【5】
そしてたどり着いたのは、くだんのエリザ妃の部屋である。
彼女の邪魔を誰にもさせないようにという国王の配慮か、扉は重厚で、中を窺い知ることはできない。
「それで? 魔女の何を見るって言うの?」
下手な答えでは納得しないわよ、と柳眉をつり上げている王妹に「はいはい」と無礼にも気のない返事をしたヨルは、その視線をシズシラへと向けた。
「ここはシズシラの出番だね。覗き見の魔法なら、いくら君でも使えるでしょ?」
「覗き見なんてしなくても、そのままお邪魔すればいいんじゃ……」
「僕らが、っていうか王妹殿下が見なくちゃいけないのは、取り繕ったものではない、そのままのエリザ妃の姿だ。この扉の向こうで彼女が何をしているかが見たいなら、正面からいったら意味ないよ」
「な、なるほど」
そういうことなら、と、シズシラは両手をそっと扉に押し付け、スゥと一度大きく深呼吸をした。
「〝シズシラ・リューの名の下に。扉よ。扉よ。主人を守る誇り高き門番たる扉よ。今ばかりはその槍を、その盾を、ともに下ろして、我らに其の主人の姿を見せたまえ〟」
魔法使いや魔女にとっては基本中の基本である〝名前〟という呪文を起点にして、旧いことのはを紡ぐと、シズシラが扉に押し当てた両手を中心にして、音もなく扉が透明になる。
ちょうど円形の窓のような形で透明になった扉の向こうには、一人の女性が床に座り込み、せっせせっさと手を動かしていた。
いかにも柔らかく甘そうなたまご色の長い髪、丁寧に動く手元へと優しげなまなざしを放つ瞳はさながら大粒のエメラルドのようだ。
国王が一目惚れしたのも頷ける、とびきり美しい姫君、今はエリザ妃殿下と呼ばれる彼女は、たった一人で、イラクサを自らの手で編んでいる。
扉の向こうから覗き見しているシズシラ、ヨル、そして王妹には当然まったく気付いていない彼女は、イラクサの棘に幾度となく手を傷付けられ、その痛みに涙ぐみながらも、一言たりとも泣き言を言おうとはしない。
誰も聞いてはいないと言うのに、彼女はヨルの助言通りに一切の言葉を自ら封じて、白鳥の姿へと変えられた十一人の兄達のためにイラクサで鎖帷子を編んでいるのだ。
どれだけ周囲に魔女とささやかれても、すべては、大切な家族のために。
あちこち傷付き血に汚れているのは、両手ばかりではない。
イラクサを柔らかくするためにそれらを踏み締めた両足だって同様だ。
かつては誰よりも尊ばれ称賛されたに違いない、白く華奢な両手足は、もう見る影もなくぼろぼろである。
それでもなお、エリザ妃は構うことなくたった一人で手を動かし続けている。
その姿のなんて美しく、なんて健気なことだろう。
やがてようやく一着が完成したのか、それを嬉しそうに、心底安堵したようにそっと抱き締める。彼女の唇が音をもらすことなくわなないた。
――兄上様方、待っていてくださいまし。
確かにそう動いた唇に、シズシラのとなりで部屋の中を覗き込んでいた王妹が大きく息を飲んだ。
あ、と、信じられないと言わんばかりに唇を震わせ、戸惑うようにその視線が揺れる。
自分が信じていたものが根底から覆されるのを、彼女は今この瞬間に感じているのだろう。
それはいかほどの衝撃なのだろうか。
「どうだい? この様子を見てもなお、彼女が君の兄上を害するために鎖帷子を編んでいると言えるかな」
「ちょっヨル、もう少し言い方……って、王妹殿下!?」
バターン!! と、王妹が問答無用で扉を開け放った。
前触れのない突飛な行動に、シズシラの使っていた覗き見の魔法があっけないほど簡単に砕け散るが、そんなことなど構わずに、王妹はズカズカと部屋の中に入っていったかと思うと、何事なのか理解できないらしく呆然と座り込んだままでいるエリザ妃の前にひざまずいた。
王妹の手が、エリザ妃の傷だらけの手を、そおっと包み込む。
王妹を自らの血で汚すことを厭ったのか、慌てた様子で手をひこうとして、ついでに王妹をなんとか立たせようとするエリザ妃に向かって、手をそっと包み込んだまま、王妹は深く頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「……!?」
エリザ妃のエメラルドの瞳が大きく瞠られる。
おろおろと戸惑うばかりの彼女に対し、王妹は畳みかけるように続けた。
「リュー一族の魔女さん達にあなたがなぜしゃべらないのか、なぜ鎖帷子なんてイラクサで編んでいるのか、その理由を聞かされても、私、信じようとしなかった。でも、あなたの今の姿を見ちゃったら、信じない訳にはいかなくなってしまったわ。こんなに、こんなに手も足もボロボロにして、それで誰かを傷付けようとするなんて、あなたはそんな真似ができるほど器用じゃなさそうなんだもの」
懸命に紡がれた王妹の言葉に、エリザ妃の瞳がますます大きく瞠られた。
どういうことかと彼女の視線が、王妹の背後で事の次第を窺っているシズシラとヨルを捉える。
シズシラの黒髪と赤い瞳、そしてヨルの銀の毛並みと青と黄の双眸に気付いた彼女は、その唇を、まさか、とやはり音なく震わせた。
そんな彼女に頷きを返すシズシラに気付かないまま、王妹はやはり懸命に続ける。
「何も知ろうとしないまま、あなたを疑うばかりだった私を、どうか赦してください。本当にごめんなさい。あなたも私と同じで、自分のお兄様のことを助けたかったのね。そのために、一生懸命、本当に一生懸命、頑張っていたのね。私、何も知らなかった。あなたはとても優しい素晴らしい人だわ。あなたみたいな人になら、お兄様を任せられる」
「……っ!」
とうとうエリザ妃のまなじりから、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちる。
声を出すにはいかないからと、王妹の手から解放してもらった傷だらけの両手で必死に自らの口を押さえ嗚咽をこらえるエリザ妃を見て、たまらなくなったらしい王妹が彼女を抱き締めた。
そうして、ぽろぽろと声なく涙を流し続けるエリザ妃を、ぎゅうとひとたび力強く抱き締めた王妹は、ザッ! と勢いよく立ち上がった。
「そうと解ればお兄様にご報告よ! ついでに私にガセネタを吹き込んでくれた大司教、絶対に許さないんだから!」
勇ましい宣言である。
今にも国王の元に駆け出していきそうな王妹の横を縫って、シズシラは異次元鞄から取り出した傷薬をエリザ妃の手に握らさせた。
「リュー一族印の傷薬はよく効きますよ」
「そうそう。魔法はともかく薬学についてはシズシラの腕は確かだから」
「一言多い!」
シズシラがにらみ付けても、ヨルはゆらゆらしっぽを揺らすばかりだ。そのやりとりが面白かったのか、ようやくエリザ妃のかんばせに笑みが広がる。
王妹が、「何してるのよ、早く行くわよ! ああ、エリザお義姉様はそのままで! 鎖帷子を編まなきゃいけないんだし、何よりその足を大切になさって! 私に任せてちょうだい!!」と言い残し、ダッと走り出した。
走り出したら真っ直ぐに突撃することしかできない、文字通りの猪突猛進ぶりである。
ヨルが小さく「イノシシ姫……」とつぶやいたが、幸いなことに既に走り出している王妹の耳には届かなかった。