! せいだと! 思ってるの!」
「僕だけど? 君を泣かせていいのは僕だけだもの」
「うるさいいいいいい……!」
「自分で聞いたくせに」
やれやれ、困ったな。
そう猫のくせに肩をすくめるという器用な真似をしてみせたヨルは、とんっとシズシラの膝から飛び降りた。
そして彼はこちらに向き直り、じいとまっすぐ見上げてくる。
空の青と目玉焼きの黄身。
届かぬものと届くものを双眸に宿した、つい八日前までは稀代の魔法使いだった銀の猫は、落ちこぼれの魔女に問いかける。
「さて、どうする? 末姫を救う手立てがない訳じゃないことを、君は知っているだろう?」
「で、も、きっと末姫様はそれを望まないわ」
「それは彼女が決めることだよ。提案もせずに最初から彼女の選択を狭めてしまうことは、よき魔女として本当に正しいことなのかな?」
「……!」
シズシラ・リューは落ちこぼれの魔女である。
だがしかし、悪しき魔女ではない。
いつだって母、ライラシラ・リューのように、よき魔女であろうと努めてきた。
そんなシズシラが、今、恋に殉じようとする人魚の姫君のためにできること。
それはとても難しくて、シズシラ一人ではきっと叶わないことだ。
けれどシズシラは一人ではない。
目の前の、彼が。
ヨルが、いてくれる。
「――――ヨル」
「なんだい、シズシラ」
「手伝ってくれる?」
「もちろんだとも。それが僕の罰であり贖いなのだから。あ、勘違いしないでね、罰でも贖いでなくても僕はちゃーんと君を……」
「行くわよ、ヨル!」
「……ここは最後まで言わせてほしかったなー……」
何やらヨルがぼやいているが、もうシズシラの耳には届いていなかった。
すさまじい勢いで、これまで与えられてきた膨大な知識、連綿と受け継がれてきたリュー一族の叡智が、まるでパズルのようにシズシラの頭の中で組み立てられていく。
「待ってなさい、竜宮城!」
「君の望むままに、シズシラ」