【2】
ひゅっと喉を鳴らしてその場に固まるシズシラのすぐとなり、カーテンの陰に隠れていたらしい誰かが、シズシラの喉笛に剣を突き付けている。
視線だけなんとかそちらを向く。
すぐそこに立ち、シズシラに剣を向けていたのは、一人の騎士だった。
長い栗色の髪を後頭部の高い位置で一つにまとめたどこか中世的な雰囲気を持つ凛々しい青年だ。
その瑞々しい若葉色の瞳には確かな敵意が宿り、硬直したまま動けないシズシラの一挙一動を見逃すまいと鋭く光る。
「何者だ? ここがアルトハイデルベルクが第一王子殿下のご寝室であると知っての狼藉か。ならば相応の覚悟をしてもらわねばなるまい」
「あ、あの、わた、私はっ!」
「問答無用! 曲者め、ここで私が成敗し……ッ!?」
シズシラが事情を説明しようとしても、騎士は最初から聞く耳など持ってはいないようだった。
音を立てて剣の刃が返されて、そのままシズシラの喉笛を切り裂かんと迫る。
だが、その寸前で、ガシャン! と盛大な音を立てて騎士の手から剣が落とされる。
ヨルだ。
ヨルが騎士に飛びかかり、その鋭い牙で、騎士の手に思い切り噛み付いたのである。
痛みよりも驚きで剣を取りこぼした騎士は、慌ててヨルを振り払って剣を拾い上げようとするが、その前にヨルが剣の上にちょこん、ではなくどどん、と乗っかる。
今のヨルの姿は、長毛種の猫の中でも大型に分類される猫だ。
二、三歳ほどの幼児とほとんど変わらない体躯の猫に全身で剣に乗っかられては、そう簡単には剣を拾い上げることはできない。
「どけ、この猫め! 剣は騎士の誇り、その上で寝そべるなどなんて無礼な真似を!」
「だって退いたらまた君はシズシラを狙うだろう。それこそ冗談だ。僕の前で彼女を傷付けられるとは思わないでもらおうか」
「!?!? ね、猫がしゃべ……っ!?」
ヨルが優雅に剣の上に寝そべりつつ悠々と言い放つと、騎士の若葉色の瞳が限界まで見開かれ、呆然とそのまま銀の猫の姿を見つめる。
そういえばそうだった、と、ようやく落ち着きつつある胸の鼓動を聴きながら、シズシラはヨルと騎士の姿を見比べた。
一般的に猫は人語を話さないものである。
リュー一族の隠れ里には人語を解する人間ではない生物がうじゃうじゃと暮らしていたし、先達て出会った人魚の末姫も当たり前のように人語を操るヨルのことを受け入れていたからすっかり忘れていたが、そうだった。
猫はしゃべらず、にゃあと鳴くものであると。
「あの、とりあえず話し合いを……」
「うるさい、曲者め! 私の武器が剣だけだと思うな!」
「ええええええっ!?」
ひゅんっとシズシラの顔の真横を何かが鋭く空を切っていった。
スターン! とそのままその何かが背後の壁に突き刺さる音が響き渡る。
恐る恐る振り返れば、小振りかつ薄刃のナイフが、びよんびよんとしなりながら壁に突き立っていた。
か、隠し武器……! とおののくシズシラに対し、騎士はじゃらりとその両手にどこからか取り出したナイフを、おそらくありったけ持ってザッと構える。
ひえっとシズシラが身体を跳ねさせても構うことなく、騎士は怒鳴った。
「覚悟!」
「きゃああああっ!」
「シズシラ!」
窓の外へ飛び出せばいいのに、と普段のヨルならば冷静にツッコミを入れてくれたことだろう。
だが明らかな害意を持って向けられた刃を前にして、ある意味箱入り娘であるシズシラがまともに対応できる訳がない。
悲鳴を上げてうずくまると、そのシズシラの姿を認めたヨルはチッと大きく舌打ちして、乗っかっていた剣を蹴り飛ばしついでに床を蹴る。
「なっ!? 何をする、この、この猫……な、なん、なんだこのふわふわは……! む、むぐっ!?」
「ヨ、ヨル……!」
「シズシラ、行くんだ!」
その銀にきらめく身体を宙に躍らせて、騎士の顔にもっふもふふっかふかの腹を押し付けながら、ヨルはシズシラに向かって叫ぶ。
いつも余裕たっぷりの彼らしからぬ必死ぶりは、現状がお世辞にも良いものではないことを示していた。
「あなたを置いて行ける訳ないでしょう!?」
「ええい! 邪魔だ!」
「ヨル!」
「おっと」
騎士はばりっと顔からヨルを引き剥がし、その勢いのままに自らの視界を覆っていた邪魔猫をシズシラの方にわざわざ放ってくれた。
いつぞやのように華麗な宙返りを決めたヨルをうまいことシズシラが抱き止める。
緊迫する空気が変わったのは、次の瞬間だった。
「――――ハインリヒ? どうしたんだね?」
場違いなまでにのんびりとした、あくび混じりの声が空気を震わせた。
低くおだやかな震えはささやかながらも確かに空気の色を変えていく。
自然と他人を安心させてくれる青年の声音に、シズシラは息を飲む。
何本ものナイフを構えていた騎士が、そのすべてを放り出した。
がしゃんがしゃんがっしゃーん。
床に放り出されたナイフが盛大に悲鳴を上げる中で、騎士は自身の背後に庇っていた、大きな天蓋付きのベッドへと駆け寄った。
「殿下! 出ていらっしゃってはなりません、どうかそのままお隠れに……っ!」
「そういう訳にはいかないだろう。お客人は私にご用があるようなのだから」
「こんな不法侵入の曲者など、殿下がお気にかけられるご必要はございません!」
「ハインリヒ、落ち着きなさい。さて、私からご挨拶を」
レースの天蓋が窓から吹き込む夜風にはためく。
ベッドの輪郭が改めてあらわになり、その主人がいよいよ姿を見せる。
そうして、ベッドから飛び降りてきて、座り込むシズシラと、そんなシズシラを庇うように凛と立つヨルの前に現れたのは。
「……カエルね」
「カエルだね」
「ああ、見ての通り、私はカエルの姿に今は身をやつしているが、一応はまだ、このアルトハイデルベルクが第一王子という身分にある。ごきげんよう、お客人」
ピョコン、ゲコッ。
わざわざその場で一跳びして喉を鳴らしたのは、両手に余る程度の大きさの、見事な緑のカエルである。
月と星の光に照らされて、緑色がまるでエメラルドのようにてらてらと光る。
どこからどう見てもカエルである。
そのどこからどう見ても立派なカエルが、大きな瞳に凪いだ光を宿して、シズシラとヨルを見上げていた。
確かに知性を感じさせる瞳は、ただのカエルのそれではなく、尊き身分にある貴人のもの以外の何物でもない。
カエルの背後で、いつでもシズシラに襲いかかれるように、いつのまにか拾い上げた剣を構えている騎士の存在に震えつつ、まじまじとカエルを見つめる。
カエルだ。
繰り返すが、どこからどう見てもカエルなのだ。
そしてここはアルトハイデルベルクが第一王子殿下の寝室であり、その寝台に寝ていたのがこのカエル。そして疑いようもない、本人の名乗り。
それが意味するところなど一つしかない。
ライラシラから渡されていた資料、そしてヨルから聞いていた話通りの姿に、シズシラはうずくまった状態から、その場で土下座をキメた。
「このたびは、大っ変申し訳ございませんでした……!」
誰もが認める見事な土下座であった。
勢い余って額を床に打ち付けてしまいかなり痛かったが、このくらいの痛みで泣き言を言っている場合ではない。
シズシラは……正確にはヨルは、カエル、もといアルトハイデルベルクが第一王子に対し、もっととんでもないことをしでかしてしまったのだから。
いくら土下座してもし足りないレベルである。




