【ヨル視点・本編挿話】終わらない夜を数えて★★
本編である第1章と第2章の間に挟まる形のお話。
後書きにお知らせがあります。
寄せては返すさざなみ。
潮騒は穏やかに、けれど絶えることなくこの身の鼓膜を震わせる。
たとえ無力な猫の姿に変えられたとしても、今宵も夜は変わらずやってくる。
深淵のようなビロードを敷いた空で、月はしらじらと輝き、星がきらきらと瞬く。
「……まあ、及第点かな」
貿易と観光業で栄える国、アトランティス。
昼も夜もにぎわうこの国においてですら、既にひともけものもとうに寝静まり、ただ波音ばかりがやかましい深夜。
――うるさいなぁ。
誰にともなくヨルはぽつりと呟いた。
ゆらりとしっぽを揺らせば、それに歓声を上げるようにより一層月も星々も騒ぎ立てる。
自身が“そういう”生まれであると解ってはいても、それを嬉しいと思ったことなど一度たりともない。
ただシズシラが、「ヨルと一緒だと夜道がいつもより明るくなるわ」と不思議そうに、それでいてまるで自分のことのように誇らしげに笑ってくれるから、それだけがたった一つの救いだった。
そのシズシラと言えば、このアトランティスにおける行動の拠点とした宿にて、本日解決したばかりの『人魚姫』にまつわる案件についての報告書をしたためている。
ヨルが“まっとうなる善意の魔法”を行使して人間の姿に変えた人魚の末姫の顛末は知っての通りだ。
その経緯の詳細を、リュー一族の長老衆議会へと届けるために、彼女は今も宿の机と向き合っている。
「別に急がなくてもいいでしょ」というヨルの言葉を、シズシラは「急ぐに決まっているでしょう」と、もはや怒りも呆れも通り越した、疲れ切った表情で一刀両断にしてくれた。
「こんな深夜まで頑張るなんて、シズシラは真面目なんだよなぁ」
そういうところも好ましく思っているからこそ、ヨルもそれ以上は何も言わず、先に眠ることもせずに、こうして夜の散歩に繰り出したという訳だ。
本音を言えば、シズシラとゆっくり浜辺を散歩したかったところなのだけれど、それを今の彼女に求めるのは酷だろう。
もろもろの原因が自分にあることは解っているが、それでもヨルは、シズシラに負担を強いたい訳ではない。
本当に、本当に、そう思っているのだけれど、別に気付いてほしいと思っているわけでもないので、結局何も変わらない。
そう、何一つ。
それでいい。それが、いい。
「うるさいなぁ」
ああ、月のささやきが、星のまたたきが、わずらわしくて仕方ない。
波音よりもよっぽどそれらの方がやかましくて、ヨルは海に突き出すように造られた波止場で、くるりと丸くなる。
耳をふさごうにも、この猫の姿の前足ではそれは叶わない。
こうなることが解っていて自分のことを猫の姿に変えたならば、なるほど、血赤珊瑚の長たるライラシラ・リューは極めて優秀な裁判官だ。
――うるさい、うるさい、うるさい。
――うるさくてうるさくて、気が狂ってしまいそうだ。
星々の加護を宿す、青と黄色の目。
昼も夜も、ヨルを星々のそばに縛り付ける瞳だ。
あいしてる、あいしてる、わたしたちのいとしごよ。
そう星々がささやくのだ。
手を伸ばす代わりに輝きを一層増して喚き立てる忌々しい奴らのことが、ずっと嫌いだった。
ずっとずっと、夜になるたびに、このざわめきの中に放り込まれてきた人生だ。
でも。
――――る、ら、らら……。
――――らら、るぅる……。
耳元でささやくような歌声が聞こえる。
夜のとばりを紡いで作られたドレスをまとう、健やかな眠りを司る夢魔の歌声。
優しく甘い、とっておき子守歌だ。
その歌声をこの耳に、心に運んでくれるのは、首に巻いたスカーフを留める装飾品。
猫の姿に身をやつしてもなおこの身に着けることを唯一許された、人間の時には指輪として身に着けていた魔法具から聞こえてくるものだ。
手に入れた当初は、その輪の大きさが大きすぎるためにペンダントとして首から提げていたし、成長してからは本来の用途と等しく指輪として身に着けていたのもの。
この魔法具がずっと自分の夜に寄り添い続けてきてくれたことを、ヨルは誰よりもよく知っていた。
――――ら、らぁらら、るる……。
――――るるる、ら、る……。
だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。
幼い声でそう繰り返されるなぐさめはただ優しく、何よりも甘い。
それだけでヨルはうっとりとその響きに聞き惚れて、星々のささやきから逃れることができる。
大嫌いな夜も、この魔法具があったからこそ乗り越えられてきたし、きっとこれからもそうなのだろう。
ヨルにとって本当に数少ない宝物の一つ。
その代表格の一つである魔法具――本来は指輪であり、今はスカーフ留めとなっているそれは、シズシラが、かつてヨルにくれたものだった。
今よりももっと幼かった頃、そう、それこそ、シズシラと出会ったばかりだったころ。
ヨルは“今”よりももっと夜が大嫌いだった。眠るたびに不安だった。
次に目覚めたとき、“今”のすべてが夢だったら。
そう考えるだけで体が震えた。芯から心が冷えていくようだった。
リュー一族の隠れ里で暮らしながら、何度眠れない夜を数えたことだろう。
夜になるたび、夢を見るたび、何もかもが不安に飲み込まれていくのを感じていた。
何度シズシラのベッドに忍び込んだのか、もう覚えてはいない。
シズシラだけだった。
彼女を、しがみつくように抱き締めて、そうやってやっと眠って、そのぬくもりに安堵して、目覚めたとき彼女の寝顔を見て、やっと朝を迎えられたことを自覚できた。
シズシラこそが終わらない夜の果ての朝日だった。
シズシラは当初は「もう!」とぷりぷりと怒っていたけれど、こちらがそれでもなお一緒に寝たがると、「仕方ないなぁ」とベッドに招き入れてくれた。
眠れなくて震える自分に、彼女はいつもつたない子守歌を歌ってくれた。
「お母様が教えてくれたお歌なの」と誇らしげに胸を張る彼女がかわいくて、少しだけだけれどどうしようもなく憎たらしかった。
彼女の子守歌をいつもいつも、いつまでも聞いていたいと思いながら、忍び寄る睡魔に敗北して眠った。
その眠りの、なんて甘やかだったことだろう!
朝、ぞっとするような気持ちで目覚めるたび、一番に目に入るのがすやすやと眠るシズシラの寝顔であることに、何度、どれだけ安堵したことか。
――――そんなある日のことだった。
リュー一族の隠れ里に引き取られてから、初めての春。
八歳の誕生日を迎えるころの話だ。
「あの、あのね、ヨル。ちょっといい?」
近頃やけにヨルのことを避けていたシズシラが、随分と緊張した様子でやってきたのは、八歳の誕生日当日のことだった。
誕生日。
それはヨルが世界で一番大嫌いな日だ。
一番、怖くてならない日だ。
そんな日にシズシラは、ヨルに青いリボンのかけられた小箱を差し出してきた。
「これ、受け取ってくれる?」
不安でたまらないとその顔にありありと書かれていた。
誕生日プレゼントのつもりかな、とは、すぐに見当がついた。
ありがとう、嬉しい。
そう言って笑顔で受け取ることなんてたやすいはずだった。
けれど、シズシラがそのころ、一緒に寝てくれなかったせいで、すっかり寝不足だった自分は。
「……いらない」
「…………え」
「いらない。ぜんぜん、嬉しくない」
「きゃっ!?」
パンッと、シズシラの差し出してきた小箱を、手で払いのけてしまった。
思い返すだに、なんて馬鹿な真似をしたものなのかと自分のことがますます嫌いになる。
けれど当時の自分には、心底情けないことに今以上にちっとも余裕がなくて、シズシラが呆然としながら地面に転がった小箱を見つめていることに苛立ちばかりが募った。
その熟れたグミの実のように赤い瞳に、見る見るうちに涙がたまっていくことに、ほの暗いよろこびすら覚えて、思わず笑ってしまった。
繰り返すが、思い返すだに、自分のことがますます嫌いになる。
あの時シズシラは、怒ってよかったのだ。
自分のことを「馬鹿!」とか、「大嫌い!」とか、そう、罵ってよかったのだ。
それなのに、彼女は。
「……ごめんね、ヨル」
今にも泣き出しそうな、ぐしゃぐしゃな笑顔で、彼女はそう言って、そのまま走り去ってしまった。
――あの瞬間の後悔は、今でもまだこの胸にある。
シズシラと出会って以来の、最大の後悔だった。
泣かせてやりたいと、直前までそう思っていたはずなのに、いざシズシラのあの表情を見てしまったら、途方もないほどの罪悪感と、それ以上に圧倒的な恐怖を覚えた。
シズシラに、嫌われた。そう思ったらもう駄目だった。
シズシラ。シズシラ。この終わらない深い闇に満ちた夜の中の、唯一の光。
たったひとつの月も、あまたの星々も、きみの前では何の意味もなさない。
きみさえいれば、この終わらない夜の終わりを目指して歩いていける。
そう思っていた、のに。
それなのに。
自分が犯した罪の重さに震えながら、自分が跳ねのけた小箱を拾い上げた。
青いリボンは上等な絹のそれで、驚くほど簡単にほどけた。
そして蓋を開けたその中に入っていたのは。
「……なに、これ」
それは、幼い子供の手には余るような、太い鋼の輪だった。
ちょうど人差し指と親指で輪を作った程度の大きさだけれど、指輪にするには随分と大きく、腕輪にするにはあまりにも小さい。
鏡のように光を反射する輝きが縁どるのは、不器用に刻み込まれた四つ葉のクローバー。
当時、まだ何一つ魔法の知識を得ていないどころか、それ以前の一般的な知識すら知って吐いても使いこなしてはいないという自覚があったヨルですら、その四つ葉が意味するところは知っていた。
だって、他ならぬシズシラが、教えてくれたのだから。
――四つ葉のクローバーはね、滅多に見つけられないの。
――三枚のはっぱが意味するのは、それぞれ『信』、『望』、『愛』。
――それでね、肝心の四枚目が意味するのは……。
懸命にシロツメグサ畑をかき分けながら、ただその横に座っているばかりでほとんど手伝いもしない自分に、シズシラが語ってくれたこと。
あの横顔が、あの言葉が、ありありと脳裏に、耳元によみがえる。
お望みの四葉がどうしても見つけられなくて落ち込む彼女をなぐさめながら、たかが一枚葉が増えたくらいで、と、どこかで馬鹿にしていた自分がいたことも、思い出した。
あの時見つけられなかった四つ葉が、今、ここに、美しい輝きによって刻み込まれている。
不思議と目が離せず、ただどうすることもできずにそれが収まっているその箱を見下ろしていると、不意に「よーるっ!」と背後から声をかけられた。
いつもであればこうもやすやすと他人に背後を奪われる真似など許さないのに、そのときばかりは動けなくて、あろうことか手に持っていた箱を奪われてしまった。
あ、と思う間もなく、背後に忍び寄ってきていた少女……リュー一族の生まれの、ヨルとシズシラよりたしか二歳ほど年上の少女は、にっこりと笑いかけてきた。
女としての媚びがたっぷり込められた、気持ち悪い笑い方だった。
「ヨル、誕生日おめでと! なぁに、これ?」
「……か、えせ。それは、シズシラが……」
「ええ? あの落ちこぼれが? ああ、道理でこんな弱い召還陣が刻まれてるのね」
「…………しょうかん、じん?」
「ふふ、そうよね、ヨルには解らないわよね。教えてあげるわ。えーっと、この金属……は、たぶんアルトハイデルベルク産ね。ほら、鉄鋼業が盛んな国、あそこよあそこ。落ちこぼれでも扱える金属なんてそうそうないもの。だからあそこくらいだわ。それに夢魔を召喚する魔法陣を刻み付けて、この形に加工したみたい。ま、こんなんじゃ貧弱な下級の夢魔しか呼べないけどね」
得意げに話す少女の言葉に、口を挟めなかった。
アルトハイデルベルクの名は知っている。シズシラと、一緒に習ったばかりの国だ。
鉄鋼業と建築業でその名を周辺諸国に知られる大国であり、鉄鋼業、の名の通り、内包する鉱山からはさまざまな良質の鉱石が産出し、リュー一族も時折取り寄せていると教えられた。
けれど魔法具の素材としても良質であるからこそ、その扱いには厳しい掟が存在する。
まだ幼い、しかも最近“落ちこぼれ”と周囲にあざけられるようになりつつあるシズシラがそうやすやすと手に入れられるような素材ではない。
それなのに、目の前の少女は、その金属で作られた大ぶりな輪が、シズシラの魔法によって加工されたものであるという。
あ、と、その時、ヨルは遅ればせながらにして思い出した。
つい先程、“誕生日プレゼント”を差し出してきた、シズシラの両手。
あの小さな両手が、包帯に包まれていたことを。
その包帯から覗く柔い肌が、あちこち火傷だらけだったことを。
ようやく、その事実を思い出す。
どうして気付けなかったのだろう。気付こうとしなかったのだろう。
シズシラは、“ヨルのため”に、最近自分のことを避けていたのだ。
あの優しいシズシラが、理由もなく自分のことを避けるようになるなんて、そんなことはあり得ないのに。
そう呆然と立ちすくむばかりの自分に、目の前の年上の少女はにんまりと笑って、その手の箱をぽいっと投げ捨てた。
目を見開く自分の腕に、べったりとしなだれかかってきた少女は、ふふふと笑って、蛇のような赤い瞳を細めた。
「あたしがもーっと素敵な……そう、耳飾りを作ったげる! あの落ちこぼれはよっわい召喚陣しか刻めなかったみたいだけど、あたしだったらちゃんとした効果のある催眠魔法を封じた、ヨルにもっとよく似合うやつを……っ!?」
それ以上は、聞いていられなかった。
気付けば少女のことを突き飛ばし、放り出された箱からこぼれた輪の元へと駆けていた。
拾い上げた金属の輪はひんやりと心地よい重みがあった。
無事にこの手に収まったことに安堵していると、「なにすんのよ!」と少女の怒声が襲い掛かってくる。
「あたしが作ったげるって言ってんのに! あんな落ちこぼれなんかより、あたしの方があんたにふさわ……」
「黙れ」
「っ!」
「シズシラをそれ以上馬鹿にしてみろ。その首、僕がこの手で掻き切ってやる」
ぎゅうと耳飾りを握り締め、隠し持っていた護身用のナイフを構える。
少女はしばし顔を青ざめさせてあぐあぐと口を開閉させていたけれど、やがてその顔色を青から真っ赤へと変えた。
「な、によ! 思い知りなさい! “ケイト・リューの名の下に! 風よ! 風よ! 荒ぶる虎のごとき風よ! その牙を、その爪を、ケイト・リューのために振るえ!”」
少女――ケイト・リューという名前であったらしい少女の周りに、彼女と同じ程度の大きさの風で創られた虎が現れる。
風の虎はぎらりとその牙と爪を光らせて地を蹴った。
ケイト・リューが勝ち誇った笑みを浮かべる。
風の虎はそのままヨルの幼い身体を引き裂くかに思われた。
だが。
――――る、ら、らら……。
――――らら、るぅる……。
甘やかな、音が。いいや、声、が。
かすかな、本当にかすかでわずかな、正しく子守歌と呼ぶべき、歌が。
確かに、空気を震わせた。
その音を確かに聞き拾ったヨルが目を見開くと同時に、目の前に迫り来ていた風の虎が、突如ごろんと腹を見せた。
――――ら、らぁらら、るる……。
――――るるる、ら、る……。
気付けばぎゅうと握り締めていた金属の輪から、明らかに大きさが合っていない夜のビロードのドレスをひきずった幼い少女の幻影が、しゅるしゅるとたおやかに現れる。
どこかシズシラに似た面影を持った少女……夢魔と呼ばれるであろうひとならざるモノは柔らかく微笑み、ささやくように子守歌を歌いながら、その幼い両手を、風の虎へと伸ばす。
風の虎がごろごろと喉を鳴らし始め、撫でてくれとばかりにその瞳をヨルへ……いいや、正確にはヨルの目の前にたたずむ夢魔へと向ける。
いかにも甘えたそのまなざしに、なんだか目の前の夢魔を通してシズシラを奪われてしまうような気になって、思わずその手を背の後ろに隠すと、風の虎はむっとしたように目を細めた。
だが、彼は無理強いをする気はなかったらしく、そのままふわりと掻き消えてしまった。
それを見届けて、少女の姿をした夢魔もまた、ドレスの裾をひるがえして宙に溶ける。
残されたのは金属の輪を握り締めるヨルと、信じられないとばかりにこちらを見つめてくるケイト・リューだけだ。
特にそういうつもりもなく、ただ静かになんとなくケイト・リューのことを見つめ返すと、彼女はヒッと息を飲み、踵を返して駆け去ってしまった。
それを見送って、ようやくヨルは改めて手の中の輪を見下ろした。
ぴかぴかと誇らしげに輝く鏡のような金属の、四つ葉のクローバーの中心に、今にも泣き出しそうな自分の顔が歪んで写り込んでいる。
けれど、本当に泣いていいのは、泣きたいのは……きっと今、ひとりぼっちで泣いているのは、ヨルではないのだ。
そう思ったら居ても立ってもいられなくなって、ヨルは走った。
向かう先は決まっていた。
いつも落ち込んだ時にシズシラが閉じこもる、このリュー一族の隠れ里で最も古い塔の書庫だ。
息を切らしてようやくそこへと辿り着き、そっと扉を押し開ける。
鼻孔をくすぐる古い書物の匂いで息を整えながら、足音を殺して奥へと急ぐ。
そして、見つけた。
「――――シズシラ」
「っえ、あ、ヨル……?」
書棚の陰で座り込んで、ぐすぐすとしゃくり上げていたらしいシズシラの小さな身体が跳ねた。
恐る恐る振り返ってくる彼女に、どんな顔をしたらいいのか解らなくなる。
ただそばに行きたくて、その涙をぬぐいたくて、彼女の前にひざまずいてその頬に片手を寄せると、彼女は慌てたように懸命に、その顔を袖でぬぐい始めた。
「ご、ごめんね、なんでもないの。ヨル、どうしたの? お母様がお呼びなのかしら?」
「違う」
「え」
「これ」
「あ……」
努めて気丈にふるまおうとするシズシラの姿にぐうと胸が詰まるようだった。
彼女の涙で塗れた片手が熱くて仕方なくて火傷してしまいそうで、痛くて痛くて仕方なくて、けれどそんなそぶりを見せたら余計に彼女は困ってしまうだろうからとなんでもないふりを選んで、握り締めていたもう一方の手を彼女の前で開く。
すっかり自分のぬくもりで熱くなってしまった金属の輪の姿に、シズシラが赤い瞳を見開いた。
そんな彼女の手に、それを握らせる。
包帯まみれ、火傷まみれの、ぼろぼろの彼女の手に。
自身の手のひらに置かれた重みに、シズシラは傷ついた顔をした。
「わ、わざわざ返しに来てくれたのね。ありがとう、ごめ……」
「違う。だから、違うんだ」
「え、ええ……?」
戸惑いもあらわにこちらを見つめてくるシズシラに、ヨルは笑いかける。
気を抜いたら自分の方こそ泣き出してしまいそうだったから、それをこらえて懸命に笑ってみせた。
「ありがとう。すごく、嬉しい。この…………ごめん、なにこれ?」
「!!!!」
言ってから、失言だったと気付いた。
シズシラは衝撃を受けた顔で固まった。
あ、しまった。
そう口を押さえれば、ふるふると震えた彼女は、むぅっと濡れた頬を膨らませてから口を開いた。
「ゆ、指輪! 指輪だもん! そ、そりゃあ、ちょっと大きくなっちゃったけど、でも、大は小を兼ねるって東の国の言い伝えにあるんだから! ず、ずっと、ずぅっと使えるように、このくらいの大きさのほうがいいんだから!」
だから、とまたなみなみと瞳に涙をたたえるシズシラに、思わず笑いたくなってしまった。
ずっと、ずぅっと、使えるように?
なんて途方もない望みだ。
何も知らないくせに。何一つ知らないくせに、そのくせ彼女はこんなにも自分を喜ばせて苦しめる。
「そっか、指輪なんだ。だったら、シズシラに、僕の手に嵌めてほしいんだ。……だめ、かな?」
「……!」
熟れたグミの実のように赤い瞳が大きく瞠られた。
その途端に、ぼろりとまた大粒の涙が零れ落ちる。
その涙をそっとぬぐってやれば、ますます彼女の涙は止まることを忘れたようにとめどなくあふれる。
――ああ、きれいだ。
そんな風に場違いにも感動してしまった自分が、確かにそこにいた。
「でも、でもね、わた、私、私ね、いっぱい材料無駄にしちゃって、本当なら安眠魔法を込めたかったのに、こんな弱い召喚陣を刻むことしかできなくて、私の魔法じゃなくて、夢魔の力を借りることしかできなくて、だから、あの……」
「十分だよ。十分すぎるほど、これは、僕を守ってくれる。もう実証済みなんだ」
「…………ふふ、やだな。なにそれ」
こちらの台詞を、冗談だと思ったのだろう。
シズシラはこらえきらないとばかりに小さく笑った。
「……ほんとはね、ちゃんと、四つ葉のクローバーを見つけて、それもヨルにあげたかったの。でも、見つけられなくて」
「ああ、四枚目の葉は、幸運を意味するってやつだろう?」
「うん。ヨルに、あげたかったの」
どうしても、と悔やむようにシズシラは唇をかんだ。
なるほど、最近一緒にいられなかったのは、この金属の輪、もとい指輪を作ることに気を取られていたからというばかりではなく、シロツメグサ畑に飛び込んでいたから、という理由もあったのか。
別にいいのに、と思って、それをそのまま口にしそうになって、けれど幸いなことに黙ることに成功した。
――三枚のはっぱが意味するのは、それぞれ『信』、『望』、『愛』。
――それでね、肝心の四枚目が意味するのは、『幸運』。
――四つ葉のクローバーを見つけたら、幸せになれるのよ。
そう誇らしげに語ってくれたシズシラの笑顔が、今の彼女に重なった。
「別に四つ葉なんていらないよ」
「え」
「だって、とっくの昔に、僕は幸運を手にしているんだから」
「そ、そうなの?」
「うん。きっと……いいや、絶対に、この指輪が、その証だ」
シズシラに出会ったときに、きっと、一生分の幸運を得た。
だからいい。これ以上は求めるべくもない。
だってこんなにも自分は今、幸せの中にいるのだから。
たとえ、未来に何が待ち受けているのだとしても。
自分が笑ったことに、シズシラも安堵してくれたのだろう。
おずおずと笑い返してくれるその笑顔に、これまた自分も安堵した。
「こんなへたくそな指輪なのに、幸運だなんて」
へんなの、と笑う少女は、こちらの言葉を下手ななぐさめだとでも思ったのだろう。
なぐさめでも冗談でも嘘でも誇張でもなく十割本気だったのにと思うと、少々どころではなく面白くない。
だからだろうか。
いやだからでもなんでもなく、忘れてはならないことなので、ヨルはちゃんと言っておくことにした。
「でもね、シズシラ」
「で、でも?」
「これからもたまには一緒に寝たいな。この指輪はよく効きそうだけど、シズシラの子守歌ほどの効果はなさそうだもの」
「…………それは魔女として喜ぶべきなのかしら」
「もちろん」
訳知り顔で頷きを返してみせると、シズシラはようやく、子供の手にはあまる指輪を、そっとヨルの左手の小指に嵌めてくれた。
「……ぶかぶかだ」
「ご、ごめんなさい。でもね、左手の小指の指輪は、願いを叶えてくれるのよ?」
「ふぅん、そうなんだ」
「でも、確かに大きすぎるよね。なら……」
しょんぼりと肩を落としながら、シズシラはヨルの手から再び指輪をはずし、今度は右手の親指に嵌めてくれる。
「右手の親指の指輪は、困難を乗り越える力をくれるの!」
「…………やっぱりぶかぶかなんだけど?」
「…………………」
「ごめん、意地悪を言ったね。大丈夫、当分はペンダントとして使わせてもらうよ」
「で、でも」
「僕ならどんな形でも似合うよ。だってシズシラが僕のために作ってくれたんだもの」
わざわざ鏡を見なくたって、この“指輪”がとてもよく自分に似合っていることが、誰よりもよく理解できた。
わざとらしく胸を張ってみせれば、きょとんとシズシラは瞳を瞬かせる。
その赤い瞳に映る自分の誇らしげな姿に泣きたくなりながら、ヨルは笑った。
「ありがとう、シズシラ」
「う、ん。あの、お誕生日、おめでとう、ヨル」
――――そう言ってくれたときのシズシラの笑顔は、今もなおまぶたの裏にしかと焼き付いている。
あれから十年。
毎年シズシラは誕生日プレゼントを用意してくれた。
どれ一つとして誰にも譲れない、ヨルの宝物たち。
憂鬱しか招かない自分の誕生日にもたらされる、たったひとつの光だった。
今宵の月も星もいつもよりも何故だか余計にやかましいような気がするけれど、そのやかましさをかき消すように子守歌が何もかもをさらっていく。
潮騒の音も相まって、このまま眠ってしまいそうだ。
ああ、それもいいだろう。
どうせ夜は明日もやってくる。その次も。さらにその次も。夜は決して終わらない。
あと何度この夜を数えられるかな、と、ゆめとうつつと狭間で息を吐き出した、そのときだ。
「ヨル? どこ?」
確かに聞こえてきたその声音に、ヨルはぱちりと目を開けた。
まんまるに丸まっていた身体をほどいて、首をもたげてそちらを見遣れば、シズシラが駆け寄ってくるところだった。
「こんなところで寝てちゃだめじゃない。心配したんだから」
「……シズシラこそ、ランプも持たずに一人で夜道をうろつくものじゃないよ」
「大丈夫よ。リュー一族は夜目に強いって知ってるでしょ?」
「そういう意味だけじゃないんだけどなぁ」
そう、そういう意味だけでは決してないのだが、シズシラにはちっとも伝わらなかったらしい。
彼女はよいしょっとヨルのことを抱き上げて、踵を返して元きた道を歩み始める。
図らずも『二人で夜の散歩』が達成できてしまっていることに密かに驚いているヨルには気付かず、彼女は気合いを入れるようにぎゅうとこちらを抱き締めてきた。
「人魚の末姫様についての案件はやっと報告書を送れたから、明日は次よ。アルトハイデルベルク。まさか実際に足を運ぶ日が来るとは思わなかったわ……」
「……きみがくれた僕の指輪の故郷だね」
「あ、覚えててくれたの?」
「当たり前だよ」
忘れようにも忘れられない。
忘れていると思われていたのならば心外極まりないので、彼女の腕に抱かれたままついにらみ上げると、シズシラは嬉しそうに笑い返してきた。
その笑顔に毒気を抜かれて、シズシラのぬくもりと、彼女が足を運ぶ振動が心地よくて、ヨルは自然と目を閉じた。
シズシラがくれた指輪は、幼い頃はペンダントトップとして使い、成長してからはシズシラの望む通りに右手の親指に嵌めていた。
十代後半を迎えてようやく親指にぴったりになったのだから、よっぽどシズシラが作ってくれた指輪が大きかったことが窺い知れるといったものだろう。
そうしてずっと右手の親指にあった指輪を、この猫の身に堕とされるきっかけとなったアレソレにまつわる『小旅行』のときには、左手の親指に自ら嵌めた。
その意味は、『信念を貫く』。
「いつか、左手の薬指に嵌めたかったんだけどな」
「え?」
「なんでもないよ」
夜が今宵もこの身にやってきて、明日も明後日もその次も繰り返す。夜はこれからも終わらない。
けれどいつか終わるその日まで、シズシラのそばにいたいと願うことを、月にも星にも願えない自分は、どこへ行けばいいのだろう。
ただシズシラのとなりにいられれば、それだけでいいのに。
「シズシラ」
「なぁに?」
「子守歌。歌ってよ」
「……仕方ないなぁ」
困ったように笑ったシズシラは、やがて気恥ずかしそうにしながらも、小さく旋律をその舌の上に乗せてくれた。
寄せては返すさざなみすらも遠く、ヨルはただシズシラにすべてをあずけて、今宵も子守歌に耳を澄ませるのだった。




