【6】
そうして明くる朝。
いよいよシズシラとアンドルの王子の決闘の儀が催される運びとなった。
さんさんとまばゆき陽光が降り注ぐ、リニーユッセが王城における騎士団の訓練場にて、ターリア、国王夫妻、そのほか諸々の人々をギャラリーにして、シズシラはアンドルの王子と向かい合っていた。
「逃げずによく来たな。その無謀な勇気は評価してやっていいぞ!」
「はあ……」
いや本当はそのお言葉の通り逃げたかったんですけどね、なにせターリア姫がいらっしゃいまして彼女を置いていくこともできなくてですね、などとシズシラが内心で涙しているのをまったく気付いていないターリアは、観客席から無邪気にシズシラに向かってたおやかに手を振っていらっしゃる。
「シズシラお姉様、頑張ってください! 昨夜あなた様と過ごした濃密な愛のお時間、わたくし、思い出すだけで胸が熱くなります……! お姉様が勝利されたあかつきには、今度こそこの身を捧げさせてくださいまし!」
ギャラリーがどよめき、国王夫妻が微笑ましげに今日も元気な愛娘を見つめ、アンドルの王子が血相を変え、シズシラは顔色を青ざめさせた。
各方面に多大なる誤解を与える発言を大々的にかましてくれたターリアは、熱く、そして甘く、レイピアを片手にたたずむシズシラを見つめてくる。
そんなターリアと、もはや表情が死んでいるシズシラを幾度となく見比べて、アンドルの王子は顔を真っ赤にしてぶるぶると全身を震わせた。
「魔女め、き、貴様、婚前のターリア姫に手を出すなど、なんて破廉恥な真似を……!」
「誤解です!!!!」
「ええい黙れ! 不埒な魔女め、貴様を倒して、俺はターリア姫の本当の目を覚まさせてみせる!」
シズシラとしては自分を介さずにぜひともアンドルの王子にターリアの目を覚まさせてさしあげてほしいのだが、ここまでの流れでそんなことが言える雰囲気ではない。
決闘の判定人である、ターリアと同じく百年の眠りから覚めたばかりの騎士団長が、アンドルの王子の勢いに促されて「始め!」と宣誓しちゃってくれた。
待って、まだ心の準備ができてないのに……! と泣きたくなるシズシラに向かって、王子は地を蹴り、その見事な細工の剣を振り上げた。
――――キィンッ!
剣戟が高らかに響き渡る。かろうじてレイピアで王子の剣を受け止めたものの、シズシラの剣の腕前では防戦するのが精一杯だ。
王子の剣は、たった十二歳の少年のそれとは思えないほど速く、鋭く、そして重い。重なる剣戟に、どんどんシズシラの息が切れていく。
そろそろ参りました宣言をしたいところなのに、王子の勢いはそれを許してはくれない。
下手に剣を手放せばそのままバッサリ斬り捨てられる未来がすぐそこにある。
――どうしよう! っていうか、なんか、なんかおかしい……!
王子の剣と自身のレイピアがぶつかり合えばぶつかり合うほど、奇妙なほどに体力が……いいや、生命力とでも呼ぶべき何かがどんどん奪い取られていくような感覚がシズシラを襲う。
シズシラの呼吸が、疲れから来るものではない、明らかな異常を周囲に訴えかける乱れたものになっていく。
ひゅう、ひゅうと喉が鳴る。
手が冷たくなっていくのを感じる。
気を抜けばそのままその手はレイピアを取り落としそうになるけれど、そんな真似をしたらもれなくシズシラはあの世行きだ。
周囲も尋常ではないシズシラの様子に気付いたらしく、ざわめきの中に「なんだあれは」と言いたげな響きが混ざっていく。
――も、もうだめ……!
これ以上剣を打ち合うことはできず、シズシラは前へと踏み込んでいったん王子の剣をかろうじて軽く弾き、まるで鉛のように重くなっている身体を無理矢理動かし、王子から距離を取った。
ひゅう、ひゅう。
いくら呼吸を繰り返しても息苦しさから解放されない。
だが、距離が取れたのならばこっちのものだ。
「ま、まい……っ!?」
参りました。
そう宣言するはずだったのに、ほんの瞬きの間に距離を詰めてきた王子により、それは叶わなくなる。
また身体から力が抜けていく。
剣を振るう王子は、気付けば無表情になっていた。まるで人形のようだと言っても過言ではない、なんの感情も感じさせない表情に、ぞっと冷たいものが背筋を駆け抜ける。
そろそろ優勢である王子とて呼吸を乱してきてもおかしくない頃合いというのに、彼は何も変わらない。操り人形のように剣を繰り出し、シズシラから生命力を奪っていく。
そしてとうとうシズシラの手からレイピアがこぼれ落ちた。
判定人である騎士団長が王子の勝利を宣言しようとするが、それでも王子は止まらず、シズシラを斬り捨てんと剣が振りかざされ、そして。
「シズシラ!」
そう、もう駄目だとシズシラが思う時。
そんな時、いつもシズシラのそばで、シズシラのことを助けてくれる存在がいる。
彼は、ヨルは、俊敏な動きでギャラリーの中から飛び出してきたかと思うと、王子の前に割り込んで地を蹴り、王子の手に思い切り噛み付いた。
「っあっ!?」
王子の口から始めて悲鳴が上がる。その手から剣が落ちた。
からん、と見た目よりも随分と軽い音を立てて地に落ちた剣を、ヨルが彼らしくもない険しい瞳で見下ろした。
「……魂喰らいの呪剣なんて、アンドルの王子、君、どこでこれを手に入れたんだい?」
彼のその冷徹とすら呼べる厳しい声音による問いかけに、シズシラは大きく目を見開く羽目になった。
「魂喰らい!?」
めまいすら感じるほどにもうふらっふらだったが、それでも聞き捨てならないヨルのセリフに、シズシラの声がひっくり返る。
魂喰らい。
それはリュー一族においては禁忌とされる秘術のひとつ。
その呪法をかけられた武器は、使用者、そしてその武器で襲われた者、両者の生命力を削っていく恐るべき呪具となる。
かなり古い呪法であるため、現代においてはほとんど幻扱いされているはずのものが、なぜにこの場で、アンドルの王子の手にあるというのだろう。
そろそろ立っていられなくなってその場に座り込むシズシラを庇うように立つヨルの鋭い視線に、ようやくその瞳に光を宿したアンドルの王子は、彼もまた青ざめた顔色で、背後を振り返った。
「あそこの老婆から、昨夜渡されたんだ。リュー一族の魔女を倒すのは、普通の剣では無謀だと。だからこの選ばれし英雄だけが使える剣を使えと、俺こそがターリア姫にふさわしいのだからと、あの老婆が……」
そこまで口にしたところで、王子は限界を迎えたらしい。
シズシラと同様にひゅうひゅうと荒い呼吸を繰り返し、だらだらと尋常でない冷や汗をかく王子が見つめる先。
密集するギャラリーの中で、ちょうどターリアが眠っていた塔の影になる部分だけ、ぽっかりと空間が空いていた。
なぜ誰もその異様さに気が付かなかったのだろう。
ぽっかりとひとけのないその空間、その深い影の中に、たった一人だけ、佇んでいる存在がいる。
背を曲げた小柄な姿は、王子の言う通り年老いた女のもの。
深く外套のフードを被っているその老婆は、周囲からの視線を一挙に集めたことで、ようやく確かにそこに自身が存在していることを明らかにした。
「まったく、使えない王子だねェ」
ねっとりとしわがれた声には、明らかな嘲りが込められていた。
老婆が招かれざる客人であると、誰もが気付かずにはいられないような、確固たる悪意がそこにあった。
誰も口を挟めない中で、唯一このリニーユッセの国王だけが、まさか、と、声を震わせて椅子から立ち上がった。
「その声……! 十三番目の……っ」
「ようやく気付いたかい、礼儀知らずの愚王よ」
老婆が自らのフードを振り払う。
ヒッと恐怖に息を飲む声があちこちから上がった。
フードの下からあらわになったのは、年老いてもなお黒々と輝く見事な髪と、鮮やかな赤い瞳。
深くしわが刻まれた顔はお世辞にも美しいとは言えず、その顔色は生者のものとは思えない土気色だった。
ヨルが相変わらず険しいまなざしを老婆へと向け、やがて「なるほど」と低く唸った。
「自らに反魂術を使ったんだね、百年前におけるリュー一族が十三番目の長……確か通り名は、赤稲荷の長だったかな」
「ほお? なかなか勉強しておる猫だね。その通りさ。アタシこそ赤稲荷! 百年前、アタシを無視した挙句に一族に処刑させたリニーユッセに復讐するために、今日というこの日を百年間待ち続けておったわ!」
赤稲荷と名乗りを挙げた老婆の身から魔力があふれ出し、ゴオッと鍛錬場を席巻する。
悲鳴を上げてギャラリーは倒れ伏していく中で、老婆は悠々と、未だ荒い呼吸を繰り返すアンドルの王子の元へと歩み寄る。
「ほれ、休んでいる暇はないよ。さっさとあのリュー一族の娘を片付けておしまい。そうすればリュー一族はアンドルと敵対せざるを得ず、ついでにリニーユッセとも同様だわね。楽しい楽しい、魔女狩りの始まりだ! アタシを殺した憎き一族も、これで終いよ!」
そのおぞましい叫びに操られるように、王子の手が魂喰らいの呪剣へと伸び、彼はゆらりと立ち上がる。
完全に正気を奪われてしまった王子はもはや老婆の操り人形だ。老婆が高らかに笑い、王子が再び地を蹴る。
その剣は当然シズシラを狙っているが、シズシラの体力はもう限界であり、座り込んだまま動けない。
――あ、だめ、私……。
死んじゃうんだ、と、まるで他人事のように思うシズシラに向かって、剣が振りかざされる。
シズシラ、と自分を呼ぶ声が確かに聞こえてきた気がしたけれど、もう何もかもが遠かった。