第4章 美女と野獣【1】
シュヴァルツヴァルトを後にして、三日が経過した。
時折の休憩を挟みつつも、箒に乗って急ぐその先、向かうは美しき薔薇の国、ロズィエリストである。
十数年前に国王陛下が天の国へと旅立ち、その不在を狙って侵略してきた他国に対して、王妃であった女性が女王として立ち、敵軍を迎え撃とうと自ら先陣を切ったというのは有名な話だ。
戦は長引き、女王が勝利を収めたのはつい数年前のことである。
ようやく平和を取り戻したロズィエリストに新たなる火種をぶち込んだのが、他ならぬヨルであるのだと知らされた時、シズシラは今度こそ魔女狩りが始まっちゃう……! と頭を抱えた。
リュー一族が長老衆も、「またなんて面倒くさ……じゃなくて厄介なことを」と事態の大きさを案じたらしく、今回も今回で「とにかく礼を尽くして迅速な解決を」との沙汰が下っている。
そりゃそうだ。
ロズィエリストはその名の通り、『薔薇を産む国』である。
彼の国で育てられて咲き誇る薔薇の美しさは〝限りある命の宝石〟とすら呼ばれ、種子は同量の宝石と取り引きされる上に、リュー一族にとってはシュヴァルツヴァルトに住まう七人のドワーフが採掘する宝石と同様に、一級品の魔法の触媒とされるのだから。
魔女や魔法使いばかりではなく、旧くから高名なる妖精達とも親交の深いロズィエリストを敵に回せば……考えたくもない。
非常にまずいことになる。
戦上手の女傑を頂点にいただくロズィエリストが本気を出して魔女狩りを始めたら、いくらリュー一族と言えど無傷ではいられないだろう。
そんなロズィエリストに対し、ヨルが何をしでかしたか。
――我が息子を襲った憂鬱を、至急祓っていただきたい。
シズシラが長老衆議会を介して渡された女王からの書簡には、そう記されていた。
憂鬱とはなんぞや。
むしろシズシラの方が憂鬱になる響きである。
また今度は何をしたの!? と三日前の野宿にてヨルを問い詰めたところ、曰く、女王の一人息子である麗しき王子殿下の姿を恐ろしい獣のそれへ、ついでに彼のそば付きである侍女や衛兵を彫像へと変じさせてしまったのだという。
それ憂鬱どころか厄災じゃない! と悲鳴を上げたのは記憶に新しい。
「なんでまた王子殿下を獣になんて……しかも周りの人達まで巻き込んで……!」
考えれば考えるほどヨルがなぜそんな真似をしたのかが解らなくなっていく。
いや、これまでの問題のあれそれも大概「なぜそんな真似を」と言いたくなるような所業だったが、今回もこれはこれで大概なものである。
箒の柄の先端に器用に座っているヨルの、猫にしては大きく、人間と比べれば随分と小さい後ろ姿を恨めしげに睨みつけると、彼は首だけでこちらを振り向いて、にっこりと笑った。
「僕は〝まっとうなる善意の魔法〟を施しただけだってば」
「またそれ!?」
「僕なりの厚意、思いやりだよ。旅行のついでの」
「『ついで』にやらかしてきたことがとんでもなさすぎるのよ!」
「そうかなぁ」
「……」
これ以上何を言っても無駄だろう。
シズシラがもう何も言えなくなってしまったことに気付いたらしいヨルは、再び前方を向く。
ゆらゆら揺れるしっぽを見つめながら、シズシラはこっそり溜息を吐いた。
本当に彼は、ヨルは、一体何を考えているのだか。
昔から何を考えているのか解らないところはあったけれど、それでも彼がシズシラにくれる優しさを、差し伸べられる手のぬくもりを疑ったことはない。
シズシラにとってヨルはたった一人しかいない大切な幼馴染だった。
リュー一族の隠れ里には同年代の少年少女達がちゃんといたけれど、誰もが皆、母ライラシラとは違って落ちこぼれのシズシラを見限り、さっさと広い世界に飛び立って行ってしまった。
残されたのは、隠れ里から出られない、そんな勇気も持てない、シズシラだけ。
ヨルがそばにいてくれたのは、彼がいずれ国元に返されることが決定事項であって、わざわざ隠れ里から出て行く必要などなかったからなのかもしれない。
だからこそ、先達てヨルが彼曰くの小旅行とやらに旅立つ前日、「ちょっと出かけてくるね」と言われた時、なぜだろう、シズシラはもう彼が帰ってこないかもしれないとすら思ったものだ。
あれは月が綺麗な夜だった。
真夜中にわざわざ訪ねてきた彼は、いつもと同じようでなぜだか違うように見える、けれどれそのとびきりの美しさだけは何一つ変わらない笑みを浮かべて、こちらを見つめていた。
――シズシラ、好きだよ。
――私もあなたが好きよ?
今更何を言うのだろうと思った。
ヨルはシズシラにとってたった一人しかいない大切な幼馴染だ。
今までも。それからもちろんこれからも、と言いたいけれど、それは言ってはいけないことのような気がした。
いずれあるべきところに帰るヨルを縛り付けるような真似はしたくなかった。
けれど、ただ、彼のことが好きだという気持ちには嘘もいつわりもなくて、だからそのままの気持ちを口にして首を傾げてみせると、彼はその美しい笑顔を苦笑に変えて、それから「まあ、うん。それでいっか」と肩をすくめてみせた。
その次の日の朝には、ヨルの姿は隠れ里から綺麗さっぱり消え去っていた。
シズシラは詳しくは知らないが、彼の不在について、長老衆は相当慌てさせられたのだとか。
シズシラも母から「行き先を聞いていないか」と問われたが、何も一つ聞かされていないことを伝えると、それ以上ライラシラは何も言わなかった。
それからしばらくして、驚くほどあっけなくヨルは帰ってきた。
その腕に山ほどのお土産を抱えて、ひょっこりとシズシラの家にいつものように顔を出した。
そしてその数日後、ヨルが旅先でしでかしてきたことがおおやけになり、シズシラもまたその責を問われることとなり、そのまま今日に至る訳だ。
――何を考えているの?
猫の姿に変えられたせいなのか、それとももっと別の理由か、今までよりももっとヨルの存在が遠く感じられてならない。
ねえヨル、と、内心で呼びかけた、その時だ。
「シズシラ、あそこだよ」
「あ……」
肩越しに振り返ってきた銀の猫に促されて見た先にあるのは、荘厳なる美しき城。
季節を問わずに咲き誇る薔薇に囲まれた、麗しのロズィエリスト、その王城である。
王城ばかりではなく、その城下町の美しさもうわさに聞く通りだ。
あちこちで咲き乱れる薔薇が、上空のシズシラの鼻にまで届くようだった。
数年前までの戦禍が嘘のように、城下町は薔薇の香りで満ち、人々の顔には笑顔があった。
「すごい、なんて綺麗なのかしら。ねえ、ヨルがくれた薔薇もあの町で買ったの?」
「そうだけど」
「そっかぁ。お母様に借りた保存器に入れてきたけど、まだ綺麗に咲いていてくれるかな?」
「さぁね」
なんとも気のない返事である。
ヨルがシズシラへと持ち帰ってきたお土産の中にあった、美しい大輪の薔薇。
見事なレッドベルベットにシズシラはうっとりと目を細めたものだ。
あれほど見事な薔薇は、ロズィエリストでもなかなか手に入らないに違いない。
他ならぬ自分のためにとヨルが選び手に入れてくれた、彼の心遣いがシズシラは素直に嬉しかった。
だからこそ、母に頭を下げてドワーフ手製のガラスの特注保存器に薔薇を丁重にしまってきたのだけれど、その薔薇とともにとんでもない問題も押し付けられることになった件については喜べない。
普通に辛い。
話はずれたが、とにもかくにも目的地には到着した。
箒を操り、ひとけのない公園の茂みに着陸し、いよいよ王城の正門へと向かう。
大きな門扉の前に、立派な体躯の門番が二人、その手に槍を持ち侵入者を拒んでいる。
彼らのいかめしい表情に、それだけでシズシラは後退りしそうになった。
「ね、ねえ、ヨル」
「なんだい?」
「やっぱり夜に、こっそり忍び込んだらだめかしら?」
「見つかった時のリスクが高すぎるでしょ。今回はちゃんと女王からの依頼書も持ってきてるんだから、それ見せれば一発だろうから、ほら、自信持って」
ヨルの言うことはごもっともである。
ほら、と促されて、異次元鞄から、長老衆から寄越された、ロズィエリストの薔薇の紋章が咲き誇る書状を取り出す。
ごくりと息を飲み、一歩足を踏み出す。
その足に、するりとヨルが絡みついてきた。
ふかふかのぬくもりに驚くほど緊張が解けていくのを感じながら、いざ、と門番の元へと今度こそ勇気を振り絞って向かう。
「あ、あの!」
「……なんだ」
意を決して声を張り上げると、低く唸るような声が返ってくる。
びくりと身体が震えたが、その震えを押し殺し、持っていた書状を門番の前に突きつけ、ついでに被っていたローブのフードを取り払う。
陽の下であらわになった黒髪と赤い瞳にハッと息を飲む門番二人を前にして、リュー一族の魔女、シズシラ・リューは丁寧に一礼してみせた。
「ロザリンド女王陛下のお招きにあずかりました、リュー一族が魔女、シズシラ・リューと申します。急ぎ陛下に……っ!?」
お取次ぎを、と、続けるつもりだったのだが、それは叶わなかった。
左右から、肩を、それぞれ二人の門番にガシッと掴まれたからだ。
えっ!? と目を見開き彼らの顔を見比べると、シズシラの視線の先で、門番はそれまでのいかめしい表情をかなぐり捨てて、ぶわっと泣き出した。それはもうぶわっと。
あまりに景気のいい泣きっぷりにおののくシズシラの肩を左右からがっちりと掴んだまま、門番達は頷き合った。
「お待ち申し上げておりましたあああああ!」
「であえ、であえええええい! リュー一族の魔女殿がいらっしゃったぞおおおおお!」
「急ぎ殿下……じゃなかった陛下に通達を! 門を開けろおおおおお!」
「これで陛下もようやく、ようやく……っ!」
「馬鹿野郎、な、泣く奴がいるか!」
「これが泣かずにいられるか! 大体、お前だって泣いているだろうが!」
「う、こ、これは心の汗だ……!」
「言ってろ! それよりも早く魔女殿を陛下の元へ!」
「え、あ、ちょっ、あ、ええええええええ!?」
怒涛の勢いで交わされる会話に口を挟む隙もなく、そのまま荷物が運び込まれるようにシズシラは城内へと招き入れられることとなった。