第2章 カエルの王様、あるいは鉄のハインリヒ【1】
月が皮肉げに微笑む夜である。
美しくもどこか酷薄さを感じさせる弧を描く月の下、シズシラは箒で滑るように空を飛んでいた。
もちろんヨルも一緒だ。
誰もが寝静まる深夜こそ、魔力が大気に満ちる魔女の時間とされる。
リュー一族の赤い瞳は闇に強い。
ランプを灯さずとも、これだけの月影と星明かりさえあれば十分夜闇の中を飛ぶことができる。
落ちこぼれのシズシラだが、魔女として最低限の魔法である箒乗りだけはなんとか行使することができた。
「ちょっとヨル、動かないで! バランスを保つの難しいんだから!」
「まだ慣れないのかい?」
「最初よりはマシだけど、動かれるとそのまま一緒に転げ落ちそうになるくらいには慣れてないわ」
ぎゅうと箒の柄を握り締めて極めて真剣に答えると、なんとかシズシラのローブの下に潜り込んで暖を取ろうとしていたヨルは、「それは大変だ」とちっとも大変だなんて思っていない口振りで頷き、大人しく箒の柄の先端に近い部分でバランスを取る。
ヨルの重みで先端が固定されたおかげか、ふらふらふよふよとどことなくどころでなく不安を誘う飛び方をしていた箒は安定感をもってまっすぐ飛ぶようになる。
ほうと安堵の息を吐いてから、シズシラは赤い瞳を細めて「あそこね」とつぶやいた。
シズシラの視線の先にあるのは、鉄鋼業と建築業で栄える国、アルトハイデルベルク、その王城である。
風に遊ばれるままに後ろへと流していたローブのフードを深く被り直し、シズシラは箒の速度を上げた。
「ヨル、王子様の寝室は?」
「東棟の最上階、一番奥。目立つバルコニーがあるからすぐ解ると思うよ」
「ありがとう。えーっと、東棟はあっちね」
ヨルが見遣った先を追いかけて、東方向へと箒の柄の先端を向ける。
王城の明かりは当然ながら既にほとんど消えていて、ちらほらと夜警の兵士がランプを持って見張りに徹しているだけだ。
平和な国ね、とシズシラは夜闇に紛れながら宙を駆る。
近頃はどの国にも戦の炎は灯されておらず、人々は誰もが平和を享受し謳歌している。
だからこそ、今回ヨルが各国で巻き起こした問題は、リュー一族をはじめとした魔法使いや魔女にとって極めて悩ましく捨ておけない問題だった。
穏やかで平和な日々が続けば、人々は自然と刺激を求める。
その先にあるものの一つが、かつて大陸を席巻した魔女狩りだ。
何人もの罪なき魔法使いや魔女が、そればかりか魔法とは何の関わりもない只人が、大きな得体の知れない悪意のもとに狩り立てられた。
二度とあの悲劇を繰り返してはならないと、シズシラも幼い頃から言い聞かされていたし、七歳からはとなりで過ごしてきたヨルだってその事実と教えを理解しているはずなのに。
「……ほんとに、何考えてるのよ……」
ヨルに聞こえないように、小さく小さく、溜息を吐き出す程度につぶやく。
吐息のようなその声は、柄の先で器用にバランスを取って座っているヨルには届かない。
ゆらゆらと夜風に遊ぶ立派なしっぽを見つめながら、シズシラはがっくりと肩を落とした。
そもそもリュー一族の生まれではない彼に、自分のエゴで魔法を教えた……いいや、いっそ〝押し付けた〟自分にこそ責はあるのだとは解っている。
奇跡と禁忌の御業を教えられたら、使ってみたいと思うのは当然の心理であり自然の摂理だ。
だがそれにしても物事には限度がある。
ヨルのそれは、誰がどう見てもどう考えてもやりすぎである。
そのやりすぎた問題の尻拭い、もとい解決に、シズシラは猫にされてしまったヨルとともに奔走している訳だ。
先日は一つ目の問題であった人魚の末姫の初恋事件を解決し、此度は二つ目の問題に向かって、こうして夜を徹して空を飛んでいるのである。
向かうはこのアルトハイデルベルクが王子の寝室だ。
真っ昼間に真っ向から「たのもーう!」と声を張り上げ、これまた真っ向から「あやしい魔女め、お呼びでないわ!」と門番に突き放されたのは、つい昨日の話である。
真っ向からが駄目ならば、魔女は魔女らしく暗き道を行くしかない。
そういう訳でこうして人目を避けて真夜中に空を飛んでいるのである。
自分が母ライラシラのように各国から引く手数多の高名なる魔女だったら、きっと、いいや間違いなく「どうぞどうぞ」と招き入れてもらえたはずなのに。
そう思うとますます情けなくて、シズシラは深ぁい溜息を吐いて赤い瞳を伏せた。
落ち込んでいる暇なんてないのにと思えども、もうこうなってくると理屈ではない。
諸悪の根源の一端を担うヨルの小さな背中をついつい恨めしげに睨みつけていると、ふいに彼が首だけこちらへと振り向いた。
月影にきらめく青と黄の双眸に我知らずぎくりとするシズシラを見つめ、ヨルは小首を傾げた。
「シズシラ」
「なっなに!?」
「前。いいの?」
「えっ? ……ああああああっ!!」
眼前に迫るは王城の中庭からにょっきりと生える巨木。
天を貫かんばかりにそびえる巨木は、建国時にアルトハイデルベルクの末永き繁栄と平和を願って植えられたものであるという……なんて豆知識を披露している場合ではない。
急遽方向転換しようにも、下手に左右に揺れてはヨルを振り落としてしまうことになる。
「ヨルッ!」
片手を伸ばして銀の猫を胸に引き寄せ、もう一方の手で無理矢理箒の柄の先端を夜空へと向ける。
三日月が輝く満天の星空へと駆けようとする箒は、そのままバサバサバサッ! と凄まじい勢いで巨木の枝葉を突っ切った。
ほんの数秒、だがシズシラにとっては永遠とすら思える長い衝撃ののちに、ようやく箒は空へと飛び出す。そしてそのまま、力尽きたように落下し始めた。
「~~~~っ!!」
片手にヨルを抱き締めて、箒をかろうじて操り、シズシラはそのまま地上へと落下する道筋の中で一番近くにあったバルコニーに箒ごと飛び込んだ。
ずささささっとスライディングしつつもなんとか無事――というにはあまりにも多くの擦り傷だの切り傷だのをこさえていたが、とにもかくにも命ばかりは無事の状態で、シズシラはそのままどこの誰のものとも知れない部屋の、大きなバルコニーの中心に、ヨルを抱えて座り込むこととなった。
「ま、また死ぬかと思っちゃった……」
「流石シズシラ。悪運だけはばっちりだね」
「それ、褒めてないでしょ」
「褒めてるよ。その証拠に、ほら、見てごらん」
シズシラの腕から抜け出した無傷のヨルが、くいとあごで正面の、室内へと続く大窓を示す。
見事な細工が施された立派な窓だ。
閉ざされたカーテンの向こうまでは窺い知れないが、その雰囲気は、この部屋の主が高貴なるお方であることをありありと知らしめてくる。
「ここだよ。ちょうど王子の寝室だ」
「……!」
言われてみればここは東棟の最上階、その最奥とされる部屋のバルコニーだった。
夜目にもそうと解る豪奢でありながらも上品な造りのバルコニーは、「このお部屋に王子様が……!」と世の乙女がうっとりと胸をときめかせるに十分に足るロマンチックな雰囲気を湛えていた。
「わあ、素敵……あいたっ!?」
シズシラとて落ちこぼれの魔女である以前に年頃の乙女だ。
例に漏れず思わず感嘆の吐息をこぼすと、膝に鋭い痛みが走る。
そちらを見下ろせば、ヨルがじいとこちらを見上げていた。その爪をしっかりと、シズシラの膝に突き立てて。
分厚いローブと、その下に着込んでいるワンピース越しでも感じる痛みに、反射的に涙がにじむ。
「何するの!」と抗議の声を上げれば、ヨルは銀の毛並みを夜闇の中ですらきらめかせながら、ツンッとそっぽを向いた。
「僕というものがありながら、他の男の部屋に夜這いをかけようとしてる君が悪い」
「何言ってるの! こうでもしなきゃ、王子様に直接会えそうにないんだから仕方ないじゃない!」
誰のせいでこんな不審極まりない侵入の仕方をしていると思っているのだ。
夜這いってなんだ夜這いって。
とんだ言いがかりである。
もおおおお、とシズシラは怒りと焦り、それから困惑が入り混じる、なんとも複雑な溜息を思い切り深く吐き出してから、気を取り直すように異次元鞄から、一本の針金を取り出した。
「とにかく、まずはお部屋にお邪魔しなくちゃ」
重い腰を持ち上げて、大窓に張り付き、針金を鍵穴に入れる。
かちゃかちゃと金属が軽くぶつかり合う音がして、やがてカタン、と、窓の向こうで何かが落ちる音がした。
「よし、開いた!」
「……シズシラって、魔法については本当にどうしようもないけど、他のことについてはわりと器用だよね」
「これくらい誰でもできると思うけど」
「いや、無理だと思う」
「そうかしら?」
コツさえ掴めばこのくらいの鍵などシズシラの敵ではない。
鍵破りを教えてくれたリュー一族に出入りするとあるドワーフが、「魔女業に諦めがついたらいつでも弟子に来い!」と太鼓判を押してくれたくらいなのだから。
どうせヨルに少しばかり方法を教えたら、飲み込みも要領もいい彼はあっという間にシズシラを追い抜く鍵破り師になるだろう。
そう、シズシラから魔法を教えられ、そのまま稀代の魔法使いとなったように。
――やだな、私、まだ嫉妬してる。
全部自業自得なのに。
ヨルに嫉妬して何になるというのだろう。
長老衆議会の判決より下された罰をすべて償ったら、この気持ちにも変化が訪れるのだろうか。
飲み込むことはできなくても、せめて、もう少し折り合いが付けられるようにはなりたいものだ。
つくづく自分の身勝手さに辟易しつつ、いざ、と、窓に手をかける。
薄く窓が開かれると、夜風が窓の隙間から部屋の中へと流れ込み、ふわりとカーテンが広がった。
「行くわよ、ヨル」
「解っているとも、シズシラ」
慎重に窓を開け放すと、まずヨルが足下をするりと通り抜け、部屋の中へと消えていった。続いてシズシラもまた足を踏み出す。
王子の寝室であるという部屋は広く、けれど明かりは一つとして灯されていない。
カーテンの向こうの月影と星明かりだけが頼りになる寝室に、いざ、と身体を滑り込ませた、その時だった。
「我が主に何用だ」
「ッ!」
チャキッ、と。剣が冷たく震える音が、間近で聞こえてきた。




