【3】
猫である。
つややかな銀の毛並み、青と黄のそれぞれ異なる双眸を持つ、猫好きでもそうでなくても誰もが「まあなんて美人な猫ちゃんなんでしょう!」とうっとりと笑み崩れるに違いない、それは美しい長毛種の猫が、ちょこんとヨルが立っていたはずの場所に座っていた。
先程までのざわめきを通り越してどよどよとどよめき色めき立つ傍聴席。
基本的に魔法使いも魔女も、退屈を嫌い面白いことを好む傾向にあるせいか、たった今から始まった茶番劇に興味津々なご様子である。
楽しそうで結構だ、なんて言えるのは、それが他人事である時だけだ。
当事者の一人であるシズシラとしてはたまったものではない。
そしてもう一人の当事者であるはずの……そう、そのはずであるのになぜかだんだんシズシラとしては自信がなくなってきた当事者のヨルは、自らの身体を見下ろして、ふぅむ、とひとつ頷いた。
もふもふの毛並みにあごが埋もれる。
あらかわいい、と傍聴席から微笑ましげな笑みがこぼれた。
シズシラはもうわりと限界である。
「そうだねぇ。どう? かわいい?」
「すごくかわいいけどそういう問題じゃないわよね!? えっうそでしょ!? ほんとに猫になっちゃったの!?」
夢か幻であってほしいと願いながら、しかと確かめるために銀色の猫を抱き上げる。
思いのほかずしりと重い。そしてぬくい。ぽかぽかのふかふかのもっふもふである。
確かな命のぬくもりがこの腕の中にある。
そんな場合ではないというのにシズシラは思わずうっとりと目を細めてしまった。
この抗いがたい魅力、もしかしなくてもヨルが人間だったとき以上かも……って、だからそんなことを言っている場合ではない。
ぎゅうとヨル(※猫)を抱きしめたまま、恐る恐る裁判官席を見上げる。
自分とは似ても似つかない、美しき魔女、血赤珊瑚の長が、その瞳に静謐を宿してこちらを見下ろしている。
無意識にヨルを抱く腕に力を込めてごくりと息を飲むシズシラと、その腕の中のヨルに向かって、ライラシラは静かに告げた。
「シズシラ・リュー。お前はヨルが起こした問題の解決に従事せよ。この件において、我らリュー一族は手を出さぬ。頼れるはお前自身の力と、その腕の中のヨルの力だけと心得よ。それがお前の罪に対する罰であり贖いである」
「……!」
ヨルが猫の姿に変身させられたことに対しても思ったが、今度こそ本当にシズシラは「ご冗談を!」と叫びたくなった。
自分が落ちこぼれの魔女であることは、母であり師であるライラシラがいちばんよく知っているはずなのに。
ヨルが各国でしでかしてきたことについては既にいくつか聞き及んでいる。
どれもとんでもない高等魔法の行使による騒動だ。
落ちこぼれの自分が太刀打ちできるはずがない。
お母様、お師匠様、血赤珊瑚の長様、無理です、無理無理無理無理の無理!
どうか撤回してください、他のことならなんでもしますから!
そんな気持ちを込めてライラシラを見上げるが、彼女の瞳はもうシズシラを見てはいなかった。
その称号通りの血赤珊瑚のごとき瞳は、シズシラの腕の中で丸くなっているヨル(※繰り返すが猫)を見下ろしている。
「ヨル。そなたはその猫の姿のままシズシラの補佐を。元に戻れるか否かは、そなたがまことの愛を見つけたときに解るだろう。ただ今回の問題の解決だけでそなたの犯した罪が贖われるとは思うな。そなたの罪の重さを、その無力な姿で思い知るがいい」
「これは手厳しいことを。まあ僕はこの姿でもわりと快適でいられそうですよ。少なくとも現在進行形で」
もふっと顔をシズシラの豊満とまではいかないもののそれなりに重量のある胸に押し付けてくるヨルに、シズシラはスンッと表情を消して、彼を抱きしめていた腕を解いた。
ボテッとその場に情けなく落ちてくれることを期待したのだが、早くも猫の姿に適応しつつあるらしいヨルは、くるりと宙で一回転してからスタッと華麗かつ優雅に足元に着地する。
おおー、と、傍聴席から拍手が上がった。
他人事だと思って……! とシズシラが涙目でにらみ付けても誰もがどこ吹く風だ。
その通り、他人事なのだから。
唯一ライラシラだけが、物憂げな表情でもう何度目かも解らない溜息を吐いてくれる。
唇からこぼれ落ちる赤い花弁。
机の上にそれがまた落ち、とうとう花弁の山が崩れた。
「とにかく、これはリュー一族が長老衆議会の決定事項である。シズシラ、ヨル、明日にでも第一の国へ出立せよ。異論は許さぬ。では、これにて閉廷!」
カン! とまた高らかにガベルが打ち鳴らされ、法廷を包んでいた結界が音もなく砕け散る。
これは面白いことになったぞ、やれどうする、どうしようもない、魔女狩りに向けて動くべきか、はてさて面倒なことになったな……などと呟きながら傍聴席にいた魔法使いと魔女達の姿がかき消えていく。
裁判官席のライラシラも同様だ。
残されたのは、被告席のシズシラと、猫の姿にされたヨルだけである。
「ど、どうしよぉ…………」
へなへなととうとうその場にうずくまり、今度こそシズシラは頭を抱えた。
数少ない自慢である黒髪を掻きむしりたい衝動に駆られたが、その前に、折った膝にふに、とあたたかく柔らかい感触が押し付けられる。
のろのろと顔を上げると、ヨルがその前足をシズシラの膝に置いて、じぃと青と黄の瞳でこちらを見つめていた。
「ヨル……」
「大丈夫だよ、シズシラ」
「ぜんっぜん大丈夫じゃないわよ! 私に解決できる訳ないじゃない! あな、あなただって、そんな猫の姿にされちゃって……! なに、なんなの、まことの愛って何!? しかもお母様のあの言い方、まことの愛とやらを見つけても元に戻れるか解んないじゃない!」
まことの愛。
それはいにしえよりあらゆる魔法使いと魔女が探し求めてきたものだ。
誰に聞いても同じ答えなど返ってこないそれは、魔法……特に呪いと呼ばれるたぐいの魔法の解呪法とされることが非常に多い。
まことの愛とはなんたるか。
ありとあらゆる知識を与えられてきたシズシラも知らないその答え。
もしかしなくてもこのままヨルはずっと猫の姿のままかもしれない、なんて考えたら、それだけで罪悪感と責任感で押し潰されそうだ。
とうとうぽろりと涙をこぼすシズシラの、その涙を、ヨルが身を乗り出して舐め取ってくれる。ざりり、と、肌が削られるような感覚がして痛かった。
「さっきも言った通り、僕はこのままでも別に構わないんだけど」
「構わないことないわ! あなた、あなたは、もうすぐお家に帰れるはずだったのに……!」
そうなのだ。
シズシラとともに十八の成人を迎える次の春、ヨルはとうとう親元に帰されることが決まっていた。
出会ってからちょうど十年。
いずれ彼と離れ離れになってしまうことは解っていた。
ライラシラにも繰り返し言われていた。
ヨルはいずれこの隠れ里を去り、二度と会うことは叶わなくなるのだと。
――だから、っていうのも、あったけど……!
それがこんなことになるなんて。
これこそが、悔やんでも悔やみきれないシズシラの罪だ。
少しでも自分のことを覚えていてほしくて魔法を教えたなんて、そんなのあんまりだ。
シズシラのエゴがヨルの罪を招き、そして罰を招いてしまった。
「ごめんなさい、ヨル……」
犯してしまった罪の重さを思い知る。
ぽろぽろと涙を流しながら声を震わせるシズシラの顔を何度も舐めて、そうしてヨルは、猫の姿でもそうと解るほど確かに笑ってくれた。
「僕こそごめんね、シズシラ」
「なんでヨルが謝るの。全部私がっ」
「まあそれはね、お互い様だからね」
「何がよ」
「それはおいおい」
「ちょっと!」
なんだかごまかされている気がする。
昔からそうだ。肝心なところでいつもこの幼馴染は自分のことを煙に巻く。
むっすりと赤くなったほおを膨らませてみせれば、「涙ってしょっぱいね」とまた笑ったヨルは、それからシズシラを導くようにこちらに背を向ける。
「血赤珊瑚の長のお言葉だ。さ、明日出立できるように準備をしよう」
「……うん」
ぐすっと鼻をすすって、頷きを返す。
泣いてなんていられない。こうなってしまったらもう後戻りはできない。
落ちこぼれは落ちこぼれなりに意地を見せてみせると誓うシズシラを、ヨルはなんだか楽しそうに、そしてやっぱり嬉しそうに見上げていたのだった。