【ヨル視点前日譚】秘密をなぞる指
※ヨル視点より三人称。本編前日譚、十六歳、夏。シズシラによるヨルへの魔法教授について。
降り注ぐ日差しがまぶしい。
やわらかなまどろみの春は去り、精霊と妖精が手を取り合って歌い踊る夏が来る。
この小さな家の家主が窓辺に飾った風鈴が、風に遊ばれて涼しげな音を奏でている。
午睡がはかどる季節だなぁ、と、ヨルは家主――幼馴染であるシズシラが一から作り上げたふかふかのクッションが敷き詰められたソファーの上に寝そべりながら、うっとりと目を細めた。
虫干しにより夏の日差しをたっぷりと浴びたクッションは、いっそ熱いくらいにふかふかのぽかぽかだ。
ちょうどこの家の軒先に映える古い巨木が陰を作り、開け放した窓から心地よい風が吹き込んでくる。
気を抜けばこのまま本当に寝入ってしまうに違いない。
ヨルのことを手招きする睡魔の誘いはとても魅力的なものだけれど、甘んじてそれを受け入れるには、あまりにも時間がもったいなくて、ぱち、ぱち、と、ゆっくり瞬きを繰り返すことでなんとか意識を保つ。
ああ、でも、それでも。
――眠たいなぁ。
――眠って、しまいたいなぁ。
少しくらいなら、と自然とそう思えてしまって、一度そう思ってしまったらもう我慢できなくなって、ヨルはそのまま、今度こそ抗うことなく意識を手放そうとした。
だが、しかし。
「ヨル、もう、ヨルったら。また勝手に入ってきたのね」
「……ん、んん?」
「おはよう、かしら? いくら夏だからって、おなかを出して寝たらよくない病魔を招いちゃうわ」
気をつけてね、といいつつ、日課の薬草採取からようやく帰ってきてくれたシズシラが、せっせと薄手のブランケットを、ふわりとヨルの上で広げてくれた。
やわらかく優しいさわり心地のそれもまた、シズシラの手作りの一品だ。
彼女は魔法についてはてんでからっきしの、自他共に認める『落ちこぼれ』。
けれどそれ以外のことはわりとなんでも器用にこなせるのだということを、彼女の母親以外に知るのは自分だけだろう、という自負がある。
何せシズシラ本人すら気付いていないのだから。
とはいえわざわざ吹聴する気にはなれない。
もっと言ってしまえば、シズシラの美点は、自分だけが知っていればいいし、そうあるべきなのだとすら思っていると言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
とりあえずシズシラの母たるライラシラには「こじらせるのも大概にせよ」と溜息を吐かれたことがある、という事実は伏せておこう。
「…………シズシラ」
「なぁに? 起きる?」
「うん。おはよう、それから、おかえり、シズシラ」
「……ええ、ただいま、ヨル」
繰り返すが、家主はシズシラのほうだ。
けれどこうして我が物顔でヨルがこの家に居座っていても、その上さらに「おかえり」なんて偉そうな口を利いても、それでも彼女は照れくさそうに笑い返してくれる。
それがどれだけヨルを喜ばせるかなんて、知りもしないで。
時折彼女のそういうところが少しだけ憎たらしくなるけれど、それ以上に口の中に甘い幸福が満ちていく。
幸福の味が甘いばかりではなく、苦味もまた含んでいることを教えてくれたのはシズシラだ。
そして、その苦味があるからこそ、余計に甘味が引き立つことを教えてくれたのも。
いつか自分も同じ味を彼女に教えてあげられるのだろうか、なんて、我ながら随分と不遜なことを考えながら、ヨルはかけてもらったばかりのブランケットをひらりと翻して身を起こした。
「お疲れ、シズシラ。今日はどうだった?」
「ばっちり大量よ。やっぱり夏は薬草の収穫期だわ。これで納期分だけじゃなくて在庫も補充できそう」
ほら、とシズシラが指をさした先のテーブルの上に、こんもりと薬草が山盛りになったバスケットが置かれている。
そこでようやくヨルは、鼻をツンとつついてくる香りに気が付いた。
シズシラが育てている薬草の匂いだ。
魔女として魔法を求められることなど皆無の彼女は、一から薬を作って生計を立てている。
シズシラ印の薬はよく効くのだと、彼女の薬を一度でも手に取ったことがある者の中ではかねてから評判だ。
けれどそれは本来のシズシラが求める名声ではなく、褒められるたびに彼女は少しだけ複雑そうに笑う。
薬剤師として認められる誇らしさと、魔女としては成り立てない悔しさが、いつだって彼女を苛んでいる。
「いざとなったらいつでも僕が養ってあげるのに」と冗談めかして言ったとしても、彼女は決して頷いてはくれないのだろう。
それが歯がゆくてならないのだけれど、仕方ない。
そもそもできない約束なんてヨルだってごめんだ。
いつか、ではあるけれど、必ずいずれ、彼女はひとりで生きていかねばならない。
そのためにヨルができることがあるならば、どんなことだって厭いはしない。
「シズシラ、今日は時間ある?」
「え?」
「ほら、今日はいい天気だから。飛行術を復習したいって言っていたでしょ? ちょうどいいんじゃないかと思って」
付き合うよ、と笑ってみせると、シズシラの瑞々しい赤い瞳が、うろうろと宙をさまよった。
こちらとしては何一つ後ろ暗いところのない提案である。そう、こちらにとっては。
シズシラにとっては決してそうではないことを解っていながら、解っていないふりをして、ダメ押しのように「ね?」と小首をかしげてみせる。
うぐっと何やら言葉に詰まったシズシラが、やがて諦めとそのほかもろもろが如実ににじむ溜息とともに「ほうきと魔導書を持ってくるわ」と言い出すのを待ってから、ヨルはソファーのはじに寄った。
その空いたとなりにシズシラが魔女の七つ道具の一つであるほうきを抱えて座り、分厚い魔導書をテーブルの上に広げてくれる。
「……ええっとね。風読みの魔法は教えたでしょう? 四大要素になぞらえて大別するなら、まず飛行術はその風読みの応用なの」
人差し指で丁寧に魔導書をなぞりながら、シズシラはそっと口を開いた。
彼女が何度もそらんじた内容を、魔法について何も知らない“ことになっている”ヨルに、一つ一つかみ砕きながら説明してくれる。
うん、うん、と、ヨルもまた一つ一つ丁寧に頷き返し、相づちを打つと、最初は緊張に強ばっていたシズシラの表情が、徐々に緩くほどけていき、きらきらと瞳は輝いて、口元には笑みが浮かぶ。
魔法の行使についててんでからっきしな彼女だけれど、それでもなおシズシラは魔法が好きなのだ。
彼女は魔女であり、魔法を愛し、只人ならざる存在と手を取り合おうとする。
そんなシズシラを、ライラシラを除いては誰よりも間近で見つめてきた自覚と自負がヨルにはある。
行使に失敗して流された悔し涙も、自らのふがいなさに嘆きかみ締められた唇も、その上でまだ魔法に手を伸ばして輝く瞳も、全部知っている。
――きれいだなぁ。
魔法に触れ、魔法を語るシズシラの、なんて美しいことだろう。
その瞳の輝きが自分に対してではなく魔法に対するものなのが悔しくはあるしまあまあだいぶ控えめな表現として面白くないものはある。
でもそれを耐えることが苦ではないくらいに、今のようなシズシラをずっと見ていたいと思う。
――きれいだなぁ。
――かわいいなぁ。
――すき、だなぁ。
改めてそんな風に思って、遅ればせながらにどきりと心臓が跳ねた。
それは一度きりではなく、そのまま収まることもなく、どきどきとうるさいくらいに鼓動の音を感じる。
顔は素知らぬ風を装って、我ながら完璧な笑みを浮かべて、スマートに魔導書のページをめくってはいる。
けれど、中身を覗いてみたらこんなものだ。余裕なんてちっともない。
こんな風に、それこそ互いの吐息に気付けそうなくらいに間近で膝をつき合わせているというのに、シズシラはすっかり魔導書に夢中だ。
今、どれだけヨルが、どきどきどきどきとうるさい心臓を押し込めて、ぎゅうぎゅうと詰まる胸を押さえたくなる衝動をこらえているかなんて気付きもしないし、ましてや想像することもない。
当たり前だ。
夜空の星は、下界から愚かにも懸命に手を伸ばす不届き者の心なんて知らない。
ただ誰の手も届かない場所で、誰よりもうつくしく輝くだけ。
――――だったら。
どうか、どうか。どうか星よ、そのままでいて。僕のものになんてならなくていい。
でもそのかわり、どうかどうか、誰のものにもならないでいて。
そう望み、願い、祈ってしまう傲慢を、どうか、ゆるして。
「それでね、ほうきの素材には多くはエニシダが使われるけれど、それは風精が好むからっていう理由が大きいの。風精は清潔を好んで、そこへ豊穣を招くから……だから、逆を言えば、ほうきの素材は、エニシダに限らず、懇意にしている風精が好きな素材にすればいいってことでもあって……って、ヨル?」
「うん? どうしたの?」
「……ええと…………聞いてる?」
「もちろん」
「それは嬉しいけど、あの」
「うん、だからどうかした?」
「え、と。だからね、あの、ヨル、なんだか、その、近くないかしら?」
頭の上に疑問符を飛ばしながら、おそるおそるシズシラに問いかけられたヨルは、そこでようやく、「やっと気付いたかぁ」と内心でいっそ感心した。
現在、ヨルとシズシラは、膝をつき合わせるを通り越して、ヨルが傾けた頭をシズシラの頭に預け、さりげなくヨルが片手をシズシラの背後へと回し、となり合って座る状態を分別する中ではおそらくもっとも近い距離で座り合っている状態である。
シズシラが魔導書に夢中なのをいいことに、少しずつヨルが距離を詰めていった結果なのだが、それにしても遅い。
気付くのが遅い。
自分でやっておいたことながら、シズシラは大丈夫なのだろうかと真剣に悩みつつ、ヨルはにっこりとその麗しいかんばせに笑みを浮かべてみせた。
「近いかな?」
「え」
「昔からこんな感じでしょ?」
「え、あ、ええと……そ、う、ね?」
「うん。ほら、続きを教えてほしいな」
「あ、うん。ええと、あとは飛行術には……」
ヨルの笑顔に頬を赤らめることもなく、ただただ「そうかな、そうかも?」と自分の中で結論づけたらしいシズシラは、再びそのまなざしを魔導書へと落とした。
本当に大丈夫なのだろうか、この幼馴染は。
とはいえ、まあ現状としては非常にヨルにとって都合がいい。
だからこそシズシラにはぜひともこのままでいてほしいので、とやかく言う期は今のところはない。
シズシラが歌うように紡ぐ飛行術の調べを聞きながら、そっと目をすがめる。
彼女の綺麗な黒い髪には、薬草のツンとするさわやかな匂いと、菓子のこうばしく甘い匂いがしみこんでいて、とても気持ちがいい。
おいしそう、なんて言ったら、きっとシズシラは震え上がるに違いない。
想像だけでつい吹き出しそうになるところをこらえるヨルに気付かないまま、シズシラによる飛行術の講義は続く。
ゆるされざる奇跡の教授を禁忌と呼ぶことなんて知っている。
きっとシズシラはいずれ後悔する。解っている。けれど。
――ごめんね。
ヨルはヨルのわがままのために、シズシラのけなげでいたいけな矜持を利用する。
口に出せない謝罪になんて気付いているはずがないのに、不意にシズシラの視線がこちらへと向けられる。
何もかもを見通すような、まっすぐに澄んだ赤の瞳にぎくりとすると、ふふ、と彼女はいたずらげに笑った。
「私の実力じゃ絶対に許可は下りないだろうけど……今の季節なら、海に行けたらよかったなぁ」
「海?」
「そう。海は風精が活発だから、ちょっとはマシな飛行術が使えるはずだもの。そうしたら、ヨルと海が見られたのにな」
「……僕と?」
「ヨル以外にいないわ」
当たり前じゃない、とさも残念がっているシズシラの言葉に他意はない、のだろう。
本来ゆるされざる願いをそれこそ『当たり前』のように口にする彼女は、ちゃんと知っていて、解っているくせに、こういうことを言う。
「じゃあ、もっと練習してよ。僕を乗せて、ほうきに二人乗りで海に行けるくらいになってほしいな」
「……できるかな?」
「シズシラならできるよ」
「…………うん、がんばる」
待っててね、と、笑ってくれるシズシラ・リューという女の子のことを、だからこそヨルは時折とても憎くなるし、それ以上にいとしくていとしくてたまらなくなる。
いっそ今の距離をもっと詰めて、抱きしめてしまえたらいいのに。
そうしたらシズシラは、どんな顔をしてくれるのだろう。
そんな叶わない、叶ってはならない想像を殺して、ヨルもまた笑い返すと、シズシラはもっと嬉しそうに笑ってくれる。
――すきだよ、シズシラ。
ずっととなりにいてくれた彼女は、いつか、ではあるけれど、必ずいずれ、ひとりで生きていかねばならないのだということを、また今ここで思い知る。
そこに自分はいない。
だからこそそのためにできることがあるならば、どんなことだって厭わずにいられるだろうということを、とっくの昔に自覚している。
たとえ、そのために、自分の口を塞がなくてはならなかったとしても。
本当の望みも願いも祈りもこの胸にある。
それでいい。それがいい。
何がいちばん大切なのかなんて、誰も一生知らないままでいい。
そう、誰も。シズシラすらも。
ヨル自身が知っていて、解っていれば、それでいいのだ。
だから。
WEB雑誌Colorful!にて、星奈もゆの先生作画によるコミカライズ連載中!
2025年7月5日配信開始vol.111にて、表紙絵をいただきました。
そのイメージに合わせたお話でした。
公式サイト様にてご覧いただけるので、よければぜひに。
活動報告にてリンクを貼らせていただいております。




