終章 シズシラとユオレイル【1】
たったひとり放り込まれた牢獄で、シズシラは何をするでもなく、ただ膝を抱えてぼんやりと天井を見上げていた。
ひとつの宿とも言える独房、リュー一族の隠れ里の地下の牢獄だ。
生活するには何の不自由もなく、ただ時の流れだけが解らないことだけが不便なところというべきか。
拘束されるわけでもなく、ただこの暗い宿で過ごすことだけを強いられている状態である。
長らく使われていなかった重罪人のためのそこは老朽化が進んでおり、下手に騒いだらその勢いで崩落しかねない印象ばかりを見る者に抱かせる。
どうせ極刑を待つばかりのこの身だ。
シズシラが騒いで牢獄の崩落を招き、そのまま事故死――などという展開を望まれているのかも。
極刑のための裁判だのなんだの手間を省こうとしたのだろうか。
落ちこぼれにはふさわしい最期だ、それもよい。
確かにそう納得はできるが、それはそれとして、騒ぐつもりであるのならばフォルトゥランの森でとっ捕まる時点で既にそうしている。
それをせずにわざわざ騒ぎ立てず、沈黙を保ち続けているのは、シズシラが自身の罪を誰よりもよく理解しているからだ。
視界に嫌でも割り込んでくる、つい先日までは黒かった、今は雪よりも真っ白な長い髪。
悪魔によって対価として奪われたこの髪は、もうどんな染料を使おうとも何色にも染まらないし、今後白以外の髪が生えてくることもない。
ユオレイルは嘆いてくれたけれど、あの時シズシラが〝安いもの〟だと評した気持ちに嘘はない。
もっととんでもないものを――それこそ魔力のすべて、寿命のすべてでも持っていかれるかと思ったのに。
髪色だけで済んだのは幸運だった。
そう、あまりにも。
なるほど、悪魔との契約が禁忌とされるのは、得られる物に対する対価が意外とお手頃であるからなのかもしれない、とすら思えるほどだ。
シズシラの望みはユオレイルの解放だ。
ユオレイル。
シズシラの〝まことの愛〟のすべて。
彼がどこかで幸せに生きていてくれるなら、それでよかった。
たとえ一緒にいられなくてもいいのだ。
一緒にいるばかりが〝まことの愛〟ではない。
これまで出会った、〝まことの愛〟を教えてくれた貴人の皆様がそう教えてくれた。
離れていても確かにそこには〝まことの愛〟があるのだと思える、それだけで十分だった。
どうせ〝ユオレイル〟の名を取り戻した彼とは一緒にはいられない。
だったら、この命がここで尽きることになっても、そう、悪魔との契約という禁忌に対する罰として極刑に処されても、何一つ悔いることはない。
この牢獄に囚われてからもう何日経ったことだろう。
窓一つなく、ただ備え付けの小さなロウソクの灯りだけがゆらゆら揺れるこの牢獄では、時の流れが大層緩慢で、酷く遠くて、シズシラはぼんやりと自身の思考が崩れていくのを感じていた。
食事は提供されるけれど、いずれ近き死を待つばかりのこの身では食欲が湧くはずもなくほとんど食べていない。
一応、魔女裁判は開廷されるらしいとは聞いている。
その前にこのままここで朽ち果ててしまうのもいいかもしれない。
そうシズシラがぼんやり思った、その時だった。
カツン、カツンと、この牢獄へと繋がる階段を、誰かが降りてくる足音が聞こえる。
食事を提供してくれる扉の向こうだ。
誰かしら、と考える間もなく、その扉が静かに開かれる。
「……お母様?」
ランプを片手にそこに佇んでいたのは、間違いなく母であるライラシラ・リューだった。
周囲にはわりと散々疑われてきたが、一応は実の母と娘という関係にあり、いくら彼女が長老の一人と言えど……いいや長老の一人であるからこそ、魔女裁判の場で会えたら御の字だと思っていたのに。
どうして、とシズシラが座り込んだまま問いかけると、溜息を吐いた母は、スタスタと歩み寄ってきて、目の前でしゃがみ込み、その手のランプを床に置いたかと思うと、そのままストンッとシズシラの頭に手刀を落とした。
想定外の痛みに涙目になって頭を押さえるシズシラを、ライラシラは冷ややかに見つめてくる。
「この、不肖の娘が」
吐き捨てるような口振りだった。
返す言葉もない。
母の口振りに、確かな悲しみがにじんでいたから、余計にシズシラは何も言えなくなる。
ごめんなさい、と、本当に小さくつぶやくと、またライラシラは溜息を吐いた。
「謝るくらいなら最初からやらかすでないわ。本当に、余計なところばかり父親に似おって」
「……お父様に?」
「ああ。お人好しで鈍感で気が利かなくて、そのくせここぞというところでとんでもなくやりすぎるきらいのあるところ、本当にあの男そっくりだ」
「……」
まったく褒められていない。
思えば、母の口から父の話をちゃんと聞くのは、これが初めてであるような気がする。
幼いころは「私のお父様はだぁれ? どんな人?」と幾度となく問いかけたものだけれど、そのたびに母がどこかさびしく切なげに「もう死んだ」としか答えてくれないものだから、いつしか問いかけることはなくなった。
できなくなった、というべきか。
「お父様は、どんなお方でしたか?」
だからこの質問は、随分久しぶりに口にする質問だった。
きっと母はかつてと同じく「もう死んだ」と答えるのだろう。
そうシズシラは思ったのに、予想外にもライラシラは、いつになく忌々しげに舌打ちをして、それから「だから」と続けた。
「言った通りよ。お人好しで鈍感で気が利かなくて、ここぞというとき……そう、自らの死の間際すら他人のことしか考えておらなんだ。この私に何を願ったと思う? 病を治せとでも言うとばかり思うたのに、あやつときたら、自分の死後には自分の像が建てられることになっているから、その像に自分の魂を宿してほしい、だぞ。死後も国の平和を見守りたいとか阿呆かと思うたわ。金箔の貼られた身体に鉛の心臓、両目はサファイア、腰の剣にはルビーとかいう悪趣味な像を企画しおったあいつの阿呆さは今でも理解できんししたくもない。結局その像の金目の物は、友人になったとかいうツバメ殿の手を借りて貧民に分け与えられ、みすぼらしくなった像は溶鉱炉、溶けずに残った鉛の心臓は冬を渡り損ねたツバメ殿の死骸とともにゴミ溜めの中だ。阿呆極まりないわ」
「そ、そんな人と私、そんなに似てます?」
とうとうと流れるようによどみなく語る母の言い振りは容赦なく、シズシラはだからこそ余計に戸惑った。
要点だけ聞くと、シズシラの父親であるという男性は、まるで聖人君子のようなお方なのだが。
いや死後に金ぴかの自分の像を建てさせるあたりは、母の評する通りだいぶ悪趣味だとはシズシラも思うけども。
でも、死後もなお誰かの役に立とうとするその志は立派なものではないか。
何一つ残せず、ただいたずらに大切な人を傷付けてこの世を去ろうとしているシズシラとは大違いだ。
けれどそれでもライラシラは、やっぱり忌々しげに、そしてどこか懐かしげに、シズシラをじいと見つめてくるのである。
「そっくりだとも。こうして最期をこんな牢獄……正しくゴミ溜めと呼ぶべき場所で待っているところまで同じでなくてもよかろうに」
「そこまで言います!?」
これでもそれなり以上の覚悟でここでお沙汰を待ってるんですけど! とつい涙ぐめば、その鼻先をピンと長く細く白い、鮮やかな紅が爪を彩る指先に弾かれる。
痛みにますます涙ぐむと、フンとライラシラはそんな娘を小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「本当に不肖の娘だ。私が産んだとは思えん」
「ご、ごめ……」
「だが、私はお前がかわいいし、愛しいと思う。馬鹿な子ほどかわいいとはよく言うたものよ」
ほとほと困り果てたようにそう続けた母は、苦笑混じりにシズシラの頭を撫でてくれた。
優しい手だ。
そう、シズシラの母は、とても厳しいけれど、同時にとても優しいひとなのだ。
そんな母に、自分は今、どんな思いをさせているのだろう。
あまりにも申し訳なくてこうべを垂れるシズシラの頭を、それでもなお母は撫で続けてくれる。
「私よりも先に逝こうとするとは、さいごのさいごまで不肖の娘だな、お前は」
「おか、あ、さま。私は」
「後悔は?」
シズシラの言葉を遮るように重ねられた問いに、シズシラは反射的に顔を上げた。
母の赤い瞳に見据えられ、ぐ、と、唇を噛み締めてから、シズシラは笑った。
心から笑ってみせた。
「何一つ、ございません」
その答えに、ライラシラはひとたび瞳を伏せてから、一言、「そうか」と頷いて、そして立ち上がった。
「刻限だ」という言葉とともに、ライラシラはランプを持ち上げて、そのまま彼女は一度たりとも振り返ることなく、牢獄を去っていった。
母との逢瀬は、それっきりになった。