【5】
国王夫妻の提案は、その向こうに、この際ちょうどいいからターリアとアンドルの王子をくっつかせて、百年もの間、茨によって阻まれていた外交を円滑なものにしようとしている意図が透けて見えたが、まあそれは為政者として当然の考えなのでシズシラとしては文句を言う気はない。
だが、それはそれとして。
「決闘はやっぱり絶対やらなきゃいけないのね……」
「まあ手袋を拾っちゃったからね」
「だって知らなかったんだもの! ああっ! 私のばか――――!」
その夜、賓客として貴賓室に宿泊することを許されたシズシラは、わっとその場に突っ伏した。
本当は宿泊するまでもなくさっさとこのリニーユッセを後にしたかったのだが、無邪気に慕ってくるターリアへの罪悪感、そして何より、彼女の父であるリニーユッセ国王がアンドルの王子との決闘を承認してしまったために、シズシラは下手に動くことはできなくなってしまったのだ。
なんでこんなことに……とベッドに腰かけて頭を抱えるシズシラのかたわらで、悠然とベッドに足を投げ出しているヨルがぺろぺろと毛繕いをしながら、いつになく冷たさを感じさせるまなざしを向けてくる。
「浮気したシズシラにはいい薬だね」
「だから浮気って何!? 私なんかした!?」
「してないと言えば確かにしてないし、要はこれは僕の勝手な嫉妬でしかないからそういう意味ではシズシラに同情するけど、それはさておきやっぱり僕としては面白くないから今回はシズシラに厳しくするよ」
「何言ってるのよ……」
ヨルが淡々としながらもまくしたてるような早口で、一息で言い切ったセリフが、半分も理解できなかった。
とりあえず彼はご立腹らしい。
そんな風に怒られても、シズシラだってこの現状は不本意極まりないものなのに。
「うまいこと負けてほしいって言われても、そんな技量、私にはないのに……。もう初っ端から土下座して『参りました!』宣言作戦しかないかなぁ」
「あの王子の性格上、『馬鹿にしているのか!』って逆上して余計に面倒臭くなるに一票」
「ヨル、あなた、本当に今夜は私に厳しいよね……」
ついついぐすっと鼻が鳴る。
ヨルの言っていることは解らない部分が多いが、その中で解る部分については、シズシラは反論することができない。
そう、手袋を拾わなければこんなことにはならなかっただろう。
決闘なんて大それたイベントになんて持ち込まれず、シズシラはリニーユッセを後にし、シズシラを運命の相手だと思い込むターリアもいずれその気の迷いから覚めて、アンドルの王子とちゃんと正面から向き合えていたかもしれない。
それなのに明日はなぜかターリアをかけて決闘だ。
人生何が起こるか解らないとは言うが、いくらなんでもこれは想定外すぎる。
リュー一族の長老衆になんて報告をすればいいのか。
ターリア姫に運命の相手認定されたので彼女と添い遂げることになるかもしれません?
そんな馬鹿なという話である。
「一応護身用のレイピアはあるけど……」
「シズシラのあれは本当に〝一応〟だもんね。〝一応〟って評するのもためらわれるくらいにお飾りだよねぇあれは」
「ううううううっ!」
本当に今夜のヨルは厳しい、というか意地悪だ。
ひどい。
私だってこんなことになるなんて思ってもみなかったのに。
そうこうべを垂れたシズシラの耳に、扉がノックされる音が聞こえてきた。
こんな時間に誰かしら、とそちらを見遣って「どうぞ」と声をかけると、薄く開かれた扉のすきまから、華奢な肢体が部屋の中へと滑り込んでくる。
あ、と、シズシラは目を見開き、ヨルは冷ややかに瞳を細めた。
「シズシラお姉様、恥知らずにもわたくし、いてもたってもいられず、あなた様のもとへ忍んでまいりました。明日の決闘の勝利を願って、どうかわたくしを受け止めてくださいまし……!」
たたたっと蝶が舞うような軽い足取りで駆け寄ってきたターリアが、そのままベッドに腰掛けているシズシラの胸に飛び込んでくる。
わあいい匂いがするぅ……とシズシラは現実逃避したくなったが、現実逃避している間にターリアに押し倒されそうになり、無理矢理意識を現実に引き戻した。
このお姫様、儚げな外見に反して本当に押しが強いし圧も強い。
ぶどう色の瞳を恋慕に潤ませて、「シズシラお姉様……」と切なげに声を震わせるその姿、同性であるシズシラでもなかなかグッと胸に迫るものがある。
とはいえまさか夜這いに……そう、ターリアの発言をそのままかみ砕くならば正しく夜這いでしかない彼女の来訪を受け入れる訳にはいかない。
それこそリュー一族とリニーユッセの間で今度こそ戦争が勃発しかねない。
こんにちは、いらっしゃいませ魔女狩り祭。
冗談ではないので、シズシラは気を取り直して、ターリアに自身のベッドをゆずり、とにかく彼女を大人しく寝付かせる方向へと持っていくことにした。
ヨルの視線がもう本当にめちゃくちゃ痛いのだが、この際構っていられない。
「ターリア姫、もっとご自分を大切になさってください。私などに身を明け渡さずとも、もっとあなた様にふさわしいお方がいらっしゃるに違いありません」
「まあ! それはあのアンドルの王子殿下のことをおっしゃっているの?」
「ああー……。まあ、あの方にもチャンスがない訳でないのでは……」
「とんでもございませんわ!」
シズシラに促されてベッドに横たわらせた身体を跳ね起きさせて、ターリアは断言した。
あまりに取り付く島のない断言に、シズシラは流石にアンドルの王子に同情した。
昼間、ヨルとともにリニーユッセ国王と謁見した際、アンドルの王子がなぜこの国にやってきたのかについて、彼自身の口から語られている。
リニーユッセの隣国、アンドルでも、百年もの間、〝茨姫〟の伝承は語り継がれてきたのだという。
あのアンドルの王子は幼少期からその伝承を聞いて育ち、いつか自分こそが〝茨姫〟を救い出すのだと誓い、日々鍛錬に臨んでいたのだとか。
剣術の師範より免許皆伝の認定を受け、ちょうど十二歳の誕生日という記念すべき日に、彼はとうとうリニーユッセの茨の城にやってきたのだそうだ。
すべては、〝茨姫〟を救う、そのためだけに、護衛も連れてこずに、たった一人で。
その話を横で聞いていたシズシラは、アンドルの王子のあまりのタイミングの悪さに彼のことがとても気の毒になった。
ああーそれ、あと三十分くらい私よりも先にこの城に来ていたら、全部丸く収まったやつですね……と言いたかったがやめておいた。
シズシラだって当たり前だが命が惜しい。
アンドルの王子自身は気付いていないが、その事実にリニーユッセ国王も気付いたのだろう。
そして、娘であるターリアに向けるアンドルの王子の真剣な想いにもまた気付いた国王は、シズシラとアンドルの王子の決闘を承認してくださった訳だ。
シズシラにとっては「なんて余計なことを……!」と泣きたくなるような承認であった。
ああ、明日が来るのが気が重すぎて胃がキリッキリと痛む。
あとで胃薬を飲もうと誓いつつ、シズシラは改めて再びターリアをなだめるように彼女を横たわらせ、その隣に座った。
「ターリア姫。あなた様は私を運命の相手だとおっしゃってくださいますが、それはただの偶然です。あのアンドルの王子殿下の方がよっぽど……」
「いいえ」
静かに、けれど確かな力を宿して言い切ったターリアは、横たわったままふるりとかぶりを振った。
ぶどう色の瞳が、いっそ怖いくらいに澄んで、まっすぐにシズシラを見上げてくる。
知らず知らずなうちに気圧されるシズシラに向かって、ターリアは甘く微笑んだ。
「シズシラお姉様、わたくしにはあなた様だけです。わたくしを目覚めさせてくださった運命のお方。ねえ、お姉様。わたくし、本当は知っていたんですの。わたくしがいずれ呪いにより百年の眠りに就くことを」
「!」
「当たり前ですわ。だってお父様もお母様もいつだって悲しそうにしていらして……ふふ、おかしいったら。『リニーユッセの姫君は、十五歳の誕生日に紡ぎ車の呪いで眠ってしまう』っていううわさは、わたくしがわざわざ耳を澄ませなくても自然と聞こえてきたんですもの」
「それ、は」
それは、どんな絶望だったのだろう。
ターリアの周囲の者達は彼女を守ろうとしていたに違いない。
彼女が心健やかにあれるように、呪いについての話題には緘口令も敷かれたらしいが、人の口にとは立てられず、そのうわさはターリアの耳へと届くことになった。
たった十五年の人生しか保証されていない現実を、この少女はどう思っていたのだろう。
それはシズシラが考える以上に、残酷な現実であるような気がした。
「だから、と申し上げたらいいのでしょうか。わたくし、わたくしを目覚めさせてくださる方は、きっと、わたくしにとって誰よりも大切なお方になるのだろうと思いました。だって、お父様やお母様、乳母や騎士や侍女、わたくしのことを大切に思ってくださる皆様の憂いを晴らしてくださる方なんですもの。そのお方こそ、わたくしにとっての英雄であり、わたくしの運命なのだと、そう思えてならないのです。ねえシズシラお姉様。それがわたくしにとってのあなた様ですわ」
美しい詩歌をそらんじるように、夢見るように言葉を紡ぐターリアに、シズシラは何も言えなくなってしまった。
もとより、ターリアにかけられた眠りの魔法の期限は百年。
誰かがわざわざ彼女を起こそうとしなくても、百年経てば自然と彼女は目覚める、そういう魔法だ。
シズシラがターリアのもとにたどり着いた時点でちょうど百年だったのは、本当に偶然でしかないのに、その偶然をターリアは運命と呼ぶ。
その運命を、ターリアは、ずっと心の支えにしてきたことが窺い知れて、だからこそシズシラはやはり何も言えなくなる。
「シズシラお姉様。わたくしの運命のお方。あなたにこそ、わたくし、わたくしのまことの愛を捧げたいのです。わたくしがあなた様にできる恩返しは、それくらいしかない、か、ら」
だから、と続けようとしたのであろう薄紅の唇が、すぅっと小さく息を吸い込んで、そのまま閉ざされる。
どうやらターリアは相当眠気を我慢していたらしく、やがてすぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてくる。
確かな生命力を感じさせる美しい寝姿に溜息を吐いて、シズシラは肩から力を抜いた。
「また、まことの愛なのね」
「流行ってるのかなぁ」
「……流行らせたのはあなたでしょ」
「それは否定し切れないね」
のんびりとつぶやくヨルをにらみ付けても彼はどこ吹く風だ。
もう、と再び溜息を吐いたシズシラは、ターリアの寝顔をなにとはなしにじいと見下ろす。
思い込みが激しいと父王に評された姫君だが、その思い込みの裏には周囲に対する罪悪感と深い感謝が感じられ、それゆえに彼女は〝運命の相手〟にまことの愛を捧げることですべての帳尻を合わせようとしているように見えた。
『まことの愛』とは、はたしてそういうものなのか。
今日に至るまでさまざまな『まことの愛』に触れてきたはずのシズシラだが、それでもまだ解らない。
「ヨルが、ターリア姫を起こすきっかけになれればよかったのに」
「……は?」
思わずシズシラがつぶやいた発言は、ヨルにとっては予想外のものであったらしい。
珍しくきょとんと驚きをあらわにしている銀の猫に、「だって」とシズシラはターリアを起こさないような声量を抑えながら続ける。
「だってヨルがターリア姫にとっての運命の相手になれば、彼女からまことの愛が得られるでしょう? そうしたらあなたは、元の姿に戻れ……ど、どうしたの?」
ヨルからの視線が痛い。
先程も痛かったが、今はその比ではなくとにかくもうめっちゃくちゃに痛い。
視線が刃になるのならばシズシラは間違いなく即死していた。
明らかに怒気をまとってこちらを見上げてくるヨルに恐る恐る問いかけると、彼は、長い沈黙ののちに、ようやく、それはそれは深い溜息を吐き、そっぽを向いて丸くなってしまった。
「シズシラのそういうところ、嫌いだな」
「え、あ、ごめんなさい……?」
「何が悪いか理解していないのに謝るのは君の悪いくせだ。そういうところも好きじゃない」
「……ご」
「だから解ってないのに謝らないでくれる?」
こちらにちらりとも視線を向けずに、刺々しくヨルは吐き捨てた。
どうしていいのか解らずに戸惑い落ち込むシズシラにヨルは当然気付いているらしく、また彼はそっぽを向いたまま溜息を吐いた。重くて深い、鉛のような溜息だった。
「それでも僕は、君を守るよ。君を守りたいと、そう思わずにはいられないんだ」
「……えっと、ありがとう、ヨル」
「どういたしまして。おやすみ」
結局、その日はそれっきりになった。
ヨルはそれ以上何も言わずに寝る体勢に入ってしまって、声をかけられる雰囲気ではない。
ベッドをターリアに明け渡す形になったシズシラは、まさか彼女と同衾する訳にもいかずに、ソファーで一夜を明かすこととなったのである。