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池木屋山十七  作者: 利田 満子
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下山

小屋の中は周囲の雪景色とは違って乾いていた。窓から差し込む陽の光が暖かさを運んでくれた。私たちは腰を降ろすとズボンや靴に着いた雪を払い落とした。

「ふうっ、何とか無事に帰れそうやな。昨日道が分からんようになった時はもうあかんかも知れへんと思たわ」貴洋は脚を伸ばしながら言った。

「そうよねえ。私なんかビバークすることになっただけでビビッちゃって、夜中に皆が凍え死んでしまうんじゃないかって思ったくらいよ。でも、運がよかったのよね。あのおじさんたちに遭えて。小屋に泊めてもらったし、ご飯も食べさせてもらったし。昨夜もビバークしてたら皆凍死だったわよね。一晩であんなに雪が降るんだもん。ところであのおじさんたち、何してるのかしら」

「多分、木の伐採だろう。ケーブルで送ってやろうかって冗談を言ってたじゃないか」

「こんな山奥でか。えらい仕事やなあ。何日も山に入ったきりなんやろう。食べる物なんかどないしとるんやろう」

「ケーブルで上げてるんじゃないか。ヘリコプターで運んでもらうという手もあるけれどね。少し高くつきそうだな。でも、割と文化的な生活をしていたぞ。ちゃんとプロパンのガスコンロがあったんだから」

「そうよ、私も見たわ。あと電気さえ来てればテレビも見られるし、結構いい生活ができるんじゃない。それにしても熊は出て来なかったわねえ。良かった。やっぱり私たちの歌声に驚いたのかしら」

「いや、多分、その前に熊の方から避けていたんだと思うよ。あの足跡を見ただろう。昨夜は雪が降っていたし、雪が止んだのは夜が明けてからだすると結構新しいと思うんだ。だから熊は俺たちが降りてくるのを察知して出遭わないようにしてれくれたんじゃないかな。結構熊も臆病なのかも知れないな」

「それと歌の効果もあったやろしな」

 お喋りをしながら私たちは今朝小屋で入れてもらったお茶を飲んだ。ポリタンクに入れていたので暖かくはなかったが、まだ少しだけ温もりがあった。昨日ポリタンクの水がなくなりかけたことを思い出すとまるで別の世界にいるようだ。

「さあ、十分休んだことだし、そろそろ行こうか」賢一が言った。

 小屋から出た私たちはまた雪の積もった道を歩いた。ここからは沢を下らなければならない。雪が音を吸収してしまうためか水の流れる音も黙っているように静かだった。雪は水の流れている川面以外の所一面に積もっていた。道も雪で隠されていたが、足が運びやすい所を選んで踏んでいけば楽に歩けた。改めて道は歩きやすい所につけられているものだと思った。

 陽の当たっている所ではまだ暖かさがあったが、日陰はまるで冷凍庫を開けたように寒かった。上半身はヤッケを着ているのでまだ我慢できたが、ズボン一枚の下半身は風が吹いたりするとその冷たさに震え上がるほどだった。バランスをとるために雪の付着した枝をつかんだり、雪の積もっている岩に手を置いたりしたために軍手が湿って指先が痛いくらいに冷たくなった。

 私たちは高滝の上に出た。ここからは左岸の岩壁をほぼ水平に横切る道を歩かねばならない。登った時にも嫌な気分にさせられた所だ。枯れ葉が積もって滑りやすいうえに今は雪まで積もっている。私は先を行く貴洋が足をどこに置き、手をどこに置いてバランスをとっているか見ていた。自分が緊張して身体の動きが硬くなっていくのがわかった。凍えた手で岩壁のホールドになりそうな部分や岩壁に生えている小さな木をつかみながら進んだ。

「きゃあっ」

 谷側に傾斜した岩壁に置いた右足が滑って私はバランスを崩した。咄嗟に右手が枯れた草の束をつかんだ。左足は小さな足場にかろうじて載っている。左手は岩壁の小さな凹みを捉えている。下の滝つぼに落ちるところだった。一瞬、自分の落ちる姿が頭に浮かんだ。すぐに後から賢一が私の左手首をつかんでくれた。右足を滑らせた所から白い雪と黒い土の塊が滝つぼへと落ちていくのが見えた。私の身体は枯れた草の束をつかむことによって落ちないでいた。凍えて力の入りにくい手に力を入れるとブチブチと枯れ草の抜ける音がした。右足の置き場がなく両手を上に伸ばしたような格好では態勢を立て直すことは容易ではない。しかし、このままでは枯れ草が全部千切れてしまう。

「おい、大丈夫か」

 前から貴洋が腕を伸ばしてくれた。私は素早く貴洋の手をつかんだ。だが、立ち上がれない。すると後から賢一が私の背中を押してくれた。貴洋に引っ張ってもらって私は狭い登山道に立つことができた。私の足はまだ震えていたが、貴洋に手を引っ張ってもらって何とか危険な場所を通過することができた。身体全体で呼吸をしていて心臓がどきどきしている。この後も急な斜面につけられた電光形の道を下る時でも足の運びは恐々だった。

滝の下へ降りて休んだ時にやっと言葉を出すことができた。

「ああっ、怖かった。私、もう駄目かと思った」

「それにしても、よくあんな枯れ草で助かったものだよ。俺はもう落ちるんじゃないかと思ったくらいだ」

「枯れ草に感謝せなあかんな」

「でも、やっとこれで私が重くないことが証明されたわ。どおっ」私は得意になって言ったが、二人の反応は冷ややかだった。視線はすでに進むべき方向に移っていた。

 雪が積もった谷は登った時とは全く異なって見えた。冬の日本庭園の大きくなったような所を散歩しているようだった。雪が音を吸い込んでしまって静寂の世界だった。そして空気が少しでも動くと枝に積もった雪が落ちることがあった。尖った針葉樹の葉や直線的な葉の枯れ草も雪をまとって穏やかな表情を見せている。夏には日差しを受けて力強く見える川原の岩も雪が積もって優しい丸みをみせた。下るにしたがって雪も少なくなり、歩きやすくなったが、この頃から登山靴に着いた雪が融けて染みこんできて足が冷たさを感じていた。足の指先にはほとんど感触がなくなっていた。何度も雪のついた枝や岩を触ったので軍手も冷たく凍ってしまって鉄製の桟道の手すりを握ろうとしても指がかじかんで力が入らなかった。誰も喋ろうとしなかった。歌を歌っていた元気もなくなっていた。ただ機械のように歩いた。雪は流れる川の音さえも控えめにさせた。私たちの足音だけが聞こえる。無人の小屋を出てから一回も休憩することもなく歩き続けている。疲れは感じていたが、誰も休憩しようとは言わなかった。私たちは歩き続けた。休憩をしたくても腰を降ろす場所もないし、止まると身体が冷えてくるだけだった。

 犬飛び岩まで来ると雪はほとんどなくなっていた。日陰とか杉や桧の上に二、三日前に積もったかのように少しだけ残っていた。やがて出発してすぐに川を跳び越えた所に着いた。今度は高い方から低い方へ跳ぶので楽だった。

 私たちはやっとテントを張っておいた所に着いた。予定ではその日のうちに戻るはずだったが、山中で二晩も過ごしたので一週間ぶりにでも帰ったような気がした。テントはフライシートの張り綱が一本はずれていただけでしっかりと立っていた。フライシートが風にはためいている。シートのたるんだ所には霰のようになった雪が溜まっていた。賢一と私はザックを置くと陽の当たっている所に腰を降ろした。貴洋はザックを背負ったままテントの中を覗いている。

「おい、大丈夫や。出発した時のままや。何も盗られてへん」

 賢一も私も返事はしなかった。貴洋はテントの中へ身体を入れるとホエーブスを引っ張り出してきた。そしてメタを置いて火をつけようとしたが、指がかじかんでいるためにマッチをすることができないでいた。指に息を吹きかけたり、揉み合わせたりしていたが、指は軽く握ったままの形にしかなってくれないでいた。私は冷たくなった両手を脇の下に入れたり、股間に挟んで何とか暖めようとした。賢一は動きにくい手でテントの中から荷物を引っ張り出すと片付けてパッキングを始めた。

「もう片付けるんか。その前に何か暖かい物でも飲まへんのか」

「いいよ。だけど時間がかかるだろう。それより早くテントを撤収して帰ろう」賢一の返事は冷たかった。

 プレヒートさえもうまくいかないので貴洋はホエーブスを点けるのを諦めた。缶に戻すと同じように荷物を片付け始めた。私はしばらく二人のすることを見ていた。だが、冷たくて自由の利かない手で片付ける決心をしなければならないと思った。寒さにさらされていたので身体が思うように動いてくれなかった。パッキングにはいつもよりも時間がかかった。テントを畳むのは骨の折れる作業だったが、丸めると何とか袋に詰め込むことができた。片付けている間私たちはほとんど言葉を交わすことはなかった。

 リュックサックを背負って歩くと私たちはすぐに三軒屋のバス停に着いた。松阪へ行くバスは一日に一本しかなく、それも午前七時より前に出てしまっていた。このことは分かっていたことだが、やっぱり落胆させられてしまう。

「おい、どうしょう」貴洋が時刻表を見ながら言った。

「どうしようかって、バスは出てしまってるんだから、歩くしかないだろう」賢一は悟ったように言った。

「歩くいうたかて、どこまで歩くんや。最低でも青田との分岐まで歩かなあかんやろう。これはかなりえらいでえ」

「それくらいは仕方ないさ。ところで青田から松阪へ行くバスが何時に出るのか、俺、ちょっとこの店で聞いてくるよ」賢一はリュックサックを置くとバス停の前の店に入った。貴洋と私はリュックサックを置くと腰を降ろした。

「ああ、それにしてもおっとろしい山やったなあ。本当にえらかたわ。よう帰れたと思うわ、なあ」貴洋がここからではもはや頂上を見ることのできない池木屋山の方を指差して言った。

「そうね、本当に生きて帰れたのが不思議なくらい。でも、生きてるっていいわね。寒さでも何でも感じることができるんだから」

「そうや、生きとったらまた腹いっぱい飯も食えるしな。それにまた山に登れるし。そいで、智子はまだ山登り続けるつもりか」

「私はしばらくの間止めてみようと思うの。だってこんな目に遭ったばかりだし、目の前には受験もあるし」

「大学に入っても山は止めか」

「分からない。山岳部に入ってみるのもいいかなって思うけど、大学に入っても生活のペースがつかめるまでは止めとくわ。貴洋はどうするの」

「俺か、俺は続けるさ、絶対。例え、浪人になっとっても山へは行くでえ。何ちゅうても山が好きやでな。まあ、今回はえらい目に遭うたけど、これくらいではへこたれへんわ。もっといろんな山に登ってみたいわ。上高地とかいう所にも行って見たいし、槍ヶ岳とか穂高岳、剣岳は写真で見ただけで名前くらいしか知らんけど、登ってみたいわ。雪山にも登りたいし、ロッククライミングもやってみたいわ。できたら、いつかヒマラヤにも行きたいわ」

「へえ、もし行けたらすごいことよ」

「ああ、そやけど、夢のまた夢や、今のところ」

「本当に山が好きなのね」

「何ちゅうんか、山でえらい目に遭うと自分がそれだけ鍛えられて成長するような気がするんやわ。そう思わへんか」

「よくわかんないけど、登った経験は無駄にはならないことは確か」

 その時賢一が店から出てきた。

「青田から松阪へ行くバスも一日に一本しかなくて、それもここと同じように朝早いうちに出てしまっているそうだ。だけど、森という所まで行くと波瀬から松阪へ行くバスが何本も通っているそうだ」

「何やて、ほんなら森まで歩かなあかんのか。森までどんだけあると思とんのや」貴洋は興奮した声で言うと賢一のリュックサックから地形図を取り出した。地形図で見ると確かに結構な距離だった。

「だけど、仕方がないだろう」賢一の言うとおりにするしかないだろう。しかし、今の私たちには森まで歩くのは物凄くたいへんなことだった。

「ちょっと、タクシーを呼んでみたらどうかしら」私は言ってみた。

「どっから呼ぶんや」

「森か、ちょっと遠いけど、宮前あたりからタクシーが来ないかしら。またお店で聞いてみたら」

「そやけど、俺はタクシーに乗るような金はないでえ」

「そうだよ。そんなことしたら、森から松阪まで帰るバス代がなくなってしまうよ」

 私は提案を引っ込めざるをえなかった。しかし、私の気持ちはなるべく歩くのを避けようとしていた。

「じゃあ、こうするわ。私、お父さんの会社に電話してみる。仕事中だと思うけど、無事山から降りてきたことを伝えたら急いで来てくれるわ、きっと」

「いい考えかも知れないけど、それは止めとこうよ。第一、智子のお父さんに迷惑だ。お父さんだって仕事を置いといて来なけりゃならないんだし、ここまで来るんだってたいへんだろう。それに来てくれるまで待たなきゃいけないし、だから、やっぱり歩こうよ。まだ時刻は早いし、俺たちにとって歩くことなんか何でもないことじゃなかったのか」

「うん、やっぱりそうやでえ。歩くしかないわ」

 貴洋までが歩く気になっていたのでは頷かざるをえなかった。私たちはリュックサックを背負うと森へと続くバスで走って来た道を歩き始めた。道の左は急な山の斜面が迫っていて薄暗い。右はガードレールもなく、二、三メートルくらいの崖下には川が流れていた。人家は見当たらない。また車が通ることもなかった。先は長い。空を見上げると良く晴れていてすぐにでも消えそうな細い雲が散らばっているだけだった。道は埃っぽくて昨夜雪か雨が降ったとは思えなかった。十分ほど歩くと後から車が走ってくる音が聞こえた。振り向いて見てみると川に沿ってぐねぐねした道をトラックが見え隠れしながら近付いて来るのがわかった。多分材木でも積むトラックなのだろうが、今は荷台に何も積んでいないようだった。私はうまくすれば乗せてもらえるかも知れないと思った。

「トラックが走ってくるなあ」貴洋が言った。次に言いたいことは分かっている。

「ああ、そうだな。一つ頼んでみるか。駄目で元々だから」

「ああ、そうしようぜ」

「待って、私に任せて」そう言うと私は後ろを向いてトラックの近付いてくるのを待った。運転手の顔が見えるくらいに近付くと私は笑顔で手を振った。トラックは私の横に止まってくれた。運転手が窓から顔を出して言った。

「乗せてほしいんか」

「はい」私はできるだけ可愛らしく返事をした。

「どこまでや」

「森まで行ってくれるとありがたいんですけど」

「森か。森までは行かへんけど、その手前まで行くで、乗んな」

「ありがとうございます」私たちは声を揃えて言った。そしてすぐにリュックサックを荷台に放り込んだ。続いて貴洋と賢一が荷台に登った。私は二人に手を引っ張ってもらって荷台に上がった。荷台には木の皮の破片がいっぱい散らばっていた。

 すると腰も降ろしてないうちにトラックは凸凹道を走り出した。揺れる荷台に後ろ向きに座って、私は遠ざかる山並みを見ていた。

                           お終い


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