第1章 人魚姫【1】
ざん。ざざん。
寄せては返すさざなみ、輝く太陽、白い砂浜、ほおを撫でていく優しい潮風。
海だ。
青く美しい海が、水平線まで続いている。
きらきら輝く水面は、隠れ里の夜空しか知らないシズシラの目にはあまりにもまぶしすぎた。
そう、何もかもがこんなにもまばゆく輝いているというのに、シズシラの心には暗雲が立ち込めていた。羽織っている黒のローブの大きなフードを被り直し、はあ、と重苦しい溜息を吐く。
「思えば随分遠いところまで来てしまったわ……」
「まあ箒で一週間かかったからね。僕なら転移魔法で三秒だけど」
あの魔女裁判から八日。
追い出されるようにしてリュー一族の隠れ里を出立した日から数えれば七日。
ようやく辿り着いた第一の目的地は、確かに物理的にかなりの距離がある国であるのだが、先程シズシラが口にした台詞はそういうそのままの距離の意味ではない。
もっと精神的な意味での『遠いところ』である。
だがそんなシズシラの気持ちを知ってか知らずか……いいや、おそらくは知っていながらあえてスルーしつつ足に擦り寄ってくる銀色の猫、もといヨルに、溜息を禁じえない。
なんだろう、ドッと疲れた。
七日間も慣れない箒を操り空を飛んできたせいだろうか。
箒に同乗したヨルは、そんな疲れなんて感じさせず、ゆうゆうと立派なしっぽを潮風に遊ばせている。
やけに優雅なその姿にますます疲れが募るのを感じる。
自分は七日間かけて箒で空を飛んでこなければたどり着けないこの土地に、ヨルは猫の姿にされていなかったら転移魔法で三秒であるという。
神様は本当に不公平だ。
「……どうせ私は転移魔法も使えない落ちこぼれよ」
悔し紛れに呟けば、これは異なことを、とでも言わんばかりにぱちりと青と黄の双眸を大きく瞬かせた猫は、すり、とシズシラの足に擦り寄ってくる。
もふもふでふかふかの毛並みにグッとくる。
うずくまって撫でくりまわしたい衝動と戦うシズシラを見上げ、ヨルは甘えるようにゴロゴロと喉を鳴らした。
「やだな、そうは言ってないよ。一週間もシズシラと空の旅を過ごせて、僕は楽しかったよ?」
その台詞が冗談や揶揄や嫌味や当て擦りであったならば、シズシラだってもっとあれそれ言い返すことができただろう。
だがしかし、ヨルが本気でこの海辺の王国、アトランティスに辿り着くまでの一週間の旅路を楽しみ、嬉しいと思っていてくれたらしいことは、猫だからこそ表情に出ないものの、その柔らかく聞き心地のよい声音から伺い知れた。
そんな風に言われてしまったら、もう反論も文句も出てこない。
ずるい。
こんなにも隠れ里から離れたのは初めてで、実はものすごく緊張している自分が、なんだか馬鹿みたいに思えてくる。
果たさねばならないことは山積みで、その第一歩がこの土地であるというのに、そんなちょっとした旅行気分になんて、そんな、そんなの……! と葛藤しつつ、箒を肩からかけた異次元鞄に収納し、砂浜を歩くのにどうやら苦慮しているらしいヨルを抱き上げる。
潮風でちょっぴりかぴかぴしているけれど、やはりヨルの銀の毛並みの手触りは一級品で、彼が人間の姿であった頃の美しい髪を思い出させた。
狭い額をくすぐると、猫としての本能が先に立つのか、より一層ゴロゴロと喉を高らかに鳴らすヨルに、先程とは違った意味の溜息を再度吐き出した。
「今更聞くけど、人魚族に喧嘩を売るなんて、ほんとに何考えてたの?」
「喧嘩なんて売っていないし、もちろん買ってもいないよ。ただあのお姫様がどうしてもって言うから、僕は〝まっとうなる善意の魔法〟を行使しただけさ」
「それが問題なのよぉ……」
情けない声を上げながら、ヨルを腕に抱いたまましゃがみ込む。
ああ、頭が痛いし胃も痛い。
ここは海辺の王国、アトランティス。
貿易と観光によって栄える国だ。
その国の名を知らない者はいないだろうと言っても過言ではないほどの大国だが、その近隣の海の、深淵のごとき海底には、人魚族の住まう竜宮城と呼ばれる都が存在するという事実を知る人間は少ない。
人魚。
その名の通り、上半身は人間の身体、下半身は魚の尾びれという肉体を持つ、海の眷属である。
人魚の肉は不老不死の妙薬となるというとんでもないデマが出回った時代以来、人魚族は遥か遠い海底でのみ生活し、海上にその顔を覗かせることは一部の例外を除いてほとんどなくなってしまった。
リュー一族とは古くより懇意の仲であり、互いに都合のいい貿易相手として長く友好関係を築いてきた、の、だが。
「よりにもよって姫君に魔法をかけるなんて……完全に外交問題じゃない……」
「だから頼まれたからそれを叶えただけなんだってば」
「よき魔法使いは行使していい魔法とそうでない魔法の区別がつくものよ」
「じゃあ僕はよき魔法使いだね」
「そんな訳ないでしょ。完全に逆だわ。対価に声を……人魚族の誇りの声を奪うなんて……もおおおおおお……!」
ますます頭と胃が痛い。ずきずききりきりてんてこまいである。
ヨルを足下に放し、異次元鞄から自分で作った頭痛薬と胃薬をそのまま口に放り込み、なんとか気を紛らわそうとするがそれでなんとかなるならおそらくそもそもこんなことになってはいない。
母であるライラシラからせめてもの餞別だと渡されたヨルが巻き起こした問題にまつわる資料、その一ページ目。
でかでかと書かれた『人魚族が怒り狂っているので早期解決を!』という赤文字。
何事かと思った。
どういうことかとヨルに説明を求めたところ、返ってきたのは「人魚姫の恋を応援してあげたんだ。さながら僕はキューピッドかな?」と、わざわざ四つ足だった身体を二足歩行モードに切り替えて、前足で弓を引くポーズを決めてくれた。
シズシラは無言かつ真顔でその前足のピンクの肉球を左右まとめてプニプニしてやった。
ヨルは「セクハラはよくないよ。でも、シズシラになら……」などと言い出したので肉球を解放し、代わりに狭い額を小突いてやった。
思いの外力がこもってしまったせいでヨルはべしゃりとその場に……と、話が思い切りずれてしまったので本題に戻るが、とにかく、ヨルがこのアトランティスでやらかした問題。
それは、海底に住まう人魚族の王族の中でも特に周囲からかわいがられていた、末姫に魔法をかけたということだった。
人魚族は、十五歳の誕生日を迎えたその日のみ、海上に顔を覗かせることを許される。
末姫の十五歳の誕生日は、近年稀に見る嵐だったそうだ。
その嵐の日に向こう見ずにも海に出たアトランティスの王子は、まあ案の定船が難破し、海に身体を投げ出されたのだという。
それを救ったのが末姫だったと。
それだけで済んだならば、王子は嵐の海から帰還を果たした奇跡の王子として、人魚の末姫は人間に手を貸したことを諌められつつも勇気ある行動をした優しき姫君として、双方それぞれの世界で称えられたことだろう。
そう、本来ならばそうなるはずだった。
この流れになるべきだった。
こうなったらよかったのだったが。
「人魚が人間に恋するなんて聞いたことないわよ……」
「そこはほら、恋はするものじゃなくて落ちるものだから」
「うまいこと言ったと思わないでよね!?」
つまりは、そういうことだった。