8話 記憶の中のノート。忘れたノート。
居酒屋を出た後、すっかり酔ってしまっていた僕たちは、とりあえず誰かの家に行って酔いを覚まそうという話になった。
時刻は夜の九時半。
居酒屋に入店したのが六時半くらいだったから、なんだかんだ三時間はいた計算になる。
その間、三人で本当に色々な会話をした。
僕の前世の記憶の話はほどほどに、大学の授業の話や教授の話、地元の話や恋愛の話など、挙げ始めればキリがないほどだ。
どれもすごく楽しくて、どこか懐かしさを感じさせてくれるような錯覚に陥ってしまった。
久住春架ではない前世でも、僕は大学に通っていた。
その時の記憶すべてがあるわけじゃないから、どんなことがあったかとか、どんな人たちと絡んでいたかとかはもう覚えていない。
けれど、傍には奈冬がいてくれてて、周囲にはそれなりに親しい人がいたような記憶もおぼろげながらあった。
だから、懐かしい。
自然と笑みがこぼれてしまうほどだった。
「ていうかさ、もう春架君の家でよくない? 春架君もいいよね? アタシ、猫ちゃん見たい!」
居酒屋前で、程よく赤くなった顔をしている秋津さんは元気よく手を挙げた。
「うん、いいよ。じゃあ僕の部屋に行こっか」
「猫か。つか久住、お前居酒屋来る前に猫のエサとかしっかりやってきたか? 安全面とか、大丈夫なんだろうな? ん?」
「大丈夫だって。飲みに行く前、僕アパートに戻ったじゃん。エサあげてくるって」
「そうだぞ勇成~。すーぐお酒に飲まれて記憶飛ばすんだから。ダメだな~」
「んなことねえっつの。俺は酒に飲まれたりなんてしねーし、記憶もある。今だって全然酔ってねーし。――っつ!」
言いながら勇成はふらつき、傍の電柱にぶつかった。
申し訳ないが、それを見て僕と秋津さんは思わず吹き出してしまう。
「ぷっ! あはははははははっ! ほーら酔ってんじゃーん! もー、大丈夫ー?」
「う、うるせぇ! 大丈夫だっつの! ちょっとめまいがしただけだ!」
「勇成、それ全然大丈夫じゃないよ。ほら、僕に掴まって。肩貸すから」
言いながら、僕は自分の肩を軽く叩く。
勇成は悔しそうにしながらも、僕の肩に掴まってきた。
「ごめんね春架君。うちの彼氏が迷惑かけて」
「大丈夫だよ。家着いたらとりあえず冷たいお茶でも出すから」
そういうわけで、三人で僕の家へと向かった。
〇
「わぁー! ホントじゃん! 綺麗な黒色の猫ちゃん!」
部屋に着くなり、秋津さんはベッドの上にいた黒猫の元へ駆け寄った。
突然の見知らぬ人間の来訪だ。
驚かせてしまうかと思ったけど、案外そういうわけでもないらしく、猫はいつも通りあくびをし、にゃあと鳴いていた。
「はぁ~、可愛い~。おーよちよち。いい子でちゅね~」
秋津さんが頭を撫でても、嫌がる素振りを見せずにゴロゴロ喉を鳴らす猫。
この子、出会った時から人懐っこいとは思ってたけど、ちょっと人懐っこすぎて心配になってくるレベルだ。本当に猫なんだろうか。見た目は猫だけど、中身は違う生き物だとか、そういうことはないよね……?
「それにしても、今さらながら春架君が猫を飼い始めるとは思わなかったよー。もー、チョー可愛いし、毎日ここに来たいくらいー」
「まあ、嘘はつかないからね。相変わらず狭いけど、ゆっくりしていって」
「はーい」
秋津さんとやり取りしながら、勇成をベッドの上に下ろす。
本当にお酒に弱いみたいで、横になった瞬間いびきをかき始めた。こりゃ、今夜はお泊りコースかもしれない。
「ねえ、春架君」
「ん、なに?」
「アタシさ、今酔ってると思うかな?」
「? 酔ってないってことはたぶんないと思うけど……?」
「ふふっ。だよねー。お酒には弱くないけど、割と飲んだし、酔っちゃってるかなー」
「?」
言ってることの意味が分からず、つい首を傾げてしまう。
「具合が悪いとか? 女子にこういうこと言うのはアレかもだけど、吐き気とかあったら全然トイレ使ってくれていいよ。僕、そういうの気にしないから」
僕が言うと、秋津さんは黒猫を撫でながらクスッと笑った。
「ううん。具合に関しては全然大丈夫。ただ、春架君に何か言って、それを真剣に聞いてもらえるかなーって思って」
「あぁ、お酒が入ってるからってことか」
「うん」
彼女の言葉の意図が理解でき、僕は小さく笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。そういうことが確認できるって時点でしっかりしてるんだなって思えるし」
「ならよかった」
「何かあるなら、全然言ってくれていいから。僕、誰かと会話するのはこう見えて結構好きなんで」
「ふふっ。知ってる」
「え、意外。知られてたんだ」
「……うん。アタシもそのこと、今知れたから」
僕から一瞬視線を外し、猫の方へとやる秋津さん。
それを聞いて、僕は冗談っぽく笑った。
「そりゃよかった。でもそれを知られたら、今度からぼっちでもいたりするのがちょっと恥ずかしくなるな」
「本音は話せる友達がもっと欲しいけど、交友関係を広げられないコミュ障なだけってのがバレちゃうからね~」
「うわー、やめて。思ってることをそっくりそのまま言わないで。辛くなる」
「あはははっ! 冗談冗談!」
やり取りしつつ、僕はキッチンの方へ向かい、冷茶をコップに注いだ。
勇成は完全に寝ちゃってたから、自分の分と、それから秋津さんの分だけにした。
二つのコップを両手に持ち、それをちゃぶ台のあるところまで運ぶ。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがと。にゃーん。ふふっ」
なんとも微笑ましい光景だ。
猫と女の子の戯れ。
ゆったり、まったりとした時がそこには流れていた。
まあ、これもすべて猫が警戒心なく撫でられ続けていてくれてるのが大きいんだろうけど。
……いや、秋津さんの撫で方が上手いからというのもあり得るか? うーん、わからないな。
冷茶を飲みながらそんなことを考えていると、猫は撫でられることに飽きたのか、起き上がってテクテク歩き、僕のところにやって来てくれた。
そして、ジーッと僕の顔を見上げ、何か言いたげにした後、頭を差し出して撫でろと言わんばかりな行動を取ってくる。
僕は素直に手を差し出し、撫でてやった。
「春架君、たぶんその子メスだよ」
「メスかー。今確認したの?」
「ううん。確認したってより、その子が教えてくれたって感じ」
「酔ってる?」
冗談っぽく問いかけると、秋津さんは頬を膨らませてムッとした。
「……さっきの話……!」
「すみません。わかりました。この子が言ったんですね。了解です」
「よろしい。アタシはお酒に強いのです。言ってることもマトモです」
「ははぁ」
手下っぽく頭を下げると、秋津さんはクスクス笑った。
それを受けて、僕も笑う。
「部室で言ってたもんね。猫の言葉が少しだけわかるって」
「ちょびーっとだけね。っていうかそれ信じてくれるんだ。わかってたことだけど、春架君ってホントいい人だね」
「そりゃ、冗談っぽくはあったけど、目がちょっと本気でしたから」
「ほうほう。そういうとこまで見抜くとは。お主、なかなかモテるじゃろう? 女の子はそうやって見抜かれると一撃よ」
「残念ながらモテはしないですね。あー、お茶うま」
「ふふっ。そーやってはぐらかすところも色々とくすぐるものがあるね。君は」
「いえいえ。それほどでも」
「ふふふっ」
お茶を飲み、一息つく。
秋津さんも同様にお茶を飲み、ふぅと一息ついた。
「そういえばさ、これまだ話してなかったけど、最近面白い夢を見たんだよね」
「うん。なになに?」
「とある人が出てきて、この子に名前は付けなくていいよって教えてくれる夢だった」
「ほうほう。そりゃまたどうして?」
「名前があるんだってさ。もう既に。意味わかんなくない?」
「意味はわかるでしょー。そっくりそのままのことで、気になるんならその猫ちゃんに聞けばいい」
「……なるほど。確かにそれだったら簡単でわかりやすいね」
「その通り」
お茶を飲みながら言ってくれる秋津さんを、僕はジト目でジーッと見つめた。
「なんだね?」
「秋津さんに初仕事だなって」
「残念。猫の言葉がわからないことはない。けど、この場合はアタシにできることは何もないのです」
「えぇ、なんで?」
「……ドラゴンボール風に言うと、猫の力がアタシを超えた、って感じ」
「えぇ……。なんか途端に胡散臭いなって思え始めた」
「そういうものなのです。ズズッ」
お茶を飲む効果音を自分で言ってしまう辺り、かなり胡散臭い。
僕は短くため息をついた。
「けど、一つだけわかったことがあるのも事実だよ。春架君」
「……なに?」
問いながらも、期待はしないスタンス。
僕は彼女の方を見ずに、またお茶を啜った。
「春架君は、ちょっと最近物忘れがひどくなった。そうやって猫ちゃんは言ってる」
「物忘れ? 全然自覚はないけど」
「うん。自覚はなくて当然。だって、忘れてるんだから」
「?」
首を軽く傾げた。
そんなこと、あるだろうか。
自覚がないのは、それを忘れてしまったから。
それはある程度筋が通ってる。
通ってはいるものの、少なからず恐ろしさも感じてしまう。
秋津さんは僕をジッと見つめ、人差し指を立てた。
「よーく思い出してみて。これはたぶん、春架君にとって割と重要なことだから」
「詳細には教えてくれないの?」
「教えてあげれないってのが正しいかな。何でかって、それはアタシにもわかんない。猫ちゃんがそうやって曖昧に言ってるから」
「……?」
ますます訳が分からなくなった。
考え込み、少しばかり沈黙が流れたところで、猫がか細い声で鳴いた。「にゃあ」と。
「書いたものは忘れないで。何を書いたか思い出して。それがすごく重要なことだから」
猫が今、そう言った……らしかった。
「書いた……もの?」
わからない。
秋津さんは続ける。
「たとえば、ノートとか」
ノート。
その言葉に僕は静かにハッとするのだった。