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暗闘・プリンセスチェリー  作者: 伊藤むねお
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勇気

 東の区画の外れに小さな公園があります。バスケットボールのボードが一本だけ立っているのが目印です。そこに来てください。今日は暖かいですから外でも大丈夫でしょう。

 伊能のいうとおり、師走には珍しく暖かい日だった。震える指でかけた電話から流れてくるその声は思いがけなくも優しいものだった。


 鳥井さんが話してくれました。

 伊能の顔に驚きの色はなかった。いつか陽子が恐らくは鳥井の口を通して知るだろうと思っていたのだろう。ついと顔を上げ、葉を落としたケヤキ林の梢越しに冬の空を見上げた。しかし依然としてその口は開かない。

「でも、いいんです」

 陽子はいった。

「それでもいいんです」

 伊能が顔を曲げて陽子の顔を不思議そうにみると初めて口を開いた。

「いいって、なにがです」

 陽子は伊能のコートの袖を掴んだ。

「伊能さんにもしものことが、もしものことがあっても私絶対に泣きません。うちの犬が車に挽かれて死んだ時、父も母も祖父も妹たちもみんな泣きました。私だけ泣かなかったんです。強いんです、私って。伊能さん、私が嫌いですか。こんなことをいう私がおかしいですか」

 伊能の目が鋭利な刃物のようになった。全身の働きがトップモードになった時の目である。が、むろん、この場合のそれは敵に備えるためではない。自制心をフル動員するためだった。伊能は陽子の勇気と真っ直ぐな気持ちにしたたかに胸をうたれていた。

「そうか。けれど桜木さん。私はそんなに強くないんだ」

 伊能はベンチから腰を上げた。陽子は追いすがるように立ち上がった。

「やっぱり冬だな。長く外にいると体が冷える。今日はもうお帰りなさい。駅まで送っていってあげるから」

「いやです。伊能さんはMITに行くんでしょう。暫く帰ってこないんでしょう」

「十ヶ月でしょう」

「そのあいだに、私が冷めるとか心変わりをしてくれればいいと思ってらっしゃるのでしょう」

 伊能の眉がかすかに動いた。陽子の指摘は的を射ていた。

 伊能はいい機会だと思っていた。伊能は陽子のひたむきさに傾斜していく自分を感じていた。しかし毎年刺客が訪れ、その都度生死をかけて戦わなくてはならない自分がどうしてその気持ちを抱き取ることができよう。

 だが、そこで陽子が取った行動には、さすがの伊能も虚を衝かれた。陽子は伊能の右手を掴むとコートの袖をたくしあげ、ウールのシャツの上から犬のように手首に噛みついたのである。グレイの生地に浅く血の色が滲んできた。類い希な運動能力ゆえに伊能は痛覚もまた人一倍鋭敏である。伊能は目を見張り腕を委せつつも心中で呻いた。

 伊能の心の中に入りたい。骨肉を裂いてもその中に入りたいという一念が咄嗟にこのような行動となった。陽子はその思いを顎の力に託し、わんわんと噛んだ。しかし幸か不幸か、もちろん幸いである、伊能の腕は見た目よりもずっと太く、そのために陽子の顎は開きすぎて力学的モーメント上、十分な力が発揮できなかった。陽子は犬のように鼻の両脇に皺を寄せ、唸り声をたてた。その目から大粒の涙が滴るように頬を伝って流れ落ち、シャツに染み出た血の色を薄い桜色に変えた。

「わかった」

 伊能がぽつりといった。陽子は噛みついた口のままに、(なにがわかったんですか)といったのだが、ううううう、という唸り声にしかならなかった。

 伊能は優しくその髪を撫でた。

「お気持ち、よくわかりましたから口を放してください。痛いですよ」

 陽子は漸く口を放そうとした。しかし顎の関節が強ばっていて思ったように開かない。伊能は顎の下から長い指を差し入れ顎の関節を優しく撫でてくれた。おかげでやっとのことで口を引き抜いたが、全身が脱力状態になっていてその場に崩れ落ちそうになった。その体を伊能は両手を脇の下に入れてしっかりと支えてやると、くぐもった声でこう囁いた。

「帰ってきたらもう一度ゆっくりと話の続きをしよう」

 それが決して逃げ口上ではないことが陽子にはよくわかった。この人の言うことは絶対に信じよう。少なくともスタートラインにはつけてくれたのだ。陽子の目と鼻からまたしょっぱく温かい水が勢いよく流れ出た。

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