一章10話 リッキーデルニカ
血飛沫が上がる。
ローザの瞳は光を失い、体は重力に抵抗することなく地に倒れた。
リッキーの一連の所作の最中に、断末魔は響いていない。恐らく、ローザは自身の命が摘み取られた瞬間を認識することなく絶命したのだろう。
そう断言できてしまうほどに、リッキーの動きには無駄がなかった。
しかし、そんな芸術とも言う べき極技を見て、レオンは胃からせり上がってきたものをぶちまけた。
生まれて初めて人が死ぬ瞬間を目撃したのだから、当然と言えば当然だろう。
それに、眼前で血飛沫をあげたのは恩師。尚且つ、殺したのは親代わりだ。レオンの反応は常人のそれと言って良い。
リッキーはレオンの嗚咽を聞いて視線を向け、ハッとしたように鋭い視線を和らげる。
「どうしてレオンがいるんだよ? 今日はアカデミーをサボったんじゃなかったのか?」
微笑みを湛えながらリッキーは一歩ずつレオンへと迫る。レオンは喉に残った吐瀉物に咳き込みながらも、地を這ってリッキーから距離をとった。
「どうして逃げるんだよレオン?」
リッキーの口調はローザへ向けていたものとは違い、普段と変わらない穏やかなものへと変わっている。
けれども、そんな落ち着き払った声だからこそ、レオンは底知れない狂気をリッキーに感じた。
瞳から溢れた涙で歪む視界の中で出口を捉え、迫る狂人から必死に距離をとる。すると、背後でため息が一つ聞こえた。レオンは恐る恐る振り返る。
……鋭利な視線がそこにはあった。
「その様子じゃ見ちまったってことだよな。……ったく、ここにきて俺の詰めが甘かったか。クソがッ!」
リッキーは叫び、付近にあった本棚を蹴り倒した。結果として倒れた本棚にも火が移り、資料室内の空気は一気に熱を帯びる。
「十四年もこんな、こんなクソガキの世話をしてきたってのに! あと少しってところで! ふざけるなあッ! どうして! どうしてなんだ!」
リッキーは地団駄を踏みながら幼子のにように喚く。
そんなリッキーの姿を初めて見るレオンは、抱いていたリッキーデルニカという名の虚像が崩れ去るのを感じた。
眼前の金髪で細目の男は、レオンにとって親代わりのような存在であった。天涯孤独の身となってから、愛情や教育を受けた。それは実に、十四年の歳月に登る。
しかし、現在瞳に映る姿は初めて見るもの。レオンが今まで目にしていたリッキーデルニカは、一体どこへいってしまったというのだろうか。
リッキーは気が済んだのか地団太をやめると、鋭い視線のままレオンをじっと見据えた。レオンはそんな視線を受け、身体が硬直したまま動かなくなる。
「洗脳教育はもう無理だ。始末するしかないな」
リッキーは呟くと、鮮血が滴る封印剣を構える。
レオンは身に迫る危機を感じ取るが、肝心な身体は恐怖に固まったまま動かない。
なぜレオンは命を狙われているのか。第一に、なぜローザは殺され、リッキーは殺したのか。レオンには慮ることさえできない。
ならば、何もわからないまま深い感謝の念を抱いていたはずの親代わりに、黙って殺されて良いのか。
……良いはずがない。
レオンは決意し、震える身体に鞭を打って命令を下す。まずは喉を鳴らした。
「ど、どうしてローザ先生を!」
言葉を発するとともに脳裏に血飛沫をあげた恩師の姿が蘇る。レオンは再来した吐き気に苦しみながらも、視線を眼前のリッキーからそらすことはしなかった。
「どうして、か。それを聞いてお前はどうする? どのみち死ぬぞ?」
「なら、どうして俺を殺すんですか!」
「質問ばかりだな。これだからガキは嫌いなんだ。……とは言え、十四年を過ごした仲だ。そのくらいは教えてやるよ」
リッキーは心底面倒くさそうに頭を掻いた。
「俺はなぁ、レオン。お前の力を利用して国王になろうと思ってたんだ。異能力がありゃクーデターなんて容易い。 だから俺は孤児だったお前を引き取り、俺の命令に従順になるように育ててきた」
リッキーは口元を歪め、反応を窺うかのような視線を送ってくる。
その点、レオンは期待通りであろう反応。顔をくしゃくしゃにし、今にも目尻から涙が溢れそうである。
「騙されていた事実を知って悲しいか? その表情は傑作だな」
言いながらリッキーは卑しい笑みで笑う。が、すぐにそれはすうっと消え、代わりに怒りの色が浮かんだ。
「しかし! しかしだ! 計画はそう上手くはいかなかった。お前は戦争で自分だけが助かったという事実に対し、無力で生きることを選択した。その代償として、その年でなお異能力が使えない始末だ。本当に骨が折れる仕事だった。当初の予定じゃ俺はとっくに国王になって独裁政治を始めていたってのによお!」
リッキーは叫ぶと、刃先をレオンに向けた。
「計画は失敗だ。お前の中で俺の理想が崩れちまった以上、関係を修復するなんてことはとてもとても。それに、計画も全て話してしまったからな。お前にはここで死んでもらう!」
……死ぬ。向けられた殺意により、脳内にはただその言葉が浮かんだ。
振り返れば、レオンの人生とは心底くだらないものであった。親を失い、縁もゆかりもない剣士に育てられた。一側面からその事象を見れば、レオンは不幸に見舞われていながらも、幸福を得ていると言える。
実際、レオンは自身のことをかなりついている身の上だと考えていた。
しかし、真実を知ってしまった以上、その考えは改めざるを得ない。親が戦死し、摂理として死ぬはずだった運命から逃れられたわけではなく、もっと醜悪な定めを課せられていたのだと。
「死ね、クソガキ」
言葉を聞き、遂に涙が頰を伝った。
涙で曇った視界に、振り降ろされつつある剣がスローモーションで映る。死はゆっくりとではあるが着実に、レオンへと迫っていた。
……死ぬ。
脳内に再び同じ言葉が浮かんだ。
後悔はない__とは言い切れない。心底くだらない人生でありながら、助けると約束した少女が一人。おそらく、校門の前でレオンの帰りを未だ待っていることだろう。
脳裏に姿を描くと、より一層助けたかったという思いが胸に募った。
「……ごめん」
届くはずのない謝罪を述べ、迫り来る死に身構える。
「レオン様!」
不意に、鈴の音のような、耳障りの良い声が響いた。