【5】
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
鼓膜を確かに震わせたその言葉を反芻し、噛み砕き、それからようやく追いついてきた理解に、シズシラは首を傾げた。
理解はできたけれど、理解できたからこそ理解できない。
この美女は一体何を言っているのだろう。
「もう一度魔法を、と、おっしゃいますと……?」
「んもう! 鈍いわね! だから、この王様に、もう一度獣さんになる魔法をかけてって言ってんの!」
「ええええええええっと……!?」
なんだそれ。
どういうこっちゃと説明を求めて王を見遣れば、王は今にも泣き出しそうな、その整った造作のかんばせがもったいなくなる情けない表情で、これまた情けなく「ラ・ベルぅ……っ!」と声を震わせた。
「まだ諦めてくれていなかったのかい!? そろそろこの僕の姿を認めてくれたかと思ったのに……!」
「そんな訳ないでしょ。ああもう、泣かないでよ、うっとうしい! 大体、だまされたのはこっちなんですからね、被害者ヅラしないでちょうだい!」
「だ、だますつもりはなかったんだ。ただ、本当のことを話す訳にはいかなくて!」
「それを世間ではだますって言うのよ! この結婚詐欺師!」
「さ、さぎし……!」
がーん、と衝撃に打ち震える王を前にして、フンッとラ・ベルは鼻息荒く顔を背ける。
そんな不遜な態度でも彼女はなおも美しく、自分達の王に思いっきり無礼を働いている彼女のことを周囲の者達は責めるでもなく「ああ……」と困り果てた目で見つめるばかりだ。
このやりとり、この反応。
ようやくシズシラは、ラ・ベルがどういう存在なのかに思い至る。
「ええと、ラ・ベルさん?」
「なによ」
「あの、あなたが国王陛下の魔法を解いたということでよろしいですか?」
「……まあ、そうよ。その通りよ、極めて不本意なことにね! まったくもう! 完全にだまされたわ!!」
「えええ……」
だまされたとはこれいかに。
膝の上のヨルを見下ろしても、流石に彼にとってもこれは予想外だったのか、「おやおやおや?」と首を傾げている。
いや、「おやおやおや?」なのはシズシラの方なので、そんな他人事みたいな反応をされても困る。
とても困る。
ええええええだからどういうことですか? とラ・ベル、そして王の顔を見比べると、前者は不機嫌そうに、後者はしょんぼりと、互いに顔を見合わせた。
そして美女はフンッと顔を背け、美青年はその反応のがっくりと肩を落とす。
肩を落とした美青年、もとい若き国王陛下は、シズシラにようやく視線を寄越した。
「紹介しよう。彼女が私の妻……」
「まだ妻じゃないってば!」
「…………失礼、僕を救ってくれた女性、ラ・ベルだ。彼女のおかげで僕はこの人間の姿を取り戻したんだ」
「そ、それはおめでとうございま……」
「ぜんぜんめでたくないわよ!!」
叩きつけるような怒声にピャッと思い切り身体をびくつかせるシズシラに、ラ・ベルもそろそろまずいと落ち着いてきて冷静さを取り戻したのか、彼女は深々と溜息を吐いた。
「確かにあたしは愛を誓ったわ。ええ、そうよ、その通りよ。でも、でも!」
グッと片手を握り締め、ビシッとラ・ベルは王を指差した。
びくぅっ! と姿勢を正すシズシラと、いかにもつまらなそうに毛繕いをしているヨルの前で、彼女は叫んだ。
「あたしが愛を誓ったのは獣さんであって、この王様じゃないのよおおおおおおおっ!!」
それは血を吐くような絶叫であった。
人を指差してはいけませんと突っ込める雰囲気ではない。
ラ・ベルの叫びに、王はがくりとその場に膝をつき、周囲の者達は「そうなんですよね……」と遠い目になる。
シズシラは「ええええ……?」ともう今度こそ本当に戸惑うしかない。
そんなシズシラを置き去りに、ラ・ベルはますますヒートアップしていく。
「あたしが愛したのはふかふかの毛並み! もふもふのしっぽ! ピンと伸びたお耳にひくひく動くおひげ! 大きなお口から覗く牙だって男らしくて素敵! そう、あんなに! あんっなに素敵だったのに! それがどうしてこんなのになっちゃうのよ!?」
こんなの呼ばわりされた王は力尽きたようにその場に倒れ伏した。
流石に放っておけなくなったのか、騎士や侍女達がわらわらと王を助け起こす。
な、なるほど、と、シズシラはようやく合点がいった。
つまりラ・ベルは、獣の姿であった時の王にまことの愛を誓った訳で、現在の人間の姿の王ではないと言いたい訳だ。
そして彼女は、愛しい獣を取り戻したいと、シズシラに「もう一度魔法をかけて」という無茶振りをかましてくれたのだろう。
そんなことあるのかと王の周りの人々に戸惑いの視線を向けると、彼らは諦め切った表情で全員が全員頷きを返してくる。
な、なるほど、そういうこともあるらしい。
「いやあのでも、今の国王陛下だってとっても素敵だと思うんですが……」
「美形なのは認めるけど好みじゃないの。あたしはもっと男臭い方が好き」
「…………」
そうと言われてしまってはどうしようもない。
個人の趣味趣向は流石に魔法でもどうにもできないのだから。
えーっと、これはどうしたものだろう。
そういえば三枚目の書状をまだ読んでいなかったなぁとぴらりとそれを開いたシズシラは無言でそれを見なかったことにしたくなった。
三枚目も、女王の筆によるものだった。
――息子の想いびとの願いを叶えてやってほしい。
いやそれってまた息子さんを獣に変えてくれってことですよね!? と天を仰ぎたくなった。
なんということだろう。ヨルがしでかした問題が解決されているのならばと一瞬安堵したというのに、その問題が解決されることで新たな問題が浮上している。
これ、長老衆の皆様方、またシズシラのことを〝トカゲのしっぽ〟扱いしている気がする。
元よりラ・ベルの願いを叶えるような魔法などシズシラには行使できないが、行使できたにしてもそれをやったらいろいろおしまいなことも解る。
――どうしたらいいの!?
内心で悲鳴を上げて、膝の上のヨルを気休めに撫でさする。
シズシラが困り果てていることに、がっくりしょんぼりし切っていた王もようやく気付いてくれたらしい。
「とりあえず、魔女殿、そして銀の魔法使い殿。しばらく我が城に逗留してくださらないか。相応のもてなしをさせていただこう」
「その滞在の間に、この人のこと、獣さんに戻してちょうだいね!」
王の提案に、ラ・ベルが満面の笑顔になってグッと親指を立てた。
それまでの不機嫌な表情もさることながら、やはり美女には笑顔が一番似合う。
その美しい笑顔の横で、涙ぐんでいる王の姿は見なかったことにして、とにもかくにもシズシラとヨルは、ロズィエリストが王城に滞在する運びとなったのである。