【7】
そして、それから。
――――キィンッ!
気付けば固く閉じていたまぶたの向こうで、聞き覚えのある剣戟が聞こえてきた。
覚悟したはずの痛みも衝撃もいくら待っても襲ってはこず、シズシラはそこでようやくおそるおそる目を開く。
そして、大きく息を飲んだ。
「よ、る?」
シズシラの前で、シズシラのレイピアを片手に、王子の剣を軽々と受け止めている青年がいる。
きらきらきらきら、肩口で切り揃えられた、流星群を紡いだかのようの銀の髪が風に揺れている。
シズシラよりも軽く頭一つ分は高いところにある高い背丈。その背中。
筋骨隆々としている訳ではなく、むしろ痩身と呼ぶ方が近い身体付きのくせに、シズシラにとっては誰よりも何よりも頼りになる背中だ。
呆然とその名を呼ぶと、彼は、ヨルは、猫ではなく人間として、肩越しに振り返って誰よりも何よりも美しく優雅に笑った。
「言ったでしょ。シズシラ、君は僕が守るって」
キンッと軽々王子の剣を弾いた、人間の青年の姿になぜか戻っているヨルは、そう続けて、そのまま容赦なく王子を蹴り飛ばし、その手から呪われた剣を弾き飛ばす。
「な、なん……」
なんで。どうして。
何も理解できず言葉にできないシズシラを背に庇ったまま、ヨルはふふと笑った。
「血赤珊瑚の長のご温情だね。言ってなかったけど、シズシラが対処しきれない問題がシズシラを襲った時だけ限定で、僕はこの人間の姿に戻れるんだ。君には秘密にするようにって血赤珊瑚の長はおっしゃってたけど……まあ不可抗力ってことで」
愛されてるね、と笑み混じりに続けるヨルに、シズシラはぐっと唇を噛み締めた。そうでなければ、涙があふれてしまいそうだったからだ。
お母様、と、ここにはいない母を思う。
誰よりも厳しくて怖い母だけれど、同じくらい彼女が慈悲深いことを、シズシラは確かに知っていたはずだった。
それなのにそのことをすっかり忘れていた自分を恥じる。
お母様、ありがとうございます。
そう内心でつぶやくシズシラと、久々の人間の姿にいまいち勝手が掴めないのか、ぶらぶらと手を振っているヨルのことを、老婆の赤い瞳がこれ以上ないほどまがまがしい光を宿してにらみ付ける。
「おのれ……! 若造め、我が魔法の露と消えるがいいわ!」
「それはこっちのセリフかな」
「なっ!?」
何の詠唱もなく老婆の手から放たれた衝撃波を、同じく何の詠唱もなしにヨルが一瞬で紡ぎ上げた結界が阻む。
すごい、とシズシラは呆然としながらもヨルの姿に見惚れた。
彼が実際に魔法を行使しているところを見るのはこれが初めてだ。
母をはじめとした長老達が幾度となく〝天才〟と称し、また、これまでの旅で目にしてきたヨルの魔法の結果を鑑みるに、確かにヨルは稀代の魔法使いなのだろうとはぼんやり理解していたつもりだったけれど、それが本当にただの『つもり』であったことを思い知らされる。
かつての長老の座にすら上り詰めた高位の魔女の攻撃魔法を、ほこりでも払うかのように打ち捨てるなど、並大抵の真似ではない。
すごすぎる、と、言葉もなく事態を見つめることしかできないシズシラの前で、ヨルは自らの魔法の媒介として、シズシラのレイピアの切っ先を老婆へと向けた。
「〝ユオレイル・ノッテ・フォルトゥランの名の下に〟」
静かな、確かな、魔法の行使の宣誓だ。
レイピアから雷がほとばしり、宙を切って老婆を襲う。
かつて赤稲荷の長と呼ばれた魔女は、そうして、悲鳴を上げることを叶わぬままに雷に貫かれた。
反魂術により無理矢理現世に繋ぎ止められていた肉体が崩れていく。
そのまま彼女は塵になるかと思われた。
だがしかし、それで大人しくこの世を去るようなかわいらしい根性であったのならば、こんな事態に陥っている訳がなく。
「お、のれ……! せめ、て、すべての元凶、ターリアだけ、で、も……!!」
ぼろぼろと崩れ落ちていく老婆の指先から、黒く鋭い光が放たれる。
最後の力を振り絞ったのだろう、それっきり老婆の姿は完全なる塵と消え風にさらわれていくが、彼女が最期に放った黒い刃はまっすぐに、座り込んだまま動けないターリアを狙う。
「あ、しまった」とヨルが再びレイピアを構えるが、それよりも先に動く存在がいた。
「ターリア姫!!」
老婆にいいように利用されたアンドルの王子だ。
彼とてもう限界であろうに、立ち上がりターリアのもとへ駆け、彼女を庇うように抱き締める。
「ぐあっ!」
「きゃああっ!」
王子の苦痛の声と、ターリアの悲鳴が重なった。
背中に黒い刃を受けた王子の身体が傾ぎ、そんな彼にターリアがすがりつく。
「ごぶ、じですか、姫」
「ええ! ええ! あな、あなたが守ってくれたから……!」
「よかった……。聞いてください、ターリア姫。俺は、あの老婆の甘言に惑わされ、許されざる罪を犯そうとしました。もはや言い訳のしようもないことです。でも」
でも、と、苦痛に喘ぎながらも、それでも王子は、恋慕の熱情を宿す瞳で、自身にすがるターリアを見上げた。
「でも、でも、どれだけ俺が罪深く、みっともなく、格好悪くても、それでも俺は、あなたを諦められない。ターリア姫、俺は、あなたのことが……」
「もう黙って! 誰か、誰かこの人を……!」
「はいはい。まだ時間の猶予があるようだから、ついでに助けてあげよう」
王子の命をかけた愛の告白、ターリアの悲痛な悲鳴に重ねて、ヨルはレイピアを楽団の指揮者の指揮棒のようにひょいひょいと操った。
その先端から銀の光が放たれ、王子の姿を包み込む。
すると王子の背の傷はすっかり癒えてしまい、彼の青ざめていた顔色は健康的な血色へと変じる。
詠唱なしで高等治癒魔法の行使までできちゃうの!? とシズシラがおののくのをそっちのけにして、回復した王子は身を起こし、真剣に、懸命に、ターリアの手を取って口を開く。
「あなたを、愛しています」
「……!」
ターリアが息を呑む。
ぶどう色の瞳が限界まで見開かれ、そして彼女の白磁のかんばせが、一気に朱に染まる。
助けを求めるように、ぶどう色の瞳が、シズシラへと向けられた。「おねえさま……」と、すがるように自分を呼ぶ姫君に、シズシラは思わず笑ってしまった。
「ターリア姫。まことの愛とは、いくら運命の相手であるとはいえ、出会ったばかりの相手に一方的に捧げるものではないのではないでしょうか。誰かとともに、ゆっくりはぐくんでいく、それもまた一つのまことの愛であるのではないかと、私は思います」
「流石シズシラ、いいこと言うね」
「ありがとう。……猫に戻っちゃったのね」
「うん。時間切れだ」
時間切れならば仕方がない、の、だろう。
そこにはもう麗しい銀の青年の姿はなく、銀の毛並みの猫が立派なしっぽを揺らすばかりだ。
いやこの猫化の魔法、本当に解けるのだろうか。
長老衆はヨルを国元に戻す気満々だが、その前に猫の姿から彼を解放しなくてはどうにもならないと思うのだが。
まことの愛を見つけなくては戻らないらしいが、これまでの国々でさまざまなまことの愛を見つけてきた気がするのに、まだ彼は元の姿に戻らないというのはだいぶまずい状況なのでは……と銀の猫を見つめるしかない。
そんなシズシラのことなどもう目に入っていないのか、熱心に懸命に、幼いながらも言葉を尽くしてターリアに愛をささやくアンドルの王子に、とうとうターリアは「もう!」と悲鳴を上げた。
「そこまでおっしゃるのなら! わたくしがときめかずにはいられないくらいに素敵な殿方になってませてくださいまし!」
「っはい! 頑張ります! ターリア姫、どうか待っていてください!」
「……わたくし、もう待つのはこりごりですの。なるべく急いでくださいましね」
「もちろんです!」
微笑ましいやりとりだなあとシズシラは疲れをにじませながらもそれでも笑顔を浮かべ、ヨルは足元でくわあとつまらなそうにあくびする。
老婆の魔力に当てられていた国王夫妻をはじめとした周囲の者達も、あたたかく年若い二人を見守っている。
かくして、リニーユッセにおいて百年をかけた〝茨姫〟の伝承は、終焉を迎えることになる。
そしてシズシラとヨルは、いよいよリュー一族の隠れ里に帰還することとなったのだった。