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【2】

人魚の末姫は、あろうことか自らが助けたアトランティスの王子に恋に落ちてしまったのである。

とはいえあくまでも末姫は人魚で、アトランティスの王子は人間。

所詮叶わぬ恋だ。

いくらかわいい末姫の頼みでも、人間に彼女を差し出せるわけがない。


どうせ叶わぬ恋なのだから。

生きる世界が違うのだから。

人魚族の誰もが、恋の炎が波間にかき消される日を待った。


そんなある日のこと、泣き暮らす末姫の前に、一人の魔法使いが現れた。

美しく麗しい銀の魔法使いは、人魚姫に「願いを叶えてあげよう」と提案したのだと言う。



――その美しい声と引き換えに、人間にしてあげよう。

――王子からのまことの愛が得られたならば、君は本当に人間になれる。

――けれどまことの愛が得られなければ、君はそのまま海の泡となり消えてしまうよ。



なんて酷い条件なのだとシズシラはその旨が記された資料を読んで頭を抱えた。

ヨルがそんなシズシラをなぐさめるようにぺろぺろとほおを舐めてくれたが、そもそもの原因はヨルである。


あなたこんなに性格悪かったの?

これも私が余計な魔法を教えたせい?


そうシズシラはしばし悩まずにはいられなかった。

しかし悩んでいる暇があったら一刻も早く人魚の末姫の元に向かうことこそが先決であると、ズキズキとストレスで痛む頭はわりと冷静に判断を下した。


そうして、本日である。


「シズシラは声を奪ったのはやりすぎだって言うけれど、でも、大きな魔法には対価が必要だって教えてくれたのは君だよ? 人魚から人間になるなんて、存在を根幹から覆す魔法だ。むしろ声だけで済んでよかったと思わない?」

「ぜんっぜん反省してないわね、あなた」

「だって僕は〝まっとうなる善意の魔法〟を使っただけだから。最終的に選んだのは末姫だよ」


一切悪びれる様子もなく、どこか冷徹さすら感じせる物言いで言い切る幼馴染に、シズシラは戸惑う自分がいるのを感じていた。

基本的にはいつも優しかった……いや時々とんでもなく意地悪ではあったが、そう、基本的にはおそらくたぶんきっと優しくて善人であるはずのヨルが、こんな風に言うなんて。


なんだか得体の知れない不安が胸をよぎり、言葉を失うこちらに気付いたのだろう。

銀の猫はこちらを見上げて、確かににこりといつものように笑った。


「さ、そろそろ時間だ。うわさじゃ、王子は末姫を連れていつもあそこの修道院に通っているらしいよ」

「そ、うね」


人魚の末姫は、ヨルによって人間の姿を得たあと、うまいこと王子に保護されるに至ったらしい。

資料によると、王子は末姫が自身を救ってくれた人魚であるとは気付いていないが、話すことができずとも見目麗しい少女である末姫をいたくお気に召し、何かと気にかけているのだとか。


ヨルの先導に従って砂浜から整備された舗道に出ると、古いながらも立派な造りの修道院がすぐそこに佇んでいた。

どうやらまだ王子と末姫はやってきていないらしい。

修道院の中に入る訳にもいかず、シズシラはちょうど修道院を見下ろせる丘の公園のベンチに腰を下ろした。

その膝の上に、ヨルがそうするのが当たり前であるかのように身軽に飛び乗ってくる。

猫の中でも大型の長毛種に膝に乗られるとそれなりに辛いのだが、シズシラは何も言わずにヨルの背を撫でた。


ゴロゴロゴロ、と彼の喉が鳴る。本当に猫みたい、と、思わず笑ってしまった。

いや実際はまったく笑いごとではなく、いずれはどんな手を使ってでも彼を人間に戻さなくてはならないのだが。


――まことの愛、って?


まことの愛を得られなければ、人魚の末姫は海の泡として消えてしまうのだという。

この膝の上の幼馴染は、何を思ってそんな条件を出したのだろう。


本人の言う通り、人魚を人間にする魔法は、存在を根源から覆す高等魔法だ。

それも、どちらかというと、『奇跡』ではなく『禁忌』とされる部類の魔法である。

きせきときんき。たった一文字の違いだと言うのにとんでもない違いだ。


そんな魔法を行使してまで、一体ヨルは何がしたかったと言うのだろう?

まさか本当に〝まっとうなる善意〟だとでも言うのだろうか。

それこそまさかだ。

「覚えたての魔法をただ使ってみたかった」と言われた方がまだ納得できる。


次の春に親元に帰るその前に、魔法使いとして腕試しをしてみたかった、とか言われたら……。


「元に戻ったら覚えておきなさいよ」


ヨルがやらかしてくれた原因の一端は確かに自分にあるが、それはそれとして、こんな事態を招いた責任は取ってほしい。

そんな思いを込めて低くつぶやくと、きょとんとヨルは膝の上からこちらを見上げてきた。


「え、どうしたんだい急に。怖いんだけど」

「流石に猫の姿のあなたに手は出さないわ。その代わり、その毛並みを堪能させてもらうわよ」

「ええ? うわ、ははっ! うん、う……うにゅ……」


ゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロ。もふもふわしゃわしゃとシズシラが撫でさすると、ヨルは猫としての本能に抗えず喉を鳴らしていよいよ腹まで見せてくれる。

潮風が心地よく、世界はどこまでものどかに平和だ。だ

からこそ余計にシズシラは自分が世界から置き去りにされてしまった気分になる。


この銀の猫のぬくもりと重さだけが確かなものであるような気がして、無心になってふかふかの毛並みをもてあそんでいた、その時だった。


腹を見せていたヨルがぴくっと震えたかと思うと、ひらりと華麗にシズシラの膝から飛び降りる。

シズシラは驚きに目を瞠るが、遅れて馬の蹄の音と車輪が回る音が近付いてきていることに気が付いた。


ベンチから修道院の方を見下ろせば、ちょうど馬車が停車するところだった。

豪奢にあしらわれたアトランティスの紋章に、その馬車が王家ゆかりのものであることを知る。


無意識に固唾を飲んで見守るその先で、馬車の扉が御者によって開かれて、中から身なりのいい精悍な青年がまず地上に降り立った。


「あれが王子だね」

「あれが……」


なるほど確かに素敵な青年である。

彫りの深い顔立ちも鍛えられた体躯も、世の女性の関心を引くに十分に値するに違いない。

あれなら確かに初心な十五歳の少女がうっかり恋に落ちてしまっても仕方がないと言えるのかも知れない。

でも。


「ヨルを前にしてもなお、末姫様はあの王子様のために人間になりたいと思ったのね」


悩める末姫の元に現れた麗しい銀の魔法使いについて、人魚族の年若い娘達は一時騒然となったという。あんな綺麗な人間見たことない! と末姫への心配と同時に、銀の魔法使いへの興味もかなりのものであったとか。


シズシラだって、あの王子よりもヨルの方がよっぽど綺麗で素敵だと思うのだけれど、末姫にとってはそうではないらしい。

恋って不思議ね、と思わず小さくつぶやくと、何やら足元から視線を感じた。


「ヨル? どうしたの?」

「……別に、なんでもないよ」

「そう? ならいいけれど……って、あっほら! 見て!」


シズシラの示した先で、一足先に馬車から降りた王子に誘われ、一人の美しい少女がその花のかんばせを覗かせる。

王子に手を取られて地上に下ろされると、その白い頬を薄紅に紅潮させて美少女はワンピースのすそを持ち上げて優雅に一礼してみせた。

その様子を満足げに見つめてひとつ頷いてみせた王子は、美少女に一言二言声をかけて、一人で修道院の中へと入っていってしまう。


美少女はたった独り、修道院の扉の前に残された。


「あれが末姫様ね。あ、こっちに来る! ど、どうしようヨル!?」

「どうするも何も、堂々としていればいいんじゃないかな。彼女に用があるんだし、僕らは立場上は彼女を助けにきたんだから」

「そ、そう、そうよね、うん、頑張る……!」


ぐっと拳を握り締めて頷くと、ヨルは「その調子だよ」と告げながらシズシラのローブの下に潜り込み、足下にそっと寄り添ってきた。

ローブの下に着込んでいる同じく黒のワンピースの長いすそ越しでも感じるぬくもりに不思議な安堵感を抱きながら、いよいよ残りあと数歩、というところまでやってきた美しい少女……人魚族が末姫、アウネーテのかんばせを被っているフードの下からじっと見つめる。


フード越しでもその視線を感じたのか。

それとも、そもそも眼前に立つ黒いローブの不審者を訝しんだのか。


アウネーテはその空色のワンピースから覗くほっそりとした白い足をぴたりと止めた。

怯えが混じる彼女の視線に、シズシラは慌てた。これは完全に警戒されている。


「わ、私は怪しい者ではありません!」

「シズシラ、それ、全然説得力がないよ」

「だって他になんて言ったらいいの!?」

「普通に名乗ればいいじゃないか」

「え、あ、そ、そっか」


シズシラのローブの下からひょこりと顔を覗かせた、人語を解する美しい銀の猫に、アウネーテの瞳がまんまるになる。

その碧い瞳に、怯えばかりではない興味が宿るのを確かに見届けたシズシラは、被っていたフードをようやく取り払った。


長く伸ばした黒髪と、グミの実のような赤い瞳。

黒髪と赤目を併せ持つのは、世界広しと言えどもリュー一族しかいないというのは誰もが知る事実である。


そのリュー一族の証を見せつけられたアウネーテは、ますます驚きに目を瞠る。

驚き戸惑う少女に、シズシラはリュー一族としての挨拶として、両手を祈るような形に組み合わせて一礼した。


「お初にお目にかかります、アウネーテ姫。私はシズシラ・リューと申します。この猫、もとい、ヨルがあなたに対して犯した罪を贖うために、隠れ里より馳せ参じた魔女にございます」

「!!」


とうとうアウネーテの瞳が限界まで見開かれる。

おろおろ、とそのまま瞳は惑うように、あるいは助けを求めるように宙をさまよう。


そして。


「あっ!」

「逃げたね」

「お、お待ちください、末姫様!」

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