【6】
ふわんとしつつもしっとりと濡れた感触に思わずシズシラが笑った、その次の瞬間のことだった。
まるでガラスのように、シズシラの手の中の鳥かごが砕け散る。
え、と、戸惑うシズシラの身体を、力強い腕がかき抱いた。
細いくせに驚くほど強引な力に抗うこともできず呆然とするシズシラに、ぽたぽたとあたたかい雨が降り注ぐ。
塩辛いそれは、涙だ。
いつかシズシラが美しいと思ったものと同じそれが、シズシラを濡らす。
「僕も、シズシラ。君を愛してる」
声を震わせながら、麗しい人間の姿を取り戻したユオレイルがシズシラを力の限り抱き締める。
同時に手のひらや身体に負ったばかりだった火傷が癒えていく。
治癒魔法、と納得するシズシラがお礼を言おうと顔を上げた瞬間、その唇にユオレイルの唇が重なった。
呼吸すらおぼつかなくなるほどに散々貪られ、彼の背中をバンバンと叩くと、ようやく、本当にようやく、とてもとても名残惜しげにしながらも、ユオレイルはシズシラを解放してくれた。
「もう少しいいじゃないか」
「よ、よくない! よくないの!」
「ケチ」
「私の収入じゃケチにならざるを得ないのよ!」
「そういう意味じゃないんだけどなぁ」
「そんなこと……っ!」
私だって解ってる、と、怒鳴ろうとしたシズシラだったが、そこで、それまで信じられないほど甘くシズシラを見下ろしていたユオレイルのまなざしが冷たくなったのを見届けて、口をつぐんだ。
彼のまなざしの先、森の茂みからこの星降る広場にやってきたのは、大きな帽子を被った小人だった。
ぎょろりと大きな瞳を巡らせた彼は、シズシラとユオレイルの姿を認めると、ニンマリといやらしい笑みを浮かべて満足げに頷いた。
「王子が人間に戻ったか! これは重畳。心置きなくたっぷり、腹いっぱいになれる! 感謝するぞ、リュー一族の娘!」
耳障りな甲高い声が喜悦をにじませてシズシラをはやし立て、欲望に歪む瞳がユオレイルをしかと捉える。
ユオレイルがシズシラを再び抱き込んだ。
自分が一番怖いだろうに、それでもなお彼はシズシラのことを守ろうとしてくれる。
魂から誓約に縛られているユオレイルには、小人に抗うすべはない。
どれだけ彼が魔法を行使できても、それらはすべて誓約の前に打ち消されてしまう。
それが解っているのだろう、小人は自身の優位を信じて疑っていないようだった。
おばかさん、と、シズシラは笑う。
そしてユオレイルの腕から抜け出して、まっすぐに小人を見つめた。
その態度をいけ好かなく思ったらしい小人が「さっさと森から出ていけ!」とやはり甲高く怒鳴る。
シズシラはにっこりと深く笑った。
小人がその笑顔に気圧されて後退り、それでもなおシズシラをにらみ付けて「誓約は誓約だ!」とふしくれ立った指を突きつけてくる。
構うことなく、シズシラは口を開いた。
「ユオレイルの母君様である王妃殿下と、あなたの間にある誓約は、あなたの名前を当てたらほどかれるものだったわよね?」
「そ、その通りだが、だが、誰もオレの名前を知らないだろう!」
「ええ、そうね。誰も知らないわ。王妃殿下がこのフォルトゥラン中を探しても見つからなかったくらいだもの。誰も知るはずがないわ」
そう、小人の名前はそういうものだ。
シズシラの答えに、小人は我が意を得たりとばかりにまたニンマリと笑うが、シズシラはなお笑みを浮かべて続ける。
「知っているかしら、小人さん。リュー一族にはね、禁じられた秘術があるの。落ちこぼれの私でもできる、とっても簡単な、だからこそ絶対に犯してはならない罪の契約」
それは、落ちこぼれと呼ばれ続けたシズシラが行き着いた秘術だ。
母のツテで来館を許された隠れ里の中でも禁呪が封じられている書物館の、奥の奥、そのまた奥に封じられていたその秘術は、あまりの恐ろしさに、自らの持てる知識のすべてをユオレイルに教授しようとしたシズシラも、これだけは教えられないと誓ったもの。
ユオレイルの顔色が変わり、「シズシラ?」とその声が不安に揺れる。
そっとためらいがちに伸ばされた彼の手に自分の手を重ねた。
今までシズシラは、ずっとユオレイルに守られてきた。だから今度は、シズシラが彼を守る番だ。
小人が「まさか」と声を震わせた。
シズシラは彼をまっすぐ指差した。
「そう、禁じられた秘術、それは悪魔との契約よ。私は聞いたわ、あなたの名前を、悪魔から」
ゴオッと風が吹く。
シズシラの長い黒髪が、ユオレイルの銀の髪が乱れ、小人の大きな帽子がさらわれる。
そうしてシズシラは高らかに宣言した。
「あなたの名前は、ルンペルシュティルツヒェン!」
がしゃん。
何かが壊れる音がした。
風が止まり、森中が静まり返り、それから一拍置いて、小人の金切り声が響き渡った。
「おまえええええええ! おまえ、おまえ!! 赦さない、赦さないぞ! よくも、よくも、オレの誓約を!! 悪魔の契約した呪われた魔女め、絶対赦さな――――ッ!」
「ッ〝ユオレイル・ノッテ・フォルトゥランの名の下に! 雷よ! 雷よ! 天に坐す裁判官の誇りたる雷よ! その鉄槌をくだせ! 墜とせ! その光は黄泉へと罪人を導くもの!〟」
ユオレイルの悲鳴のような詠唱に、天から一条の稲光がくだり、それはそのまま小人を貫いた。
そう、名前を当てられた小人と、ユオレイルの間には、もう魂を縛る誓約はない。
ユオレイルの奇跡の御業はそのまま小人を断罪する。
悲鳴を上げることすらできずに消し炭になった小人の影は、ぼろぼろと崩れて風にさらわれていく。
無意識に詰めていた息をようやく吐き出したシズシラを、また、力強い腕が抱き締めた。
「ちょっとユオレイル、苦しいわ」
「我慢してよ。そんなこと、そんなことより、君、髪が……っ!」
シズシラの肩に顔を埋めるユオレイルの瞳からまた涙があふれるのが、その肩からじんわり伝わってくる。
そうね、とシズシラは静かに頷きを返した。
シズシラの黒かったはずの長い髪は、今はもう、雪よりも白い真っ白に染まっていた。
ぎゅうとますますシズシラを抱き締める腕の力が強くなる。
この細腕にどこにこんな力があるのかしら、と感心しながら、シズシラは彼の背に腕を回して、そっとその背を撫でた。
「髪の色だけで済んだのよ? 安いものだわ」
「綺麗な、黒髪、だったのに」
「ユオレイルは、白い髪の私は嫌い?」
笑みを含んで問いかけると、「そんな訳ないでしょ!」と泣きながら怒鳴られた。
そして彼は、「どんな君でも愛してるよ。白い髪も、似合うよ」と泣きながら笑った。
笑って、くれた。
だからこれでいいと思えた。
このフォルトゥランの森に向かう道中で、シズシラはシズシラなりに考えたのだ。
ユオレイルと小人の間に存在する誓約をほどくには、どうしたらいいのかと。
かつて王妃がフォルトゥラン中を探しても見つからなかったという小人の名前を、シズシラが一朝一夕程度で見つけられるはずがない。
だからこそシズシラは、この森に入る直前で、悪魔と契約を結んだ。
小人の名前を教えてくれと望むシズシラに、悪魔は「その髪の色を寄越すのならば」と応えてくれた。
リュー一族の証のひとつである、シズシラの自慢の黒髪。
けれど、シズシラの宝物は黒髪ではなく、銀色に輝く存在だから、だからためらいはなかった。
そう、安いものだった。
これで、ユオレイルが助けられるならばと。
「ユオレイル」
「なんだい」
「愛してるわ」
「……うん。僕も」
愛してる、と、そのセリフは続けられるはずだった。そう信じるのは、シズシラの過ぎた望みだろうか。
夜が明ける。
フォルトゥランの森に朝が来る。
そして、その暁とともにやってきたのは、リュー一族の長老衆だ。
「ユオレイル・ノッテ・フォルトゥラン殿下におかれましては、長きの憂いより解き放たれましたこと、心よりお祝い申し上げる。我が一族の罪人を、引き渡していただこう」
箒にまたがって先陣を切ってきた血赤珊瑚長たるライラシラ・リューの言葉に、ユオレイルは呆然と空を見上げた。
そんな彼の腕からそっと抜け出したシズシラを、次の瞬間、魔力で紡ぎ上げられた檻が包み込む。
「シズシラ!?」
ユオレイルが今度こそ悲鳴を上げるが、シズシラは彼を檻の中から見つめ返して、にっこりと笑ってみせた。
「愛してるわ、大好きよ、ユオレイル。だから、さようなら」
それが最後だった。
シズシラの全身から力が抜ける。
落ちるまぶたの向こう、まばたきの果てに見えたのは、必死にこちらに手を伸ばす、シズシラの〝まことの愛〟の面影。
すべては、それっきりになった。