理旺編
オカルト同好会の一年理旺は、書庫の椅子に悠長に座っている。
光の差さない、蜘蛛の巣が至る所に張った埃だらけの場所は、環境としては落ち着けない。窓はあるのだが、手の届かない高所にあり開けることも敵わないし、そこには闇がある事だけが確認できる。流石は現実とは事情の異なる創造世界とでも言うべきか。
そんな薄暗い中、理旺は手をゆっくりと動かしページを捲る。しかし表情は深刻だ。
「そういう事か。だとしたら、皆が危ないかもしれない」
理旺は読んでいた手記を、その半ばで閉じる。そこから先は文字が途切れており、読む必要がなかったからだ。
手記を拝借し、椅子を軽く持ち上げ机の下に仕舞うと、書庫の出入り扉に赴き、使用されている材質の風情ある古木に触れる。
「ここは僕にとって居心地の良い場所だ。最も、状況が状況だからそんなに落ち着くことはできなかったけど。ぜひ色んな書物に目を通したかったけど、命には代えられないから、仕方ないか……」
理旺は名残惜し気に、数十分身を置いた知識の空間に思いを馳せ、別れを告げる。
そして気を引き締める。
彼もまた、他の者と同じようにして何度かタマシイ様の姿を見ていたのだ。見聞の広く、その存在についてある程度の情報を有していた理旺は、その人影だけで彼の存在を瞬時に察知した。ゆえに、発見は一方的、タマシイ様は理旺を認識してはいなかった。
そうこうして世界の主の目を掻い潜り、至った場所がこの書庫というわけだ。
これだけ立派な大屋敷なのだから、書庫や書斎の一つはあっておかしくないというのが理旺の見解だ。だから、もとよりそこを目指していた。
書庫に籠っている間は、幸いにもタマシイ様は現れなかった。
無論、それも理旺の目論見通りだ。彼がこの一時を落ち着いていることが出来た理由でもある。
「借りさせていただきます」
片手に持つ手記は、理旺がこの書庫に入って見つけた物だ。色褪せた表紙を開けば、前書きとして自己紹介から始まっていた。
『この手記を手に取ってくれた者へ。私の名は幽玄。しがない大学一年生だ』
理旺はこの硬い書き始めに目を通し、それなりの大人も事件に巻き込まれていることを認識した。幽玄が一体どのようにしてタマシイ様の世界に入り込んだのかは、記載されていなかった。同じようにして噂の真相を確かめるためのかくれんぼ中の乱入によるものなのか、それとも別の要因があるのかは置いておくことにし、先を読み進めることにした。
『私はこの手記に、自分が感じたこと、考えたこと、その全てを記録として残そうと思う。まず、ここはタマシイ様の世界と呼ばれる場所だ。噂を知っている者ならば共通認識として有している知識だろう。では結論から言おう。この隔絶された世界から脱出することは……』
そうして続く幽玄の記録を全て読んだのが、今の理旺だ。彼には得た真実を仲間に告げる義務がある。
書庫は屋敷の一角にある。一本廊下に出た理旺は、屋敷の中心部へと歩く。光源は持ち合わせていないが、側壁の蝋燭だけで十分だった。気を張り巡らせて火の動きに注視すれば、唐突の敵襲にもある程度は対応できる。
それに加え、理旺には武器がある。数本の投げナイフが、移動を阻害しない程度にポケットに忍ばせてある。ただの投げナイフではない。刃先に聖水が塗りたくられたナイフだ。
これも幽玄が残した賜物である。手記に『書庫のタイルの下に武器を隠してある。役立ててほしい』と書いてあるので、床を触って確かめてみれば、不自然にガタつくタイルが一枚あった。そこを剥ぐった下に収められていた物だ。
幽玄曰く、タマシイ様に聖水は有効らしい。どこでもいいから体に刺さりさえすれば、倒すことが出来るそうだ。
だが、理旺はそれを知ってもなお安心は出来なかった。それ以上に重大なことが手記に書かれていたから。
それを仲間に伝えるため歩いている理旺は、屋敷の大空間に出た。大空間と言っても、部屋ではなく玄関だ。
正面には武装に包まれた勇壮な男性が槍を構えた銅像が、左右からは円軌道の階段が延びている。
残念ながら、正面玄関は開く気配が微塵もない。理旺は書庫に至る前に玄関扉を調べたが、まるで壁のようにびくともしなかったのを今でも覚えている。
この玄関から逃げることが出来ればどれだけ気が楽だったか、と重いが横切る中、理旺は声を掛けられた。
「理旺!」
楓花と桃が、理旺が通った方向とは反対からやって来た。
「楓花に……桃か。良かった、丁度捜してたんだ」
「理旺君は今までどこに?」
「書庫だよ。情報を集めた方がいいと思って」
「情報かー。私たちも色々探したけど……」
楓花は浮かない表情で、来た方を指す。
それを見て、理旺は察する。
「ああ、別館の方か。あっちは来客を泊めるための場所だから、何もなくても不思議じゃないな」
書庫の棚で埃を被っていた屋敷の記録ノートによれば、三人が今いる場所こそが本館、対の廊下を渡った先が別館である。
「何だぁ、骨折り損か……」
楓花は一人落胆する。
一方で、理旺は残る仲間が気にかかる。
「気にするな。そう言えば、先輩たちには会ったか?」
そう聞かれると、桃たちは物憂げに顔を合わせる。
「それが、先輩たちは……」
桃は先刻の事情を全て話した。一人しか存在しないと思っていたタマシイ様が多数現れ、包囲されたこと。自分たちを逃がすために、撫子と勇盛がその場を引き受けたこと。そして溢れる思いを抑え、走って逃げて来たこと。
「そうか……」
レンズ越しの理旺の目は悲しげだった。彼とて、先輩たちは入学以来数か月を共に過ごした仲間だ。心配にならないわけがなかった。
そして重い言葉を発する。
「残念だけど、先輩たちは助からない」
桃たちは目を見開く。心のどこかでは思っていた可能性の一つだが、いざ理旺に直接的に言われると、ぽっかりと穴が空いた。
「理旺、そんなに悲観的にならなくても……」
楓花は先輩二人を庇うように、そして自分たちの心を補完するために反論する。
「タマシイ様に見つかった時点で、死ぬ可能性は高い。それも多数のタマシイ様に囲まれていたならば尚更だ。武器程度の小細工では対処しきれない」
「でも、私たちは助かったよ」
確かに、桃の言う通り、二人は今こうしてここにいる。
「それは先輩たちが決死の覚悟で助けに駆けつけてくれたからだ」
「そっか……」
理旺に正論を貫かれるも、改めて二人は先輩たちが悔やまれなくなる。失って初めて気づくとは、こんなにも後悔にも似た罪悪感に苛まれることなのだと。
「でも、それでも、部長たちを簡単に見捨てることは出来ない」
楓花はまだ諦めていなかった。僅かな希望があるのなら、その可能性に賭けたいという気持ちが、真剣な眼から伝わる。
しかし、理旺の態度は毅然として変わらない。
「いいか、ここから先は僕たちが生き残るために行動するんだ。この場に先輩たちがいれば話は別だけど、正直そこまで気が回せない」
「生き残るって、ここから逃げれるの?」
絶望が希望へと、そして撫子が賭けていた可能性が現実的になることに、俯きがちだった心情が前に向く桃。
「ああ、だからこそ余所見はしていられない。それで、そのことについて二人に話があるんだ」
「話? ここで?」
だだっ広い、屋敷の正面玄関だ。薄闇に包まれたその場は、楓花が感じる通り正直落ち着かない。
「いや、もっと落ち着いて話ができる場所に行こう。大事な情報だ。ちゃんと共有しておかないと困る」
「よし、じゃあ三人で場所を探そうか」
理旺は桃から笑みを向けられる。
(この状況でも笑みを忘れないなんて……。それに今日あったばかりの僕たちのことまで心配してくれる思いやりの心。彼女なら、桃なら……)
「理旺君?」
「ああ、ごめん。じゃあ行こうか」
気を取り直して歩き出そうとした瞬間。何度も感じた異変を三人が襲う。
視界を揺らぐ蝋燭がその主な象徴だ。
「二人とも、あっち!」
楓花が指した方角、別館への廊下より忌々しい少女が迫る。
まだ距離はあるが、遠目でも三人分は確認できる。
「早速来たか。場所を選んでる場合じゃないな。……こっちだ!」
状況からして別館に逃げることは出来ない。したがって、今本館に辿り着いたばかりの桃と楓花には、頼れる土地勘は全くない。
先導する理旺の後ろを走りながら、三人は廊下を走る。
「これじゃあ鬼ごっこだよ!」
「楓花、縁起でもないこと言うな! これで捕まったらどうするんだ!」
「んーごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど……」
二人が不毛なやり取りをする中、桃は後ろを振り返る。
残念ながら気配が消えていることはなく、それどころか迫り来る圧は増大し、距離も詰まっていたのが明らかだった。
「う、後ろ! ふ、増えてるよ!」
「振り返るな! 今は真っ直ぐ走れ!」
理旺に言われ全力で走り続ける。息の乱れを感じるも、命には代えられない。
彼を信じ続けたその先には、一つの古木の扉が閉まっていた。
理旺にとっては、二人に合流する前に通った道を逆走しただけだった。まさかこんな形で再びこの場を訪れることになろうとは思いもしなかったし、早すぎるフラグ回収だ。
「この部屋に入れ!」
理旺は荒々しく扉を押し開ける。
彼に続き、二人も突進する勢いで部屋に入る。
それと同時、理旺は急いで扉を閉め、鍵をかけた。一メートルというごく短い視線の先に、タマシイ様はいたが、断絶された扉を透過して侵入することはなかった。
それだけに、走り始めが遅れていれば誰かは捕まっていただろうと、安心に加え、冷や汗をかく三人。
しばらくは扉の向こうから不気味な囁き声が聞こえたが、次第に耳に障らない程に小さくなり、周囲は静まった。
「タマシイ様、追ってこないね」
「ここは安全なの、理旺君?」
扉の付近で警戒する二人を置いて、理旺は書庫の奥へと進んでいた。
「この書庫はタマシイ様は入れない。結界……とでも言えばいいのかな、それに守られてるんだ。とは言え、安心はしていられない。こんな状況で申し訳ないけど、二人に僕がこの書庫で知ったことを話そう」
三人は机の側に集まる。理旺は服の内ポケットから、一つの手記を取り出し、机上に置いて見せる。
まずは楓花が反応した。
「これは?」
「僕たちと同じようにして、この世界に来てしまった一人の男性の記録だ」
「その人は……」
桃の問いかけに、首を横に振る理旺。
「分からない。そもそも彼がいつここに来たかは書かれていないし、桃たちが先輩以外に出会っていないなら、もう……」
「そっか……」
「で、そこにはなんて書いてあったの?」
楓花は話を戻す。
「そうだったね。まず、タマシイ様についてだ。僕たちを追っていた、アレは正確にはタマシイ様本体じゃない」
「本体じゃない? じゃあ何だって言うの?」
「あれは、事件の被害者である少女の恨みつらみが人の形として体現したもの。だから、少女が無意識に生み出してしまった残留思念とでも言うべきなのかな」
「そうだったんだ」
理旺の発言に思う所のない桃はただ頷いているが、楓花は違う。
「それなら、その分身を生み出した本人はどこにいるの?」
「それがこの世界から脱出するための鍵だ。その子を見つけることが出来れば、この悪夢の連鎖は断ち切れるはずだ」
二人はこの時、何となく察した。少女は当時のかくれんぼで見つけてもらえなかった自分を、今でも誰かに見つけてほしいのではないかと。
「分かった。じゃあ私たちでその子を見つけよう!」
帰還方法が少しずつ露わになっていく中、楓花は希望を見出し、机を両手で大きく押し叩く。
彼女に釣られ、桃も「うん!」と頷く。
しかしその時、状況は一変する。
書庫の扉が叩かれるように揺れ、軋む音が発された。
振動音と鼓動が同調し、三人は一時の安堵を掻き乱される。
「時間がないみたいだな」
「で、でも、ここは安全なんでしょ?」
「結界には効力がある。二人も見たと思うけど、タマシイ様の分身は一つじゃない。さっきの数程度なら抑えることは出来ても、それ以上に増えれば安全の保障は出来ない」
告げられた事実に、二人は言葉が出ない。なぜなら、この書庫は廊下の突き当りに存在しており、逃げるにしても侵入してきた扉を開ける必要があると思っていたからだ。
理旺はまだ諦めておらず、立ち尽くす桃に、
「桃、これを持っていて」
と手記を手渡す。
「これ、さっきの……。理旺君が持ってた方がいいんじゃない?」
そう言って手記を返そうとする桃を止める。
「今言ったことは、全部その手記に書いてあったことだ。僕はもう内容を覚えたから、必要ない物だ」
「それなら貰っておくよ。でも、これからどうすれば……」
手記を貰っても、袋小路であることに変わりはない。狼狽える二人に、理旺は書庫のさらに奥を指し示す。
「書庫の奥に隠し通路がある。本棚をずらせば現れると、手記には書いてあった。そこから逃げるんだ」
「よし、すぐに行こう!」
楓花と桃は急ぎ足で、暗い書庫の棚の並んだ道を、躓かないように進み始める。
だが、理旺は一緒には来なかった。
「理旺、何してるの!」
「僕はもう少しやることがある。先に行っててくれ」
「大丈夫なの?」
「ああ、通路さえ開けておいてくれれば、猶予は十分にある」
「分かった!」
理旺の言葉をなぜこんなにも簡単に信じてしまったのか、楓花はその後自分を責めることになるとは知らずに、さらに奥へと進む。
書庫の端に着けば、同じ見た目の棚がやはり壁に沿って並んでいる。しかしあからさまに棚一個分開いている隙間があるので、そこに向かって棚を押せば、壁の色に同化した隠し扉が姿を現した。
桃と楓花はその扉を出来る限り全開にして、灯り一つない闇の通路へと溶けていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「行っちゃったか」
理旺はぽつり呟く。今にして思えば、見え透いた嘘を易々とついてしまったものだと自虐的に笑う。
結界が崩壊するのが時間と物量の問題であるのは本当だ。結界を張った幽玄の手記にそう書いてあったからだ。
では、彼は一人ここに残り何を為すのか?
それは、
「二人が逃げられるよう、時間を稼がなきゃな」
タマシイ様の分身に抗うことだ。
理旺は聖水の塗られた投げナイフを取り出す。どこからも光の差さない書庫において、刃は神秘的に自発的に輝く。
「ふっ……もっとここの書物を読みたいとは言ったけど、まさかこんな形で実現することになるとはね」
口角が上がる彼は、覚悟が出来ていた。死という結果に対して、恐怖していないわけではない。幾人もの子供たちを世界に幽閉し、命を奪っていくタマシイ様が許せないのだ。
オカルトが存在するのは、それを好く者として歓迎できる。しかし実際に実害を与えていることに直面すれば、理旺は人としてタマシイ様の行いを看過できなかった。だからこそ、理旺はこの悪夢に終止符を打てる可能性のある桃たちに、後のことを託したのだ。
一つ深呼吸を吐く。冷静を保つために。タマシイ様の一帯も通さないために。
「さあ、かかって来い!」
そう言うと、鍵をかけていたはずの扉は、最初からそうでなかったかのようにゆっくり開く。
その先にいたのは。
「フヒヒヒ……。見ツケタヨ……」
限りなく増殖した、赤い眼の少女だった。