【7】
第一王子がハインリヒのことを愛しているというのならば、なおさらハインリヒのことをなんとか助けねばならない。
気休めにしかならないかもしれないが、リュー一族印の傷薬を、と、シズシラが腰の異次元鞄に手を伸ばした、その時だ。
――ばちん!
「ひゃっ!?」
「ハインリヒ!?」
シズシラの腕の中、第一王子が見つめる先で、ハインリヒの胸のあたりから何かが……ではなく、その胸に巻かれた鉄の帯が弾け飛ぶ。
驚きに目を見開く周りをよそに、続けざまに更に二本目、三本目の帯がばちんばちんと弾け飛び、カラン、と床にハインリヒの背に突き立てられていたはずのナイフが転がった。
「帯の隙間にちょうど刃先が挟まっていただけみたいだね」
いやぁ、シズシラに負けず劣らずの悪運の強さだ。
そうしみじみと頷くヨルの言葉など、もう誰も聞いていなかった。
ハインリヒ、と、第一王子が声を震わせる。
その視線は彼の騎士の顔ではなく、胸元……そう、三本もの鉄の帯によって押さえつけられていた、ふんわりたわわに実る豊満な胸へと向けられていた。
シズシラもまた同様だ。
えっと、とシズシラは第一王子と未だ目覚めないハインリヒの顔を見比べて、ことりと首を傾げる。
「ハインリヒさんって、もしかしなくても、女性でいらっしゃる?」
「そういうことだね。ほら騎士殿、いつまで寝たふり続けているんだい? 君の王子がお待ちだよ」
「っこの状況で、目覚めてますなんて言える訳がないだろう!」
ヨルの言葉にハインリヒがシズシラの腕から跳ね起きた。
たゆん、と胸が揺れる。
わあ、おっきい……と、自らのそれよりも豊かな彼、もとい彼女の胸にうっかり目を奪われていると、ハインリヒは顔を真っ赤にして、すぐそばで呆然と硬直している第一王子に向かって平伏した。
「申し訳、ございません……! 私、私は、あなた様をたばかっておりました!」
申し訳ございません、とひたいを床に擦り付けんばかりに頭を下げて再度そう繰り返すハインリヒの声は震えていた。
その震えは、大切な主君をだましていたという事実を責められることに対する恐怖ばかりではなく、他ならぬ第一王子その人からの信頼を、好意を、失おうとしているかもしれないという現実に対する恐怖であることが、不思議とシズシラにも伝わってきた。
「申し訳ございません、申し訳……」
「……ハインリヒ、というのは、偽名かい?」
第一王子の静かな問いかけに、とうとうぽたぽたと涙を床に落とし始めたハインリヒの肩がびくりと大きく跳ねる。
そうして、彼女は、はい、と小さくその伏した状態のまま首肯した。
「私は、本当の名を、ヘンリエッテと申します。幼い頃、騎士に憧れる私を馬鹿にせず、夢とは自ら叶えるものなのだとお教えくださったあなた様の騎士に、私は、わた、し、は……」
「……そうか」
ぺたぺたと足音を立てて、第一王子はハインリヒーーまことの名をヘンリエッテという乙女のもとにより近寄った。
第一王子殿下、と思わず声をかけようとしたシズシラの口を、ヨルがふにふにの肉球で押さえてくる。
黙って見ていろということらしい。
こういう時のヨルはいつだって正しいので、大人しく口を閉ざし、そっとその場を離れて壁に寄る。
ほとんど二人きりのような状態にされたことを悟った第一王子は、醜いカエルなりにキリリと顔を引き締めて、そして、ぺたっとひれ伏すヘンリエッテの肩に手を置いた。
「どうか、顔を上げておくれ」
「できません……! 私はもう、殿下のおそばにいられる資格を失ってしまったのに」
「ああ、その通りだ。騎士としてのハインリヒを、もう私のそばに置いておくことはできない」
「っ!」
「だが、ヘンリエッテ。私の妃として、君に私のそばにいてほしいと望むのは、わがままが過ぎるだろうか」
「……!」
バッとヘンリエッテが顔を上げた。ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる若葉色の瞳が、月明かりの下で瑞々しく輝く。
みるみるうちに顔を赤らめていくヘンリエッテは、シズシラの目から見ても美しい、恋する乙女の可憐な姿だった。
ヘンリエッテ、と、もう一度、確かめるように第一王子がその名を呼ぶと、くしゃりとヘンリエッテの顔が更に歪む。
その唇がわなないた。
「おしたい、して、おります。殿下、幼かったあの日にお会いして以来、あなた様を想わぬ日は、一日とてございませんでした。私は、ヘンリエッテは、あなた様を愛しております……!」
ぽたっと、大粒の涙が若葉色の瞳からまたこぼれ落ち、それが真正面にいる第一王子の頭に落ちる。
そして、次の瞬間、彼の身体が光り輝き、それから、瞬きののちに。
「でん、か」
「――ああ、ヘンリエッテ。私の愛しい人よ」
「殿下!」
輝きの収束した場所に座り込んでいたのは、雄々しくも優しい人柄がにじみ出る、他者を不思議と安心させるような顔立ちの、素敵な青年だった。
ヘンリエッテが彼に抱き付く。
殿下、殿下、と、子供のように泣きじゃくる彼女を固く抱き締めて、青年は――第一王子は何度も頷きを返している。
「シズシラ」
「うん」
ヨルの呼びかけに、シズシラは頷いた。
これ以上この場にいるのは野暮というものだ。
異次元鞄から箒を取り出し、足音をひそめて大窓を開け放ち、バルコニーから箒に乗って飛び上がる。
おしあわせに、とシズシラが小さくつぶやいた声は、まことの愛を証明した若い恋人達に届いただろうか。
ああ、ほら、空が白む。
太陽が昇る。
夜明けだ。
「……まことの愛って、意外とすぐそばにあるものなのかもね」
「さて、どうだろうね」
「もう、あなただって元に戻らなきゃいけないのよ? 他人事じゃないんだから」
「はいはい解ってるよ」
夜明けの風に銀の毛並みを遊ばせるばかりで、ちっともまともに取り合おうとはしてくれないヨルに、もう、ともう一度シズシラは溜息を吐いて、そして気付く。
「あなた、もしかしなくても、ハインリヒさんが女性ってことに気付いてた?」
「当然だよ。見れば解るでしょ」
「私、ぜんぜん気付かなかったんだけど……」
「まあシズシラはね、仕方ないよね」
「どういう意味よ」
「さて」
「ちょっと」
「そもそもあの騎士殿が本当に男だったら、シズシラと一緒の部屋で一晩過ごすなんて真似、この僕が許す訳ないじゃないか。遅くともその時点で君は気付くべきだったんだよ」
「……心配してくれるの?」
「…………ここで〝心配〟にしちゃうところがシズシラだよね……他にあるでしょもっと他のが……」
「ええ?」
何やらぶつぶつとヨルは不満げにつぶやいているが、その声音はまばゆい朝日によってかき消されていったのだった。




