【3】
ああ、着いちゃった……と遠い目になるシズシラは、侍女に案内されてソファーへと腰を下ろさせられる。
ヨルがひょいっと膝に飛び乗ってきた。
王の手前、彼を無理矢理下ろそうとしたのだが、その王ご本人に「そのままで」と言われてしまってはどうしようもない。
大人しく頭を下げるシズシラに頷いて、定位置であるらしい上座の席に座った王は、そうして微笑ましそうにこちらを見つめて笑った。
「お二人は仲がよろしいんだな」
「そうだよ。うらやましいかい?」
「こっこらヨル!」
「はは、そうだな。うらやましいとも。ああ、うらやましい。うらやましくてならない。私も……僕もつい先日までは彼女と……ラ・ベルとあなた方のように……ああ、ラ・ベル……僕は……」
ずぶずぶずぶずぶ。
そんなオノマトペが似合いそうな様子で、王のかんばせが憂いに沈んでいき、ついでにこうべも垂れていく。
周囲の騎士や侍女達がそっと目頭を押さえて「おいたわしい……」と頷き合う。
だから一体なんだというのだろう。
このまま放っておけばドツボにハマり何も話が進まないであろうことを悟ったシズシラは、「あの」と一言言い置いてから、改めて異次元鞄から、前ロズィエリスト女王がリュー一族に寄越した依頼状を取り出し、テーブルの上に広げた。
「この通り、ロザリンド女王陛下から依頼を頂き、私はロズィエリストまでやってまいりました。前女王陛下がおっしゃる『憂鬱』とは、王子殿下……今は国王陛下となられたあなた様にかけられた、獣化の魔法を解くことであると理解しているのですが、その魔法は既に解けているということでよろしいでしょうか……って、あの、もしかして、この前提が間違っていたり……?」
繰り返しになるが、前女王陛下からリュー一族へと届けられた依頼書には、『我が息子を襲った憂鬱を、至急祓ってほしい』と記されていた。
女王の息子とはつまり目の前の国王陛下たる青年であり、てっきりヨルが彼のことを獣に変えたことこそがその『憂鬱』であるとばかり思っていた。
いたのだがしかし、だんだん自信がなくなってきた。
なにせ、王をはじめとした周囲の面々の誰もが、きょとんと瞳を瞬かせ、顔を見合わせあい、解せぬとばかりに首を傾げあっているのだから。
どういうことなのかときょろきょろ周囲を見回すシズシラの様子と、テーブルの上の依頼書をしばし見比べていた王だったが、やがて彼ははっと息を飲んだかと思うと大きく頷き、ポンと右手の拳を左手の手のひらにのせた。
「……ああ! なるほど! そういうことか。ようやく合点がいった。すまない、魔女殿。この母上からの依頼書は、私が銀の魔法使い殿に獣にしていただく以前に、リュー一族の隠れ里へ秘密裏に送ったものなのだ」
「は、はい?」
獣にしていただく前、とは、思ってもいなかった発言である。
いくつか答えが解らない疑問が湧いてくる。
依頼書がリュー一族の元に届いた時期についての疑問、そして王が「獣に『していただく』」とわざわざ感謝と思われるものを込めた丁寧な言い回しをしたことに対する疑問だ。
あれ? あれあれあれ? と、シズシラの頭がことりと傾いた。
なんだか、ものすごく、聞いていた話と違う、というか、聞いていたつもりになっていただけで実は自分が思い込んでいたなのでは、と、ようやくシズシラは気付いた。
そしてちらりと見下ろしたテーブルの上の依頼書。
その文末に、さらりと記された日付、は。
「に、二年前……?」
呆然とつぶやけば、王は「お気付きになられたか」と微笑み、さて、とその両手を膝の上で組み合わせる。
「話は長くなるのだが、聞いていただけるだろうか?」
「よろしくお願いします……!」
としか言えなかった。
だらだらといまだかつてない冷や汗が背中を伝い落ちていく。
そんなシズシラに気付いているのかいないのか、うむ、と、若くありながら一国の王である青年は鷹揚に頷き、そして「まず、私の育ちから話そうか」と口火を切った。
そも、このロズィエリストは、現国王たる青年の父である先々代国王が十数年前に崩御した後、その悲しみに浸る暇もなく、ロズィエリストの肥沃な大地を狙って周辺諸国からの侵略の危機に直面した。
そこで立ち上がったのが、亡き先々代国王の妃であり、現国王たる青年の母である、ロザリンド前女王陛下であった。
彼女は自ら軍を率いて前戦に立つこととなり、その間、生まれたばかりであった王子殿下――現国王陛下たる青年――は、旧くよりロズィエリストが王族と懇意にしていた妖精の一人である醜い年老いた老婆の妖精に預けられることとなった。
ロザリンド前女王が戦で勝利を収めて帰国した頃には十数年が経過し、王子は見目麗しい、薔薇を産む国と呼ばれるロズィエリストの王子の名に相応しい見目麗しい青年へと成長していた。
ここでヨルが「自分で見目麗しいとか言っちゃうとこだよね」とシズシラにしか聞こえない声量でつぶやき、その狭いひたいをシズシラにぺしんと叩かれた。
閑話休題。
とにかく、美しい青年へと成長した王子は、これから女王である母とともにロズィエリストの内政に努めようとしたのだが、ここで問題が発生した。
乳母役として王子を育てていた醜い妖精が、美しく成長した王子に目をつけ、自らこそ彼の結婚相手に相応しいと言い出したのだという。
「行きすぎた母性にしてもだいぶ気持ち悪いね」とまたヨルがシズシラに以下省略。
いくら大恩ある妖精相手であるとはいえ、女王も王子も妖精のそんな望みを叶えられるはずがない。
特に王子にとっては、妖精はあくまでも育ての親でしかなく、結婚相手になど考えたこともなかったのだそうだ。
そりゃそうでしょう……とシズシラが頷くと、王は遠い目になって、ありとあらゆる手で自分に迫ってくる妖精(※お世辞にも美しいとは言い難い老婆)から逃げ惑う日々について切々と語ってくれた。
育ての親である老女からのハニートラップに悩まされる思春期。
軽く地獄だろうな……とシズシラも遠い目になった。
そんな息子の姿を見かねた女王が、助けを求めてリュー一族に依頼書を送ったのが、二年前。
それがこのテーブルの上に広げられた書状であるという訳だ。
「に、二年間もお待たせして申し訳ございません……」
「いや、構わない。私も母上も、仕方のないことだと理解していたんだ。依頼書を送った当時はまだ戦後間もなく、我が国も混乱が続いている時期だった。リュー一族から色良い返事が頂けなかったのは当然だ。ほんの少し前まで戦禍の中にあった我が国に下手に手出しをすれば中立を貫くべきリュー一族の沽券に関わり信用問題にも発展しかねないし、旧き妖精族を敵に回しかねない真似などする訳にはいかなかったのだろうからな」
「寛大なご返答、リュー一族を代表して心より御礼申し上げます……!」
自分がやらかした訳ではないのに罪悪感がものすごくて頭を下げるシズシラに、ははははは、と王は笑った。
乾いた笑いだったしその目はやはり遠いところを見ていた。
周囲の騎士や侍女達ではないが、初対面のシズシラすら「おいたわしい……」と目頭を押さえたくなるような疲れ切った姿だった。
思い出しただけでこうなるのだから、当時の彼の心労は相当なものだったと言えよう。
二年。
二年だ。
長きを生きる妖精にとっては大した時間ではなくとも、十代の青年には永遠にも等しい時間に思えたことだろう。
二年もの間あの手この手で迫ってくる妖精は、とうとう数ヶ月前、業を煮やした強硬手段に出ようとしたのだそうだ。
平たく言えば夜這いである。
シズシラはひえ、と顔を引きつらせた。
なかなかアグレッシブな老婆である。
肌もあらわな、扇情的な夜着を身にまとってベッドに乗り込んできた妖精に、王子は比喩でも誇張でもなく死を覚悟したのだという。
大袈裟な、ということはできなかった。
結果はどうあれ、王子、ロザリンド女王、そしてロズィエリストが、その妖精に大恩があるのは疑いようのない事実だ。
無礼打ちなどにしたら、他の妖精も敵に回すことになる。
妖精の力を借りて薔薇を産出するロズィエリストには致命的な所業だ。
相当気の毒な当時の王子、現国王に同情の視線をつい送ると、彼はようやくその表情を緩め、「そんなあわやという時に」と一呼吸置いて、シズシラの膝の上のヨルを見つめた。
その瞳には怒りはなく、ただ確かな感謝の光が宿っている。
「私は銀の魔法使い殿に救われたのだ。妖精を諦めさせるために私の姿を醜い獣の姿に変えてくれた。私がひと吠えしてやったら、妖精は悲鳴を上げて逃げ去ってくれたぞ。いや、本当に見ものだったな。いつも悲鳴を上げて逃げ惑っていたのは、僕の方だったのに……」
「陛下、お言葉が」
「あ、ああ、失礼。とにかく、今『私』がこうしてあれるのは、銀の魔法使い殿のおかげなのだ」
侍従に耳打ちされて一人称を訂正したかつての王子は、ありがたいことだと微笑んだ。
麗しい、薔薇のような微笑みだ。
周りの者達が皆、男女問わずうっとりとほおを薔薇色に染めて感嘆の吐息を吐いて彼に見惚れる。
シズシラも、わあ綺麗な笑顔、と感心していると、膝にちくりと痛みを感じた。
悲鳴を上げるほどではないが、気にならない訳ではない痛みにそちらを見下ろすと、ヨルが半目になってじっとりとこちらを見上げている。
なぁに、と首を傾げると、ツンとヨルは顔を背けた。
変なの、と、思いつつもその丸い背中を撫でて、改めてシズシラは王を見つめる。
どこからどう見ても麗しい王様である。
彼が醜い獣の姿だったなんて、にわかには信じられない事実だ。
と、そこまで考えて、あれ? とシズシラは目をぱちぱちと瞬かせる。
ちょっと待ってほしい。
「あの、陛下」
「なんだろうか」
「ヨルに……銀の魔法使いに、獣の姿に変えてもらったとおっしゃいましたが、その後、どうやってそのお姿に……?」
「それなんだ!」
「うわはい!?」
それまでの穏やかな様子から一変して、今にも泣き出しそうにその麗しいかんばせを歪めて、ダァン! と王はテーブルに拳を叩き付けた。




