毎日が辞職の潮時☆クソガキのお世話はもうウンザリです
人間界の先のそのまた向こう。洞窟や森を幾つも抜け海や山を越えたところに魔界があった。魑魅魍魎がうじゃうじゃと行き交い飛び交う、おどろおどろしい城下町。そして、どろどろと紅く蠢くマグマに囲まれた魔王城。魔王城は高く不気味に聳え立ち、同時に厳かさによる畏怖さえも感じさせる。
普通の人間ならばひと目見ただけで卒倒してしまうような、そんな恐ろしさがここにはあった。
……………………そう。『あった』のだ、数ヶ月前までは。
「オイこのクソガ…………魔王様ッ、業務してくださいよゴラァアアアア」
魔王城に響いたドスの効いた声に、その上を旋回するカラスがビクリと羽根を震わせた。
続けて聞こえてくるのはコロコロと笑う子供の声。
「リーザ、すげえ顔してる。こえー」
「誰のせいだと思ってるんですか?いいからはよ来い魔王ッ」
この、恐ろしさもクソもない小学生の弟と中学生の姉みたいなやり取り。それが気高く悍ましい魔王城から聞こえてくるのだ。ムードもへったくれもあったもんじゃなく、魔王城の威厳やら畏怖の念やらを著しく低下させているのである。
さて、この声の主たち。即ち魔王アルレイとその従者リーザは、今現在、魔王城で鬼ごっこ中であった。いや、鬼ごっこと言えば語弊があると従者の方から凄まじいクレームが入るかも知れない。その従者の為に正確かつ簡単に言ってしまえば、業務のサボタージュを試みる魔王を一人の従者が追い掛けているという状況だ。まぁ、最近の魔王城ではごくありふれた光景だった。
焦げ茶色のポニーテールを振り回し、ぜえぜえと肩で息をするリーザは髪の毛と同じく焦げ茶色の右瞳と赤黒い色の左瞳、所謂オッドアイをぎらりと光らせてアルレイを睨み付けた。静かに微笑んでいたらなかなかに可愛い顔をしているのに、この怒りの表情はそこはかとなく怖い。全くもって残念極まりない。
一方のアルレイは、真っ黒な髪の毛とゴツゴツとした双角を持ち合わせた美少年。そう、美『少年』である。小ぶりな身体にはかなり重たそうなマントを軽々と着こなし、とは言えぶかぶかではあるが、リーザから伸びてくる手をヒョイヒョイ避けては高らかに笑った。
「へっへっへー、リーザは所詮従者!おれみたいな最強で超強い魔王には一生敵わないんですう!」
最強で超強い…………明らかに重複している内容を得意げに話す、こんなガキが魔王…………。
その事実にリーザは思わず膝をついて泣いてしまいたくなる。
それと同時に、今は隠居している旧魔王ラゼスに思いを馳せた。
ラゼス様は渋い顔立ちをした素敵な魔王だった、と。その強大な力も然ることながら部下にはとても優しく、特にリーザは親切にして貰っていた。格好良くて頼れて、でもたまにいとけなくふにゃりと笑う。嗚呼、なんて愛おしいお方なんだろうか。
ラゼスの従者でいた時がリーザの青春だった。ラゼスの一挙一動に一喜一憂し、ラゼスを見ているだけで幸せだったのだ。父親と同じくらい、下手したら父親よりも年上かも知れない。けれどもリーザはラゼスが大好きだったし、その健気な姿は恋する乙女のそれだった。
だがしかし。その幸せは、四ヶ月前。リーザが十七歳の誕生日を迎えた数日後に崩れることになる。
『魔王の世代交代』
普通の魔物は、魔物生成の役割をもつ一部の魔物によって創られる。が、魔王も一生のうちにひとつだけ、魔物を生成するのだ。魔王が創り出すその魔物こそが次期魔王。その存在は魔王の多大なる魔力を一身に集め、赤子として誕生する。その子が満十歳になった時、魔王の称号はその子に与えられ、元魔王は隠居して慎ましく暮らすことになる。とはいえ、十歳の子に全てを任す訳にはいかないので、新魔王が齢十七になるまでは旧魔王が魔王としての実務をこなす。新魔王はその間に魔王としての教養を積み、簡単な業務も引き受ける…………。
いつかリーザが本で読んだ内容が、現実として起きたのだ。十年前にラゼスの創った子が、丁度十歳を迎えた。当然、その日から魔王は十歳のアルレイとなり、リーザの憧れラゼスは遠く離れた地に数人の従者と共に隠居となった。リーザがその数人の従者の一人に立候補したのは言うまでもないことだが、ラゼスはその頭をぽんぽんと叩いて軽く笑んだ。
「リーザ。お前には、我が息子の側近として仕えて欲しいのだ。お前には息子の世話を任せたことがあったであろう?その時の姿を見て、お前が適任と思ったのだ。…………なに、案ずることはない。お前のことは頼りにしているぞ」
想い人からのそんな言葉。そんなの、頷くしかないだろう。
そんなこんなでリーザは業務はサボるわ悪戯をするわ口ごたえばかりするわのクソガキ、否、魔王アルレイの側近、というより世話係を任されている。気分としては、十歳の生意気な少年の子守り。
「なーなー、リーザー!これ、お前の怒った時の顔ぉ!」
かくんと曲げていた首を仕方なしに持ち上げると、アルレイの変顔が目に入る。ぎゃはは、と腹を抱えて笑うアルレイをじっとりと睨めたまま、リーザは盛大なる溜め息を吐いた。
首にぶら下げたロケットペンダントをぱかりと開き、中に収められたラゼスの肖像画を見つめる。
「…………ラゼス様、どうかお許しください。わたし、やっぱりこのクソガキが嫌いです」
額の真ん中で分けられたロマンスグレーの髪の毛。深い真紅の両目。真一文字に結ばれた薄い唇。顔に薄っすら刻まれた皺は、その壮絶な半生を想像させる。なんて素敵なご尊顔…………。
どれだけ見つめても飽きることはないが、やがてリーザはペンダントの蓋をそっと下ろすと不敵な笑みを浮かべた。
「魔王様。そろそろ悪ふざけの時間は終わりにしましょうか」
ゴゴゴ、と効果音が付きそうななどす黒いオーラを纏うリーザに、アルレイの喉がヒュッと鳴る。
「………………ハイ」
細く小さく答えたアルレイに、リーザはふふふと微笑む。傍から見ればぞっとするような笑顔に違いないのだが、しかしアルレイはその笑顔に暫し見惚れ、尖った耳を赤くした。
リーザはアルレイに一瞥もくれてやらずに踵を返しさっさと歩き出す。
「さ、行きますよ魔王様」
「あ。おい待てよリーザ!」
「早くしてください。さっき魔王様が逃げ出したせいで今日の業務がちっとも終わってないんですから」
赤いカーペットの上をすたすたと歩きながら、リーザはペンダントを指先でするりとなぞる。
昔、ラゼスがリーザに放った言葉がふと頭に過った。
「お前の苦しみは、我の苦しみだ。辛いことがあれば、気兼ねなく言ってくれて構わない」
貴方様の息子が見事わたしのストレスランキングワースト一位を占めているのです、どうにかしてくださいませんか。
なんて言ったらどんな反応をするんだろうか。とぼんやり考えてみる。
渋味のあるかんばせを思い描いている途中で、不意に、リーザはとあることに気付いた。
…………魔王の足音が、聞こえなくなった?
勢いよく後ろを振り返ると、遠くの廊下でアルレイがけらけら笑いながら跳び跳ねている。流石魔王、跳躍力も段違い。
リーザの怒りで震えた「…………こんのクソガキ……」という声を合図に、魔王城での鬼ごっこ第二ラウンドが幕を開けた。