一章13話 認める
降りつける大粒の雨に打たれながら、レオンは見た光景に絶句して地に膝をつく。
アカデミーから命からがら逃げ出してたどり着いた自宅は、王国の紋章が刻まれた鎧を着込んだ剣士たちによって包囲されていた。恐らくは王国剣士団員、リッキーの部下だろう。
脳裏にリッキーの言葉が過ぎる。よもや本当に、レオンの居場所はこの世界のどこにも存在しないのだろうか。
レオンはぬかるんだ地面に手をつきながら、無様に地を這って今きた道を戻る。
けれども、きた道を戻ったところで、行き着くのは王都のアカデミー。それに、王都には王城があるため、警備を兼ねて巡回している剣士が多くいる。きた道を戻ったところで、現状からの救いにはなり得ない。
そう理解すると、頰を何かが伝った。それは一粒では治らず、内包している意味の数だけ頰を流れ落ちていく。
親代わりに騙されていた、恩師を目の前で殺された、己はトラウマに囚われた脆弱者であった。意味の数だけ涙が頰を流れ落ちていく。
レオンは四肢を止め、天を仰いだ。
ボタンのかけ違いはいつから始まっていたのだろうか。ふとそんな疑問が頭をよぎる。
幼少の頃に背負った十字架。無力故に戦う術を持たず、レオンはあの戦火の夜から生かされた。
記憶はもう鮮明なものではないが、叫喚が響く夜闇へ駆けて行った両親らしき人物を覚えている。
故に、生涯を通して無力でなくてはならないと己に課した。無力であるがために生きながらえさせてもらったというのに、無力でなくなってしまったら、とてもではないが両親に顔向けなどできない。
だから、努めて無力な人間であろうと生きてきた。
しかし、アカデミーでの件は異常としか言えない。恩師を殺され、十四年もの間騙され続けていたという事実が判明したというのに、原因不明の震えによりリッキーに危害を加えることはできなかった。
無力は幼少の頃、レオン自らの意思によって己に課したものである。そのため、意思一つで融通をきかせることは可能なはずだった。
けれど、あの震えは意識外からの、無意識による作用であった。
よって考えられる可能性は一つ。意識的に演じているはずだった無力が、いつのまにか本物になっていたということ。
レオンブラックは努めて無力な人間であろうとしているわけではなく、本当に無力な人間であるということだ。
レオンは結論を胸に立ち上がる。
兎にも角にも、レオンは今後リッキーに追われる身となった。レオンが生きている限り、リッキーのクーデターの計画が露呈する可能性は拭えないのだから、必然だろう。
レオンは腰の鞘から漆黒の封印剣を抜く。曇天の下でも、その漆黒の輝きが霞むことはない。
そんな不変の輝きに魅了されながらも、レオンは中にいる少女を思う。
助けると誓った。それに現在も、その想いは変わっていない。レオンはアリスを助けたいと考えている。
しかし、この短期間で取り巻く周囲の状況は大きく変わってしまった。レオンは命を狙われる身となった。そんな状況下で、果たしてアリスの記憶を取り戻すことはできるのだろうか。
レオンはそう思考し、問題点ばかりにぶつかる。追われる身となったが故に、アリスを危険に晒す可能性は高い。
それに、おそらくリッキーにはもうバレてしまったが、レオンと行動することにより、アリスが封印獣であるという事実が広く知れ渡ってしまう可能性もある。
もしその存在が公になれば、アリスは王国から追われる身となるだろう。なぜなら、人間が封印獣であるという異常事態は、あってはならない禁忌であるから。
また、レオンが追っ手に対して武力抵抗を図ることはもはや不可能である。そのため、アリスに頼りきりになる未来は想像に難くない。
言わば本末転倒。であれば、アリスはレオンといるよりも、一人でいる方が幾分かマシなのかもしれない。
レオンは考えいたり、剣を振るってアリスを顕現させた。
漆黒の封印剣から紫色の光が放たれ、地面と接触する直前に人型へと姿を変える。
「ご無事ですかレオン様!」
アリスは顕現するや否や、勢いよくレオンの手をとった。レオンは滑らかな温もりを右手に感じつつも、自制の心を忘れない。アリスの手をゆっくりと引き剥がす。
それから、残念そうな表情のアリスに真剣な面持ちを向けた。
「アリス、さっきはごめん。いきなり剣の中にいれたりして。あと……アカデミーのこともいろいろごめん」
謝罪を述べ、レオンは誠心誠意頭を下げる。
「そんな! レオン様が私に謝る必要などはありません! 頭をお上げください!」
アリスは突然のことだったためか、慌てたように両手をワタワタと振った。
レオンはそんな仕草を可愛いと思いつつも、顔の表情を崩しはしない。
一度顔を上げてから「あともう一つ」と付け加えると、再び頭を下げた。
「ごめんアリス。俺じゃ君を助けられそうにない」
訪れるのは沈黙。レオンは雨音しかしなくなった世界に当然だろうという思いを抱きながらも、じっと歯噛みした。
原因は過去のトラウマにある、といえばそれは逃避になるだろう。最大の要因は四方どこから見ようとも、己の脆弱さにあるとしかいえない。
無力であることを選んだ人間が他人を助けるなど、口にすることすら烏滸がましかったのだ。
やはりレオンブラックとは最底辺の人間、地獄に落ちるのが相応しい。
レオンは結論を得ると、アリスからの断罪の言葉を待った。一度助けると烏滸がましくも口にした手前、糾弾を受けるのは当然だ。
レオンが身を硬くしてアリスの言葉を待っていると、不意に鈴の音のような心地のいい笑い声が響いた。
レオンはそれを不審に思い、顔を上げる。
すると、
「何を仰るんですかレオン様。私は今でも十分レオン様に助けていただいておりますよ」
視線を上げた先には、微笑むアリスの姿があった。
レオンは意表を突かれたがために言葉が出ない。そのため生まれた間を縫うように、アリスは立て続けに口を開く。
「私は封印剣から解き放たれたとき、不安でいっぱいでした。それは私の中に、人間でありながら封印剣に封印された、言わば摂理に反した存在であるという認識があったからです」
アリスはそこで言葉を区切り、瞑目する。
「しかしながら、レオン様はそんな私の心配をよそに、すぐに私の手を取ってくださいました。それに、私が封印獣だと知ってなお、レオン様は私を探しに来てくださいました。出会ったばかりの私を助けると、そう仰ってくださいました。……私は十分、レオン様に助けていただいております。レオン様、私はこの感謝をレオン様に返しきれるでしょうか?」
言い終えると、アリスはレオンの表情を確認しようと、俯くその顔を覗き込むようにして身を屈める。
レオンはそれに抵抗するように首をひねり、短い溜め息を一つ。
「バカだな。俺が今までやったことは人として当たり前のこと。別に誇るようなものでもないし、礼を受けるようなものでもないよ」
「いいえ、それは違います。レオン様の優しさは万人に共通するものなどではありません」
アリスは頬を膨らませながら抗議するが、レオンはただ首を横に振る。
「俺は優しくなんかない。過去のトラウマに囚われるがあまりに、抗うことをやめたただのヘタレだ。だから俺にはアリスを救うことだってできない。反対に、迷惑をかけることになると思う」
レオンはじっとアリスを見つめる。
すると、その顔は純粋無垢にレオンの言葉を待っていた。
胸が痛い、レオンはそう感じながらも、伝えなければならない言葉を喉奥から紡ぐ。
「アリスは俺と一緒にいない方がいい」
「……え?」
アリスの紫紺の瞳が見開かれた。レオンはそれを見てさらに胸を痛めるが、そこで言葉を途切らせるわけにはいかず、続ける。
「俺はリッキーから追われる身になった。これから先、アリスのことを危険に晒すことだって多くなると思う。……だから!」
そこまで告げると、なぜか言葉が出てこなくなった。もちろん、頭の中にはその先の言葉は浮かんでいる。
しかし、その言葉を口に出すことはなぜかできない。酷く痛む胸を押さえながら、レオンは俯いた。
「……レオン様」
名を呼ばれ、糾弾される時がきたのだと悟る。
情けない言葉を連ねながら、それに勝る情けない態度をとったのだ。糾弾されるのは当然の報いと言える。レオンはゆっくりと顔を上げた。
すると、雨によって芯まで冷え切った体に、人肌の温もりがもたらされた。
何が起こったのかがわからず、レオンが視線を彷徨わせると、アリスに抱きつかれているという事実がそこにあった。
「アリス?」
「……レオン様」
呼びかけに対しての返答は、酷くか細い。また、アリスが顔を埋める胸の辺りには、雨粒とは違う暖かな雫が伝い落ちている。
それはあまりに予想外に過ぎる反応であった。
レオンは糾弾されるものと考えていたために口籠る。
そのため沈黙が訪れると、アリスはか細い声で続けた。
「……私がお側にいることは、レオン様にとってご迷惑なことなのでしょうか?」
「迷惑って、アリスは何を言って……」
「私はレオン様のお側に居られるのであれば、過去の記憶などは必要ありません。私はレオン様のお側に居たいのです!」
言い切るアリスに、レオンはすぐに言葉を返すことができない。
だが、考えがないわけではなかった。
実際、レオンはアリスの想いを肯定することはできないと考えている。
なぜなら、封印獣となったアリスの心が、人間であった時のものと違いないとは断言できないからである。
というのも、封印獣となった魔獣は一種の自我を失い、主人に従順な存在となる。そのような作用が、封印獣となったアリスに働いているのかいないのかは、神のみぞ知るところである。
そのような状況下でのアリスの言葉を、全面的に受け入れることはレオンにはできない。
もちろん、レオンとてアリスの言葉を嬉しくは思った。
けれども、裏返しに疑念が頭を過ぎる。
レオンは心を鬼にした。
「アリス、君のその想いはきっと、俺が君の主人であるがためだけに生まれたものだよ。申し訳ないけど、俺はそれを受け入れることはできない。だから、君は――――」
「……るのですか?」
「え?」
聞き取れなかったために聞き返すと、アリスは背から手を離し、抱きつくのをやめた。
そして俯きながら数歩下がり、両手を肩に伸ばしてくると、弾かれたように顔を上げた。
「レオン様は私の何を知っているのですか!」
「何をって……」
「私も私のことを知りません。それなのに、レオン様は私のことを知っているかのように仰るのですね?」
「それは……でも俺が言っているのは可能性の話で」
「可能性の域を出ない話なのであれば、私はレオン様のもとを離れません!」
「……どうしてアリスはそこまで頑なに俺の側にいようとするの? 俺といたっていいことなんて一つもないのに」
「簡単な話です。私がレオン様のことを愛しているからです」
微笑みかけてくるアリスの視線から逃れるように、レオンは俯く。そして、癖になりつつある歯噛みをした。
胸に生まれた感情は喜びと悲しみ。アリスが慕ってくれているということは、素直に喜ばしいことである。
しかし、同時にアリスの感情が封印獣となったがために生まれたものであるという可能性は高まる。
なぜなら、レオンは未だアリスになにもしてやることができていないのだから。
レオンは胸の中の喜びを振り払い、顔を上げる。
「俺は君に何もできていない。やっぱり、君が俺を慕ってくれるのは、封印獣となったが故の性だよ」
胸の痛みに耐えながら告げると、予想に反してアリスはすんなりと頷いた。
「そうかもしれませんね。いえ、そうだと思います。封印獣となった影響がないはずがありません」
アリスはそこまで言うと再び微笑みかけてくる。レオンは視線をそらすことはしない。正面からその微笑みを受け止めた。
それに対し、アリスは満足そうに頷く。
「私はレオン様の言うことを認めました。ですが納得はしていません。私は本当にレオン様のことを愛しているのですから。なので、レオン様も認めてください。ご自分の性格がお優しいものであると」
「……それは」
「できませんか? それでは私も認めるわけにはいかなくなります。それに、どうやらレオン様は私と最初にした約束を忘れてしまったようですね?」
言葉を聞き、レオンはハッとさせられる。アリスを見つけるため駆けずり回った夜に誓った約束、お互いに相手の言い分を飲む。その際レオンが認めたのは、アリスはレオンに助けられることを望んでおらず、共にいることだけを望んでいるというもの。
「本当にダメな奴だな、俺は。自分のことばかり考えて、誓った根本の約束さえ忘れていた」
「いいえレオン様。決してレオン様はご自分のことだけを考えているわけではありませんよ。そして私が言うところのレオン様の優しさとは、そのような点にあります」
「どういうこと?」
「レオン様はご自分のことよりも私のことを考えてくださっています。恐らく、その行為自体が無意識なために、レオン様は否定なされるのでしょう。だって、レオン様は私の身を案じて一人でいた方が良いと仰ってくださったのですよね?」
「それは、そうだけど」
「それこそが優しさだとは思われませんか?」
「……」
レオンは言葉を返すことができなかった。もちろん、アリスの言葉に納得したわけではない。
行為の一つだけを例に挙げられたところで、レオンはそれ以上に自身が性根の腐った最底辺の人間であるということを理解している。塗り替えることはできない。
ただ、認めることだけはできるかもしれないと、烏滸がましくもそんな風に考えてしまった。
レオンはその考えが甘えであるということを理解している。
そしてその甘えが、自身の脆弱を痛感したがためによるものであるということも。
簡単に言えば、レオンは救いを求めていたのだ。歳にして十六、まだまだ両親への甘えが許される年齢である。
けれども、レオンに両親はいない。また、唯一の恩師と親代わりを同時に失った。頼れる人物は目の前の少女以外の他にはない。
そんな少女が差し出してきた救いに、レオンが手を伸ばすことは甘えであっても、罪にはなり得ないだろう。
レオンはアリスに視線を合わせ、ゆっくりと首を縦に振る。
「俺も納得はしないよ。俺は俺がどれだけダメな人間なのかよく理解しているから。……でも、認める。アリスがそこまで言ってくれるなら、俺は認めるよ」
言うと、アリスは深々と頭を下げてきた。
「ありがとうございますレオン様。それでは、レオン様の言葉を私も認めましょう。私のレオン様への感情には、封印獣となったがために生まれたものがほんの少しだけ混じっているかもしれないと」
「あれ? だいぶ内容違くない?」
「だって私は本当にレオン様を愛しているんですもの。大大大大大好きですよ、レオン様」
そう言って、アリスは再び抱きついてくる。レオンはそれを受け止め、アリスの背に手を回した。
「ありがとうアリス。俺は君のために力を尽くす。だからアリスも、俺のことを助けてくれるかな?」
「ええ、もちろんですとも。私はレオン様を命に代えてもお守りします。ですから、私をいつまでもお側に置いてくださいね」
その会話から一間を置き、アリスとレオンはどちらからともなくクスりと笑った。
気がつけば雨は止んでおり、雲の間から陽光が差し込んでいる。レオンはその暖かな光を眺めながら、誓った覚悟を胸にしまった。
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