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暗闘・プリンセスチェリー  作者: 伊藤むねお
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チェリープリンセス

 凍えてつっぱった顔が自分ものでないみたい。ゴーグルがなかったせいで目からはまだ涙が出ている。涙が流れた部分だけが辛うじて顔の感触をとりもどしている。

 ・・・どうしてここまでするのか。しかし、今それを考えるのは止めよう。今はありったけのものをぶつけるの。女一匹、勝負のときが今なのよ。


 総務の朋子の話では、伊能の会社外での姿を知る人はいないらしい。それどころか、”今朝はお寒いですね”なんて、こんな挨拶ひとつだってしたことがない人イナインジャナイーという。送迎バスは利用しないということもあって。

 それならなおのこと、私は伊能さんの会社外での姿を見たい、知りたい。

 陽子は持ち前の負けん気を奮い起こしていた。朋子や周囲の声を聞くと心が細るが、なんとかして一度同じ電車に乗って三十分だけでもいいから話を交わしてみたい。


 しかし、連日終電帰宅になっているらしい伊能のこのところの仕事への集中ぶりをみると、それは当分実現しそうもなかった。だから、今日午後の四時を回ったころに、伊能が”今日は定刻に帰らせてもらう。あとをよろしく”と千崎にいっているのを小耳に挟んだときには、心臓が胸郭から外れるかと思うほど大きく弾んだ。

 かねてから考えていたとおり朋子のバイクにも話をつけた。しかしそのあとがいけなかった。ともかくあの早足を止めさせて、一緒に社屋を出るきっかけを作ろうともくろんだのだが、あっさりとバレてしまった。抜いたページをテーブルに出したままにしていたのは、恵比寿のいうとおり大失敗だった。

 でも、あれだけ離れていてどうして見えたのだろう。机の上にあったのはあれ一枚じゃないのに。あそこからで見えた? まさか。でも、あの人のことをみんなが神秘の男というのには、ああいう不可思議な視力も入っているのかしら。とにかく、こんな早い時刻に帰るのは何処かに寄り道をするからだわ。こうなったら跡をつけて行く先をつきとめちゃおう。

 ・・・こんな私を父や母が知ったら嘆くだろうか。でももう止まらない。止めないで欲しい。あの人、きっと誰かと会うんだわ。それが私みたいに、いや私よりもっと魅力的な女性だったらどうしよう。

 そんな自問自答が繰り返しなされ、鼻の頭の冷たさとは対照的に頭の中はフイゴを押されたコークスのように熱かった。

 陽子としては、伊能が他の女性とレストランなどで和やかな会話をしている情景などは考えたくなかったのだが、一方で、そうだったならば、それが自分に諦めと安らぎをもたらしてくれるかもしれない、とも思っていたが・・・

 嘘。嘘よ。私、自分に嘘をついている。安らぎなんか絶対に来ない。


 ・・・それにしてもおかしい。

 十分が過ぎた。伊能は先に改札をくぐったのだろうか。そんなはずはない。門を出たのは数分の差しかないはずだ。こちらは裏道を走ったとはいえ、徒歩とバイクの速度差を考えれば絶対に自分が先に駅に着いている。駅と研究所の距離は徒歩で二十分強。ほとんどの社員は会社の送迎バスを用いるのだが、出退勤の時間帯には十分おきに出るバスも六時半を越えると三十分おきになる。あの時刻に出た伊能がバスに乗らなかったのはまちがいない。たまたま来ていた、あるいは事前に呼んだタクシーに乗ったのだろうか。そうだとしたら今日はあきらめるしかないのだが・・・

 陽子は次第に悲しくなってしまい、スエードの手袋のままでそっと目元の涙を拭った。もう寒風が引き出した涙ではない。

 私ってマッチ売りの少女より可哀想かもしれない。


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