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【3】

くるりと踵を返したかと思うとそのまま一目散にその場から駆け出したアウネーテの後を、シズシラもまた慌てて追いかける。


唐突に始まった追いかけっこだ。

私、走るの得意じゃないのに……! と早くも息が切れ始めたシズシラと、その足元を軽い足取りで駆けるヨル。


そうだ、シズシラにはヨルがいる。

彼ならば。


「ヨル、お願い! 末姫様を捕まえて!」

「確かに僕なら追いつけるけど、その必要はないと思うよ。慣れない足で走ったらどうせ今に……ほら、転んだ。すごいな、顔からいったね」

「す、末姫様――――!?」


ヨルの言葉の通り、びたーん! と顔から地面に突っ込んだアウネーテの元に慌てて駆け寄ったシズシラは、彼女をそっと助け起こす。


アウネーテは、恥ずかしさと情けなさがごちゃまぜになった表情で涙目になっていた。

逃げた相手に助け起こされるのを甘んじて受け入れているところから察するに、彼女は自分の置かれている立場を思いの外正確に理解しているらしい。


そう、シズシラは、リュー一族は、決して人魚族の末姫の敵ではないのだ。


「大丈夫ですか? あ、お顔に傷が! 大変! ちょっとお待ちくださいね」


その場に揃ってうずくまりながら、シズシラは異次元鞄からリュー一族印の傷薬を取り出した。

国によっては黄金と等価に取り引きされるその薬は、もちろんシズシラの手製の品である。

魔法はほとんど使えなくても、薬学についてはシズシラは他の魔女や魔法使い達に引けを取らない自信があった。


「失礼いたします。……はい、これで明日には綺麗さっぱり傷が消えておりますよ」

「…………」


シズシラがアウネーテの額にこしらえられた擦り傷に丁寧に傷薬を塗ると、痛みが和らいだのか、そして警戒心も解けてきたのか、アウネーテの表情がやわらいだ。

ありがとう、と、その淡い薄紅の唇が音を伴わずに動く。


ああ、声が、と。

シズシラはなんだか悲しくなった。


人魚族が末姫、アウネーテ。

その声は人魚族の誰もが誇りに思うほど美しく、歌声の素晴らしさはリュー一族の末端であるシズシラの耳にすら届くほどだった。

いつか聞いてみたいものだと願った声は、今は彼女の喉にはない。

シズシラとアウネーテのそばでのんびりとあくびをしているヨルが、奪ってしまった。


けれど奪ってしまっただけならば、シズシラは、そしてヨルは、アウネーテに声を返してあげることができる。


「末姫様、少しお話ししませんか? あなたのこれからについてを」

「……」


努めて穏やかにそう話しかけると、アウネーテもまた思うところがあるのか、おずおずと頷きを返してくれた。


そしてシズシラは、ヨルを抱き上げ、アウネーテとともに先程まで修道院を見下ろしていた丘の公園のベンチへと向かった。

どちらからともなくとなりに座り合えば、やはりどちらからともなくほう、と小さな溜息がこぼれる。


「ええっと、末姫様。突然のことでさぞかし驚かれていることかと存じます。改めまして、このたびはこのヨルが、とんでもない真似をしでかしてしまい申し訳ございませんでした……! 罪に問われるべきはヨルばかりではなく、彼に魔法を教授した私にもございます。どうかその罪を償わせてくださいませ」

「だから末姫が自分で望んだんだってば。ねえそうでしょう、末姫?」

「ヨルは黙ってて。話が余計にこじれるでしょう」

「シズシラだけじゃ話が進まないじゃないか」

「そ、そんなこと……」

「あるよ。っていうか、大人しく会話から始めようとしている時点でもうだめだよ。問題を解決したいなら、さっさと末姫に声を返せばいいだけじゃないか」

「人間には言葉があるの! 対話を忘れたらそこで試合は終了よ!」

「今の僕は猫だし、末姫は今でこそ人間だけど元を正せば人魚だし、そもそも今の彼女は話せないよ?」

「……本当に、ああ言えばこう言うわね……!」


ぎりりと歯噛みをしても、ヨルはつんとすまし顔だ。

猫の顔なのにそういう顔をしているのがなぜだかよく解る。

ヨルにこちらを馬鹿にするつもりはないのだろうが、それにしてもなんだかこうムカッと来る顔だ

。猫なのに。こんなにもかわいくて美人な猫なのに。

大体、アウネーテが話せないのはヨルのせいなのに。


ぐぬぬぬぬぬぬぬと唸るばかりになるシズシラは、そこでふと、自分に向けられている視線に気が付いた。

アウネーテだ。

彼女は、声こそ発せないものの、シズシラとヨルのやりとりをとても面白そうに見つめながら、楽しそうに笑っている。


その笑い声が聞こえないのがつくづく惜しまれる、見れば見るほど美しく愛らしい少女だ。


長く伸ばされた波打つ金の髪は海に降り注ぐ陽の光といったところか。

対するは海の碧を映した、その名の通りのアクアマリンの瞳。

ぱっちりと大きな瞳はまさしく透明な海のすべてをそのままそこに閉じ込めてしまったかのようだ。


これは人魚族が総出でかわいがる訳よね、と、しみじみと感じ入らずにはいられない。

改めて、ごほん、と咳払いをして、膝の上にいたヨルをアウネーテとは反対側のとなりに避けてから、シズシラは異次元鞄からペンと紙を取り出した。


「筆談をしましょう。大丈夫です、私、人魚語解ります」

「!」


シズシラのその言葉に、アクアマリンの瞳がこぼれ落ちてしまうのではないかと思われるくらいに一層大きくなる。

アウネーテの白い手が恐る恐るペンを受け取り、そのまま震える手が紙に何かを綴る。

公用語を逆さまにしたものを何重にも重ねたような、はたまた細かく小さな絵をレースのように紡いだかのような、繊細で不可解な紋様だ。


アウネーテがじいとこちらを見つめてくる。

シズシラは自信を持って笑い返した。


「はい、解りますよ、末姫様」


紙の上に描かれているのは、人魚族にとっての公用語である人魚語だ。

『本当に解るの?』と、記された文字に対して頷いてみせると、ぱっとアウネーテのかんばせが輝き、嬉しそうに彼女は続けて人魚語を紙に綴る。


『嬉しい。わたし、人間語は書けないから』

「ほとんどの人魚のお方はそうだと思いますよ。我々リュー一族とて、人魚語を解せるのは人魚族とやりとりをする者くらいですから」

『じゃああなたは、わたし達相手の外交官? だからわたしのところに来たの?』

「……いやその、そういう訳ではなくてですね」


そう、そういう訳ではないのだ。

シズシラが人魚語を理解できるのは、単に幼い頃から周囲に教え込まれたからであって、責任ある対人魚族外交官なんて大それた役職にあるからではない。


なお、今回の件で、当の外交官はストレスで胃に穴を開けた。

魔法薬をガブ飲みしながら人魚族から寄せられる抗議文に返信する姿に、シズシラは申し訳なさのあまり涙が出そうになったし、最終的に実際に泣いたが、本当に泣きたかったのは外交官その人であったに違いない。


それはそれとして、どう説明したものかと言葉を探すシズシラのことを待つことにいい加減飽いたのだろう。

となりに避けられていたヨルが再びシズシラの膝の上に飛び乗ってきて、驚きに固まるアウネーテを見上げた。


「シズシラは、僕があなたにかけた魔法の責任を取りに来たんですよ、末姫」

『あなた、あの魔法使いさん? 随分かわいらしい姿になったのね』

「失礼、僕は人魚語は解りません。とにかく、末姫。僕はあなたに声をお返ししなくてはならなくなりました」


アウネーテの綴る人魚語を無視してヨルは続け、そのままちらりとシズシラの方を見上げてくる。

次は解ってるよね? と言いたげな青と黄の双眸に、はっと息を飲む。


そうだ、そうだった。

まず何をするかと言ったら、それだ。


「末姫様! これ、こちらが、あなたの声が封じられている巻き貝です!」


シズシラが異次元鞄から取り出したのは、片手におさめるには少々余るほど大きい、乳白色の見事な巻き貝だった。

まるで真珠のような光沢を放つその巻き貝の中に、ヨルはアウネーテから奪った声を封じたのである。

これはヨルが魔女裁判の前、短い旅行から帰ってきた彼が、シズシラに「これもお土産。一点物だよ」と寄越してきたものだ。

美しい巻き貝にシズシラはその時は素直に喜んだのだが、その実態が何たるかをライラシラから教えられた時、あまりの恐れ多さに目眩を感じたものである。


「この巻き貝を壊せば、あなたは声を取り戻せます。これで心置きなく王子様にすべて説明できますよ!」


ちょっと軽薄そうではあったけれど、王子は遠目から見てもちゃんと素敵な青年だった。


アウネーテにかけられた魔法は、声と引き換えに人間の姿になるというもの。

そしてまことの愛を得られなければ、アウネーテは海の泡と消えるしかない。


シズシラの力では、アウネーテを人間の姿から再び人魚の姿に戻すことはできない。

方法は知っているけれど、王子に恋する姫君はそれを望まないであろうことは解り切っている。

ならばアウネーテを救うすべは、王子からまことの愛を得て、本当に人間になるより他はない。


人魚族からは非難轟々であろうことは既に覚悟している。

外交官の胃にはまた穴が開くことになるだろう。

だがしかし、ごめんなさい。

シズシラには他に方法がないのである。


さいわいなことに、資料によると王子は、くだんの嵐の夜に自らを救ってくれた女性を探し求めているのだとか。

話せないアウネーテをそばに置いているのも、アウネーテの姿に自分のことを救ってくれた女性を重ねているからという訳らしい。


いや、そこまでしてるならそろそろアウネーテがその命の恩人だと気付いてもいいのではないだろうかとシズシラとしては思うのだが、仕方ない。

たぶんあの王子は鈍いのだろう。


そういうことにしておいて自分を納得させ、シズシラは両手で巻き貝を持ち、そっととなりのアウネーテに差し出した。


「さ、どうぞ。ご自分で……末姫様?」

「…………」


どうしたのだろう。

なぜアウネーテは巻き貝を受け取ろうとしないのか。

それどころか怯えたように巻き貝を見つめ、今にも逃げ出してしまいそうな様子である。


シズシラは魔女としては落ちこぼれだが、一人の人間としてはそこまで鈍くない。

聡い、と言えたらよかったのだが、ちゃんと聡かったら幼馴染のやらかしにもっと早くに気付けたはずだったので、ぎりぎり『鈍くない』と評するのが及第点だ。


ああ本当に、もっと早くに気付けていたら。

そもそも魔法なんて教えなかったら。

とかなんとか一気にまた後悔が襲ってきたが、それよりもまずはアウネーテだ。


――何か、事情があるのね。


そう判断するまでに、時間はさほど必要なかった。

とりあえず巻き貝はこの場に置いておかない方がよさそうだと結論付け、シズシラはそれを引っ込めて異次元鞄に収納する。


そして、ペンを握り締めたまま震えるアウネーテの手にそっと自らの手を重ねた。

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